幻想か、幻覚か


 あれは幻想だったのか。朝に見たもの聴いたものは、ただの幻覚に過ぎなかったのだろうか。


 その日の昼休み、宗谷は校庭のベンチに腰掛け、ずっと考えていた。独りで、誰かに意思表示するでもなく、宗谷は首を横に振る。いや違うと。間違いなく、背広を着た中年の男は線路の上で助けを求めていた。確実に男はそこにいた。それは決して幻覚や幻聴などではなかった。


 だか、何故なのだろう。ホームにいた人々は線路の上にいる男の姿に、驚く素振りも見せなかった。というより、まるで男の姿が初めから見えていなかったかのようだった。


 実際、電車の走り去った後に、男の姿は無かった。屍体も、切れ端すら存在していなかった。


 とすれば、他の人間には、本当に男の姿が見えていなかったのだろうか。彼の姿を見ることができ、声を聞くことができたのは、自分だけということなのだろうか。あの時の状況を鑑みれば、そうとしか思えなかった。だが、それでは結局、自分は幻覚を見ていたということを認めてしまっているようなものだ。あれは幻覚などでは無いという確信と矛盾してしまう。


 チャイムが鳴った。宗谷は大きな溜息をし、教室へ戻ろうとベンチから腰を上げた。


 目の前に誰かが立っていた。よく見ると、宗谷と同じ年頃の少年だった。着ている制服で、この学校の生徒と解る。だが宗谷は今まで一度も、校内でその少年の姿を見たことは無かった。


「もう、駄目だ。もう俺は――」


 唐突に少年は言った。朝に聴いたのと同じ、頭の中に直接響いてくるような声に宗谷は思わず目を剥き、少年の姿を眺めた。少年の様子は普通とは言い難かった。顔は青ざめ、唇は震え、そのせいで語尾も掠れている。そして何より、少年の姿は透けていた。半透明だった。


 どうしたんだ、これは。宗谷は息を呑む。思わず、大丈夫かと、相手に声を掛けていた。


「大丈夫かって?」


 少年は口の端を引き攣らせた。しかしその眼は虚ろで、精気が抜けているかのようだった。両腕を小刻みに震わせ、少年は澱んだ表情とは不釣合いな早口で捲し立てた。


「大丈夫なわけ無いだろ。もう駄目だ。もう、もう我慢できないんだ。もう、すべてが嫌なんだよ。無理なんだよ。だから俺は――」


 不意に、少年は何かに気付いたように自分の両腕を見つめた。そして上空を仰ぎ見る。


「いや、待てよ。そうだ、もしかして俺は――そうなのか」


 そこまで口走ると、いきなり少年は走り出した。宗谷は少年の姿を目で追った。走りながらも、相変わらず少年は何かを口走っていたが、いつしかそれは絶叫へと変わっていた。


「もう、俺を縛るものは、何も無いんだ!」


 走り去る少年の姿を見送りながら、宗谷はその少年の姿が段々と薄くなっていくことに気付いた。彼は驚き、彼を呼び止めようとしたが、それより速く少年の姿は完全に消え、見えなくなっていた。


 突然のことに宗谷は呆気にとられた。それが夢想か現実かの区別もつかなかった。


 ●●


 朝から続く不可解な出来事は一体、何なのか。鮮明な幻想か、はたまた虚ろな現実なのか。


 宗谷の思考は、ずっとその事で占められていた。もはや教師や級友達の言葉は耳に入らず、しかし、いくら考えたところで答えが見つかるわけでも無かった。掌で液体を掬おうとでもするかのような、不毛さと、もどかしさ。あるべき答えは形無く、その全容を捉える事もできぬまま、指の隙間から滴り落ちてしまうかのような。何度やっても、何度試してみても。


「御影くん、大丈夫?」


 放課後、遠慮がちな声が宗谷を呼んだ。宗谷はそそくさと帰り支度をしていた手を止め、声のする方へと振り返った。立っていたのは同じクラスの女子、今里桜花だった。


 桜花は観察するかのように、宗谷の顔を覗きこんでいた。宗谷が思わず仰け反ると、桜花はそれにあわせて、やや幼げだが端整で可愛らしい顔を近づける。その動きに、彼女のポニーテールが小さく揺れ、それと同時に少女特有の芳香が宗谷の鼻先を掠めた。


「どうかしたの、今里さん。大丈夫って、何が?」


 宗谷は訊いた。その途端、桜花は何を思ったのか、上目遣いで宗谷を睨み付ける。 


「何を言ってるの、御影くん。あたし、ずっと心配していたんだからね」


 何のことを言われているのか解らず、宗谷は困惑した表情を浮かべるしかなかった。そんな宗谷の様子に桜花は眉をひそめる。少女の声が、心配しているかのような口調へ変わった。


「御影くん、もしかして覚えてないの? 今日の朝、駅で何か言っていたじゃない」


 その言葉に宗谷は狼狽えた。何故だ。彼女は、朝の出来事を知っている。彼は桜花の顔を見つめ、思いのほか焦った声で聞き返す。


「どうして、そのことを知っているの」


「やっぱり、覚えてないんだね」


桜花は呆れたように肩を竦ませる。


「まあ、あの時は、御影くんも、それにあたしも、かなり混乱していたわけだし無理もないとは思うけどさ」


 宗谷は朧気な記憶を辿り、気付いた。肩に残る感触が、耳に響いた叫び声が、脳裏に甦る。


「もしかして――今日の朝、僕を止めてくれた女の人は、今里さんだったの?」


 桜花は、やっと思い出したかとでも言いたげに頷く。そうだったのか、と宗谷は頭を掻いた。


「ごめん。あの時は、ちょっといろいろあって混乱してたから」


「本当にそうだった。御影くん、“線路の上には誰もいなかった”のに、凄い剣幕で叫んでたから、びっくりしたんだよ。一体、あの時はどうしたの? 何かあったの?」


 やはり、線路の上に蹲っていた男の姿は誰にも見えていなかったのだ。桜花の言葉に、今更ながら宗谷は思い知らされた。結局、自分は幻覚を見ていたにすぎなかったというのか。


「実は、よく覚えてないんだ。たぶんバイトとかで、疲れが溜まってたんだと思うんだけど」


 本当の事を言う気にはなれなかった。幻覚なのだから。自分にしか見えない男が、線路の上で助けを求めていた、などと言えば、桜花は信じないばかりか、呆れて怒りだすかもしれない。


「そう――」

 桜花は、まじまじと宗谷の全身を見つめる。

「疲れて、変な夢でも見たのかな」


「そうだね。でも、ありがとう。あの時、今里さんが止めてくれなかったら、危なかったよ」


「もう。ちょっと!」

 桜花の表情が俄に曇った。

「そんな怖いこと言わないで欲しいな。だって、“あんなこと”があったばっかりなんだからさ。あんまり思い出させないでよね」


「あんなこと――?」

 宗谷は小首を傾げる。

「それって何? 何の事を言ってるの」


「あれ、知らないの?」

 桜花は虚を衝かれたかのように、瞳を見開いた。


「一週間くらい前かな、あの駅で男の人が自殺をしたの。中年のサラリーマンで、仕事でトラブルが続いてノイローゼだったんだって。でもね、噂だとその人、線路の上に飛び降りた後で、いきなりね、“死にたくない”って叫びだしたらしいの。なんか怖いよね。だって、一時の気の迷いで、本当は死にたくないのに死んじゃうんだからさ」


「それは――本当のこと?」

 全身から震えが起こるのを必死で堪えつつ、宗谷は訊いた。


「もちろん。だから、余計に心配してたんだよ。――って、ねえ御影くん、聞いてる?」


 宗谷はへたりこみ、椅子へ腰を落としていた。桜花の声は、彼にはもう届いていなかった。

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