線路の上の男
少年は、荒廃した大地に立ち尽くしていた。
そこには視界を遮るものは何も無かった。それ故に空と大地の境界線が、遙か彼方でくっきりと水平に伸びているのが見える。空はひたすら闇に覆われ、星や月など、それらしきものすら見当たらなかった。代わりに見えるのは、無数の光の粒子が浮かんでいる様子。それは星よりもさらに小さい、点のようなものだったが、鋭さを感じさせるほど鮮烈な輝きを放っていた。
光の粒子は、少年が見ている前で次々と瞬き、地上へと降り注ぎ始めた。空の闇を斜めに裂きつつ地平線に突き刺さると、光は弾けて虹色の波動をまき散らし、大地を浸食していった。
それはさながら流星雨のようだった。少年は魅入られたかのように、光に朽ちていく大地を、そこへ止めどなく降り注いでいく流星とを見つめ続けた。
その時、ふと彼は気付いた。何十何百とある流星の、その内の一つがこちらへと迫ってきていることに。それ自身が少年に狙いを定めているかのように。寸分の誤差もなく、一直線に。
思わずあとずさる。逃げだそうとする。だが遅すぎた。身じろぐ間も意識する暇もなく、流星の光は少年を貫いていた。身体の芯から燃えるような痛みが湧き上がり、彼は悲鳴を上げた。
そこで、少年は眼を覚ました。
●●
何だったのだろう、あの夢は。
駅のホームで電車を待ちながら、御影宗谷は朝に見た奇妙な夢のことを思い出していた。
あのような異質な夢を見たのは、彼の十七年間の人生で初めてのことだった。まるで、本物の夜空を仰ぎ見ていたような鮮烈なイメージ。本当に自分の身体が流星に貫かれてしまったかのような痛み。夢の中での生々しい感触は、未だに彼の全身にこびりついていた。普段、迷信や占いの類を人並みに信じていない彼でも、あの夢は何かの暗示のように思えてならなかった。
よく通る女性のアナウンスが駅のホームに響く。目の前に停まっていた普通電車が、ゆっくりと動き出し、その青い車体がホームを離れていくのを横目で見送りながら、宗谷はコートの襟へと手をやった。まだ十一月とは思えぬほどに冷たい風が、遮るものの走り去ったホームに流れ込んでくる。彼は身を縮めて吹き荒ぶ冷気をやり過ごし、そして眠たげに眼を擦った。
そろそろ時間だ、と眼下の線路へ視線を巡らせる。毎日、普通電車が走り去るのを待っていたかのように急行電車が滑り込んでくる。彼はいつも、その電車に乗って通学していた。
「死にたくないんだ」
声が聞こえた。突然に。エコーのかかった男の声。宗谷の頭の中に直接響いてくる。と同時に彼は見た。背広を着た中年の男が手を振っているのを。線路の上に蹲り、叫んでいる姿を。
「本当は死にたくないんだ! すこし魔が差しただけで、死にたくはないんだ!」
何なんだ、この人は。宗谷は、突然のことに唖然としたまま、叫び続ける男の姿を見つめた。
急行電車の接近を告げるアナウンスが流れ、宗谷は我に返った。シルバーとオレンジにペイントされた鉄の車体が、遥か彼方から、しかし確実にこちらへと迫ってくるのが見えた。
このままだと、この人は轢かれる。宗谷は犇めく人々を掻き分け、咄嗟に身を乗り出した。
「すみません! 人が線路に落ちているんです! 非常停止ボタンを押してください!」
宗谷は叫ぶ。だが一瞬の沈黙のあとに彼が感じたのは、周囲の人々からの訝しげな視線だけだった。予想外の反応に宗谷は狼狽えた。何だ? どうしてそんな目で、こっちを見るんだ? 見るべきはこちらではなく、線路に落ちた人だろうと考えた瞬間、彼は強烈な違和感を覚えた。
何故、線路に落ちた人がいるのに誰も驚かず、声すら上げず、見て見ぬ振りをしているのか。
誰も、非常ボタンを押そうとはしなかった。多くの人々はホーム下を一瞥し、そして宗谷の方へ厳しい視線を向けるだけだった。彼は再び同じことを叫んだが、より厳しい視線を向けられただけで、そうしている間にも電車は接近していた。もはや一刻の猶予も無く、しかし自分で停止ボタンを押しに行く時間は既に無かった。こうなったら線路に飛び降りるしかないと彼は思った。それなら間に合う。宗谷は身体を投げ出そうとするかのように、白線を踏み越えた。
「ちょっと、何やってるの!」
若い女の声が背後から聞こえ、同時に宗谷は肩を掴まれた。咄嗟に彼は振り返り、叫び返す。
「何って、あの人を助けなきゃいけないでしょう。あの線路上で蹲っている人を!」
「何を言ってるの? よく見てよ。あんな所に、人なんていない。誰も居やしないじゃない」
女の反論に、宗谷は言葉を失った。眼を擦り、言われるまま線路の上を凝視する。だが、やはり男はいる。紺の背広。助けを求めるように振られる手。死にたくないという喚き声。間違いなく、そこに男は存在している。彼がそう再認識した、その時だった。
レールの軋む金属音がホームに響き、急行電車がホームに滑り込んできた。男の姿は、電車に飲み込まれて消えた。それは、ほんの一瞬のことで、声を発する暇すら宗谷には無かった。
電車はゆっくりと停止する。宗谷は呆然と、その場に腰を落とした。眼前で人が死んだ衝撃。男を救えなかった無力感。女が声をかけて肩を掴んでくれなければ、自分も巻き込まれたに違いないという恐怖。それらが決壊した堤防から溢れる濁流のように、心の中で膨らんでいく。
電車のドアが開いた。ホームの人々は次々と乗り込んでいく。何人かは宗谷を怪しむように一瞥したが、それでも声をかけるようなことは無く、皆そそくさと、関わりを避けるかのように電車の中へと消えていった。まるで初めから何も無かった、起こらなかったかのように。
ドアが閉まる。電車は静かに加速しつつホームから遠ざかる。彼を止めた女性も、他の乗客も先程の電車に乗ったのだろう。ホームには座り込んだままの宗谷だけが取り残されていた。
彼は錯乱しつつある意識の中でなんとか、急行電車の過ぎ去った線路上へと視線を動かした。
そこには、あるはずのものが無かった。轢断され飛散した男の身体も、細切れになった四肢や内臓も、血の跡すら見当たらなかった。何も、無かった。存在などしていなかったのだ。
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