片恋、ぬるま湯と雷
加卓りこ
片恋、ぬるま湯と雷
そーくん、と呼ぶと柔らかい笑顔で振り向くやさしいひと。
お母さんが、そう呼ぶから私も自然とそう呼ぶようになっていた。
物心ついたころから近くにいたそーくん。
18の私より15歳年上のそーくん。
そーくんより5歳年上の私のお母さん。
そーくんが生まれた時から、お母さんはお隣さん。
私が生まれた時からそーくんはご近所さん。
気づいた時から私はそーくんに恋をしていて。
そーくんもきっと気づいた時からお母さんに恋をしていたんだ。
好きな人だから。ずっと見ていると気づかなくてもいいことまで気づいてしまう。
そーくんの視線の先に誰がいるのか、お母さんによく似た私を見る時のそーくんの瞳が複雑に揺れるのも、知ってしまった。
「ふみちゃん、今日は?」
「お父さんと出かけてる。デートかな、きっと」
「そっか。相変わらず仲が良いんだね」
お父さん、デートという単語をわざと出す。そーくんの瞳がまた複雑に揺れる。
わかってたのに、きっと私の瞳も複雑に揺れていた。
「いずみは彼氏と出かけたりしないの?」
「いないよ。それに今日はそーくんとDVD見るって決めてたし」
そう言ってクッションを抱えたままソファの背もたれにぼすんと背を預ける。
そーくんは笑って空になりかけたカップに紅茶を足してくれた。
温かい紅茶は、何だかそーくんに似てる気がした。
こてん、と隣に座るそーくんにもたれかかる。
「いずみは相変わらず甘えん坊だなあ」
そう言いながら頭を撫でてくれる。
そーくんの大きな手は大人の手だ。
包みこんでくれるような笑顔も、大人の笑顔だ。
18歳ってまだ子供なのかな。
「……いつになったら大人になれるのかな」
「いずみは早く大人になりたいの?」
「……うん」
早く、そーくんの瞳に映りたい。
ふみちゃんの娘じゃなくって、桂木いずみとして、映りたい。
「俺はいずみが早く大人になっちゃうのは少し寂しいなあ」
「寂しいの?」
「うん。いつかいずみには恋人ができて、その人のところに行っちゃうでしょ。大人になってそのうち誰かと結婚しちゃうんだなーって思うと、おめでたいけど、……やっぱり寂しいな」
そう言っておじさんくさかったかな、と苦笑する。
「そんなのきっとないよ」
「そんなことないよ。好きな人ができたらきっとすぐ変わる」
「…………好きな人、いる、し」
「えっ、いずみ好きな人いるの?」
「……いるよ」
今、私の隣で驚いているよ。
口には出さず呟き、そーくんをじっと見るけど、そーくんは気づかない。
それくらい、そーくんの中では、想像することのないことなんだ。
そーくんにとって私はまだ子供すぎてそういう範疇に入ることができない。
「そうなんだあ。そっかあ。いつか教えてほしいな」
「…………うん、いつか、ね」
きっと、言う時は、いわゆる告白の時で。
言ったらきっとこの関係も時間も終わってしまう時で。
困った顔のそーくんが簡単に想像できてしまって。
私は、一歩を踏み出せずにいる。
この、ぬるま湯にいるような、居心地の良さに甘えて。
いつかそーくんだって、お母さんを諦める時がくるかもしれないってわかってる。そしたら恋人ができて、結婚だってするかもしれなくて。
始めることすらできないのに、終わりが怖くて。
ぐずぐずと、想いだけを温めている。
他の人を想うことなんて一度もできなかった。
当たり前みたいに、そーくんが大好きで。
この声を聞く度。手の温もりを知る度。微笑んでくれるそーくんの傍にいればいるほど、好きになっていく。
DVDのエンドロールに差し掛かる頃、窓の外で雨の音が聞こえた。
雷まで鳴っていて、二人してびっくりする。
「今日って雨の予報だったっけ?」
「ううん、違ったと思うけど……」
「すぐやむかなあ。いずみ、もう少しうちにいる?今帰るの大変そうだよ」
「うん、そうする」
できることならずっと。
雨がやまなければいいのにと、思ってしまう。
少しでも長くそーくんと同じ空間にいたかった。
一緒にいられる口実をいつだって探してる。
「雷、あんまり好きじゃない」
身を縮こまらせ、クッションに顔を埋めてそう言うと、そーくんは大丈夫だよと優しく言ってくれた。
そーくんの手がぎゅっと握った私の手に重ねられる。
大丈夫だよ、と繰り返して重ねた手を撫でてくれる。
この、温もりが。
全部私のものだったらいいのに。
独り占めしたい。
……ああ、このひとが欲しいなあ、と湧き上がってくる想いに、呼吸困難にも似た息苦しさを覚える。
かたく口を結んで、ただひたすら俯いていた。
そーくんは何も言わず、ただ優しく撫でてくれていた。
雨は、まだ、やみそうになかったーーーー。
片恋、ぬるま湯と雷 加卓りこ @kitamoto
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