いつでも二人

増田朋美

いつでも二人

朝から雨が降って、それでいて蒸し暑いという嫌な天気だった。それでは外へ出るのも嫌になりそうなくらい、蒸し暑かった。こういう季節は、誰であっても、考えがマイナスになってしまうこともあるが、一人でいるより誰かと一緒にいた方が、気がまぎれる、ということもある。そういう中で、バイオリニストの沢村禎子は、今日も息子の太君と一緒に暮らしていた。

その日も、禎子は一日バイオリンの練習をするつもりだった。何とかして、アマチュアオーケストラのコンサートミストレスの地位を取り戻さなければ。最近の禎子は、それに意欲を燃やしている。何とかして、昔のような、華やかな地位の自分に戻りたいのだ。私はこれでも、バイオリニストなんだもの。ベートーベンのクロイツェルソナタだって、ブラームスのバイオリン協奏曲だって、弾けるのよ。最近は、難曲と言える、パガニーニの24のカプリースにも挑戦している。もし、機会があれば、マックス・ブルッフのバイオリン協奏曲だって、弾いてみたいと思っている。

とりあえず、パガニーニの24のカプリースを練習していると、どんどんどん、どんどんどん、と玄関のドアをたたいている音がする。なんだと思って、禎子がドアを開けてみると、玄関には市役所の社会福祉局の人が立っていた。禎子は、この人たちが一番嫌いだった。

「なんですか、福祉関係のひとには、用はありませんけど。」

「ええ、用がない限り、こちらには来ませんよ。沢村さん。隣のお宅の方から、また赤ちゃんの泣き声が四六時中聞こえてくると、連絡がありましてね。」

と、福祉局のおじさんは言った。もうどうして隣のおばさんは、そういう風に私を悪人にしてしまうのだろう。

「放置しているって、私は、そんなことはしておりません。ただ、練習しているだけです。」

「そんなことないでしょう。沢村さん。隣のお宅の方から、苦情が出てますよ。一日中、バイオリンの音がなっていながら、赤ちゃんの声が聞こえてくるって。」

福祉局のおじさんは、格好つけたような感じで言った。

「私が、放置している?」

「ええ、ご近所から苦情が出ています。沢村さん、そうでなければ、私たちはここへ来たりしませんよ。ちょっと、家の中を拝見させてもらってもよろしいですか?」

福祉局の人は、またそういうことを言った。

「なんで、また人の家を覗くんですか?」

「そうですよ。虐待の疑いという、通報がありました以上、そうさせてもらわないわけにはいきませんよ。赤ちゃんを放置したまま、バイオリンの練習に夢中になっていたなんて、どう見ても虐待です。パチンコに夢中になって、赤ちゃんを車に放置した親と何も変わりはありません。もし、それがあまりにも続くようでしたら、私たちで保護させてもらうことも、考えていますけどね。」

「お願い、それだけはやめて!」

禎子は、びっくりして、そういうことを言った。

「沢村さん、そういうことを言うんでしたらね。もう少し、太君のことを見てやってくれませんか。一日中バイオリンの練習で夢中になってないで、太君のことを考えてください。一日中、バイオリンを弾いて楽しんでいる間、太君は、ミルクも何ももらえないで泣き続けているんですよ。」

と、福祉局のおじさんは言った。

「だから、私はこう言いたいんです。バイオリンの練習をする時間を減らして、太君と向き合う時間をもうちょっと増やしてください。このままだと、太君は、お母さんに愛されないまま、かわいそうな大人になってしまいます。」

「だから、私は、この子を愛していないとか、そういうことは考えたことはありません。ちゃんとミルクだって与えていますし、おむつだってちゃんと変えているんです。それをしているんですから、虐待だなんて言わないでいただけますか!」

沢村禎子はそういったのであるが、福祉局のおじさんは、そんな彼女を、バカにしているような、見下しているような、そんな目つきで見た。

「そんなことを言っても、あなたがバイオリンの練習に夢中になって、十分な育児をしていない。あなたは、養育というものが何なのかまったくわかっていませんね、沢村さん。もし、あなたがそういうことをちゃんと知っていれば、こんなに熱心にバイオリンの練習に精を出すことはしませんよ。」

「だってバイオリンの練習は、ちゃんとしなければなりません。そうしなきゃいけないのは、音楽家なら、当たり前のことじゃないですか!」

「沢村さん。そういうことを考えるから、育児ができないんじゃありませんか。そういうことは、やめるくらいの気持ちでいないと、太君は放置されたままになってしまいます。」

福祉局のおじさんが、そういうことを言っても、禎子は理解できない。なぜ?私は、バイオリニストとして、当たり前のことをやっているのよ。それが太をダメにしているというの?


「沢村さん、あなた、お母さんとの思い出とか、そういうことはありますか?」

福祉局のおじさんがそういうことを聞いてくるので、禎子は、

「ありません。」

と正直に答えた。

「それはなぜですか?」

「だって、父も母も仕事で忙しくて、ほとんど家にいませんでした。私にとっては、家に来てくれる、家庭教師の先生が、私のことを聞いてくれたような気がしましたわ。でも、それは、音楽家の家であれば、当たり前のことです。私の父も母も、そういう風に育てられたと言っていました。だから太だって。それでいいじゃありませんか。私だって、そう育てられたんですから。」

「いや、よくありません!」

福祉局のおじさんははっきりといった。

「私たちは、子供を守る立場として、そういう考えはよくないと思っています。今の日本で一番直さなければならないのは、昔はそうだったから今も同じだという感覚です。今の日本は、昔の日本とは明らかに違っている。その中で、昔とおんなじだと考えるのが一番危険だ。沢村さん、今すぐ、バイオリンの練習をやめて、太君のそばに一日いてあげること。これをしてくれると誓ってください。もし、してくれるようなら、今日はとりあえず帰ります。しかし、それが守れないようであれば、太君は、こちらで保護させてもらいます!」

「ええ、やって見せますとも。あなたたちに太をお渡しするわけにはいきませんからね。もう帰ってくれますか。また来てくれた時には、ちゃんとするようにしますから。」

禎子はむきになって、声を大きくしていった。

「じゃあ、しっかり太君を育てていって下さいよ。何かあったら、ちゃんと母親をやってくださいね!」

福祉局のおじさんは、そういうことを言って、大きなため息をついた。そのあと、今日は帰りますと言って、沢村禎子のアパートを出ていった。

禎子が、やれやれやっとうるさい人が帰ってくれたと、禎子は、再びバイオリンの練習に取り掛かろうとする。もう、あんな無駄な時間を過ごすなんて、まったく今日はついてないわ、と思いながら、バイオリンを弾き始めた。

すると、赤ちゃんの泣き声がし始めた。いつもの禎子なら、泣き疲れて寝てしまうまで、放置してしまうのだが、今日はそうはいかない。バイオリンをテーブルの上に置いて、太君のいる衣装ケースの前に行く。

太君は、確かに泣いていた。禎子が、はいはいと言って、衣装ケースから、太君を出してやると、すぐに泣き止んで、にこやかに笑った。なんだ、ただ抱っこしてほしかっただけか、と思って、衣装ケースに彼を戻すと、また泣き出すのだ。なんでまたそういうことを、するのかなと思うけど、太君は、涙を流して泣き出すのである。また衣装ケースから出せば、すぐに泣き止んでくれるのだが。

もうどうして、戻すとすぐに泣き出してしまうのか、禎子はよくわからなかった。単に、抱っこしてほしいと要求するのなら、一度かなえれば済むことじゃない。私が、子供のころは、ひたすらに我慢していた。父や母が一緒にいてくれたことなんて、週に一度くらいしかなかった。それでいいじゃないか、と沢村禎子は、そう思ってしまう。しかし、太君は、禎子が、じゃあ、おとなしくしててね、と言って、衣装ケースに戻そうとするとすぐに泣き出す。もし、言葉で理由を聞ければ、それに越したことはないが、一歳にもなっていない赤ちゃんに、そんなこと要求する方が、無理な話しだ。

太君を、禎子が衣装ケースにもどそうとすると、すぐに泣き出すので、禎子はとりあえず太君をテーブルの上に寝かせた。それで泣き止んでくれるかなと思ったが、太君はまだ泣いている。ミルクは、お昼に飲ませたし、おむつも同時に変えたばかりなのに。それに、紙のおむつであれば、何回か放置しても平気だろうに。禎子にはそれくらいしか育児の知識がなかった。だって、お母さんから、そういうエピソードを聞かされたこともない。

「ねえ、もうちょっと、バイオリンの練習をさせて。」

と、まだ言葉なんかわからない太君に、禎子は、そういって、またバイオリンのほうへ向かおうとしたが、太君は泣くばかりだった。もう、泣き止んでもらわないと、また隣のおばさんに通報されてしまう。どうしてこんなに泣いてばかりいるんだろう。私だったら、親が不在であっても、泣かないで我慢することができたはずなのに?

しまいには、それを無視してバイオリンの練習に移ってしまおうと思った。というか、いつもそれである。一度衣装ケースから出すと、太君はエスカレートしていくように泣き出すので、禎子は困ってしまって太君を放置してしまう。太君は、疲れて寝てしまうまで、泣き続けるのだ。

あーあもう!どうしたらいいんだろう!

「いい加減にしなさいよ!」

思わず禎子は、バイオリンの弓を太君に向けてたたきつけてやりたくなった。弓を鞭のように下ろそうとしたとき、太君と目があった。その顔は極めて真剣だった。そして、それは、申し訳ないという顔でもないし、悪びれた様子もない。ただ、お母さんに抱っこしてほしい、それだけを要求している顔である。

禎子は、太君に弓を振り下ろすのはやめることにした。

仕方なく、バイオリンを、ケースの中にもどし、そっと太君を抱き上げる。太君は、やっと望みが叶ったと分かったのか、静かに泣き止んでくれたのだった。禎子にとっては、大事なバイオリンの練習時間を取られて悔しいだけのことであったが、太君にとっては、お母さんと一緒にいられる大事な時間。二人とも、時間の意味は、違っている。問題は、それを、親子で共有できるかどうか、だ。

「どうして、バイオリンの練習を邪魔する、、、。」

そう言いかけて、禎子の言葉は止まった。太君はにこやかに笑っていたからである。

「そんなに、うれしいの?」

禎子は聞いた。もちろん、彼がそうだよと答えることはできやしないことは知っていた。でも、太君は、うれしいですと全身で答えを出しているような気がした。言葉というものは、本当に不完全だ。

「うれしい?」

太君にもう一回聞いてみたが、答えはなかった。太君は、安心したのだろうか、そのまま、禎子の腕の中で寝てしまったのである。

なぜか、禎子は、その腕を解いて、再びバイオリンの練習に戻ろうという気になれなかった。それより、太君をここで見ていてやりたい気がしてきた。バイオリンの練習は、あとでいいじゃない、今は、太が望んでいることをかなえてあげよう。彼女は、そう思って、太君の体を抱きしめた。

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いつでも二人 増田朋美 @masubuchi4996

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