白い少女の残留思念と魂喰らいの黒い獣

月影 梨沙

闇夜に散る鮮血


 幼い息遣いが、女の子の掠れた喘ぎ声が、闇夜に溶けていく。


 女の子は駆けていた。街を。瘴気に澱んだ都市の迷路を。網目状に張り巡らされた複雑怪奇な道を。溢れんばかりの人波を掻き分け、それらの放つ猥雑で止めどない喧騒に溺れそうになりながら、肩を揺らし、息を切らし、身に纏った布きれを、白のパジャマを激しく慌ただしく靡かせて、まるで何かから逃れようとするかのように、女の子は駆けていた。


 夜空は一分の隙もなく闇に塗り潰されていた。星の瞬きは疎か月の影すらも見えない。しかし、それらとは対照的に地面には様々な色が蔓延っていた。玉虫色の濁り。人々の撒き散らす汚物や腐臭の混じり合った色。アスファルトを覆うように沈殿した醜いそれは、通りに並ぶ電灯やネオンの灯りといった人工的で鮮やかすぎる輝きに細部まで容赦なく照らし出されていた。


 女の子は小学校の高学年くらいの年齢だった。都会の人混みの中にあって、明らかに場違いな白いパジャマを着たまま、しかしそんな自分の格好を気にも留めずに走り続けている。


 肩まで伸びた薄いグレーの髪が、人とすれ違うたび、僅かに揺れる。走り続けて息が上がっているのだろう。口元からは白い吐息が漏れ、身につけた純白のパジャマとあいまったその姿は、輪郭に至るまでもが白く映えて、澱み色褪せた街の中において明らかに浮いていた。


 女の子とすれ違った人々は皆、一様に振り返っている。雑多な街の空気からすれば、異質ともいえる風貌や雰囲気に、そして、その幼い顔に張り付いた決死の形相につられて。

だが、彼女に声を掛ける者はいない。救いの手を差し伸べようとする者は、誰一人として存在しない。


 どれだけの人間が集まろうとも、所詮それは他人の集まりだから。街とはそういうもの。自分が、自分の為に、自分と関係のある人間と折衝する為の場所に過ぎない。見ず知らずの他人が介在してくる余地はあり得ず、逆に自身が他人へ干渉することもまた、考えられないから。


 人の感情は伝染する。普段は揉め事の類を放っておけない人間であっても、“この街”においては周りの感情に、他人に干渉しないという法則に、原則に、同調せざるを得ないのだから。


 街の澱みに、沈殿する感情に呑まれてしまえば、誰であろうともそうなってしまうのだから。


 不意に女の子は立ち止まった。脱力したようにビルの壁にもたれ、両手で胸を押さえた。顔全体が紅潮し、肩で息をしている。人ごみに揉まれ続けて、体力の限界に達したのだろうか。


 その時、突然に女の子は声を発した。驚きに震えた悲鳴。顔を動かし眼を見開き、彼女は腕を見やる。か細い二の腕は掴まれていた。闇から伸びる浅黒い男の腕、その大きな掌によって。


 彼女は二の腕を掴んでいるそれを振りほどこうと咄嗟に藻掻く。だが大人と思しき相手の力には抗いきれなかった。小さな身体は為す術も無く引き寄せられ、何者かに取り押さえられた。


 彼女は視界を遮られ、蟻地獄に墜ちていく蟻のように、暗がりの中へと引き摺られていった。


 次第に周りから音が消えていく。女の子の身体は路地裏の奥へ奥へと吸い込まれていく。雑然とした街が遠くなる。そこは人の気配はおろか、音や風の動きすら感じられない沈黙の領域。


「――随分と、手間をかけさせてくれるな」


 領域の沈黙を破る、男の声。女の子を取り押さえ、口元を塞いでいる何者かの声に違いなかった。男は誰にも聞こえないように小さく、しかし低く重い声で、女の子へ言葉を投げていた。


 女の子は、その者の拘束から逃れようと足掻き続けていた。しかし強靭な体躯によって締め付けられた幼い身体は、震えのように僅かに動くだけだった。藻掻きながらも彼女は、自分を押さえつけている腕の隙間から周囲の様子を伺った。数人の大人が自分を取り囲んでいるのが見える。そして女の子は気付いた。自分を取り押さえている男の顔に、その醜悪な表情に。


 困惑と恐れが綯交ぜになったかのように女の子は顔を顰めた。自分を捕らえているその男の顔に見覚えがあるかのようだった。強張り震える声で、彼女は恐る恐るその男へと問いかける。


「あなたがここにいるってことは、あたしだけに狙いを定めていたんですか」


 男は問いかけには答えなかった。無言のまま手を伸ばし、男は女の子の頭を鷲掴みにした。彼女は突然のことに息を呑んだ。とても強い力だった。小さな身体が激しく揺れる。


 不意に、女の子の視界が割れた。彼女の後頭部が、コンクリートの壁に叩きつけられた衝撃。


 がぁっ、という女の子の呻きが、しんとした路地裏の空気を波立たせた。彼女の首筋が切れ、鮮血が迸った。血飛沫がパジャマに降り注ぎ、純白の生地に幾重もの赤い模様を滲ませる。


 男は、女の子の頭を掴んだまま、その掌に力を込めた。彼女の後頭部を壁に押付け、擦りつける。女の子は血に塗れながら、両手両足を懸命に動かして抵抗を続けた。だが、彼女の足掻きは、決死の抵抗は、男へ届くことなどなく、ただ無残に空を掠めていくだけだった。


 やがて女の子は抵抗をやめた。堪えきれない痛みからか、逃れることを諦めたのか。表情を覗けぬほどに深く項垂れ、痙攣する手足が、脱力したかのようにだらりと垂れる。震える唇から掠れた呟きが、途切れ途切れに漏れる。無念さに満ちた、涙声で。


「ごめん、ね。やっぱり、無理、みたいだ、よ──」


 男の太い指が、女の子の薄いグレーの髪を掴み、強引に上へと引っ張った。女の子の後頭部が壁から離れ、生暖かい鮮血が彼女の背中を染める。男の動作はわざとらしいほどに緩慢としていた。その空白は、彼女が死の恐怖と絶望を思い知るのには充分すぎる時間に違いなかった。


 女の子は呆けたように虚空を見つめている。そこに表情と呼べるものは無く、もはや彼女の感情は、人間としての許容を超えて、機能を停止しかけているかのようだった。抑揚のない声で女の子は呟き続ける。やがて夜の闇を映しだしていた彼女の瞳が曇り、波打つように歪んだ。


「約束は、守れ――そうに――無い。みんな――ごめん、なさい」


 女の子は眼を閉じた。瞼から雫が溢れる、その瞬間、鈍く湿った音がした。女の子の後頭部が、再びコンクリートの壁に叩きつけられた音。頭蓋が砕け、肉が潰れ、口や耳や鼻といった、頭にある穴という穴すべてから鮮血が噴き出し、辺りに飛び散る音だった。


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