第6話 七時〇三分

 東京はどこもかしこも人の山だった。花火大会にはしゃぐ浴衣姿の若者たちが、煌びやかな東京の夜に華を添え、大都会の名に恥じない賑わいだった。

 この全てが一瞬で消えるなんて、あるわけがない――そう思いたくても、脳裏にチラつく『未来』の姿が、俺を絶望の底に引きずり戻す。「まだ、間に合う」という男の声が、頭の中で何度も何度も響いていた。それに突き動かされるように、電車を乗り継ぎ、ホームを走り、俺は東京を駆けた。

 そうして辿り着いた押上駅のコンコースを駆け抜けると、やがて、人だかりの山の向こうに、悠々と聳え立つ白い塔が姿を現した。

 青い光でライトアップされたそれは、東京の夜空に高々と切っ先を伸ばして佇んでいた。足元から見上げると、そのさまは美しくも威厳があって、神々しささえ感じられた。

 ただの電波塔だってのに。そこまで崇めたくなってしまうのは、そこが自分の最期の場所になる、と分かっているからだろうか。


 四階でエレベーターに乗り込むと、三四〇階の展望デッキまで、俺の心の準備もままならないうちに、エレベーターはあっという間に駆け上ってしまった。静かに扉が開かれると、ぼんやりとした青い照明が照らす展望デッキに、入場者がひしめき合っていた。

 それまで見ないようにしていた腕時計をちらりと一瞥した。六時五十五分。なんとか間に合ったが、余裕はない。


「夏希!」


 焦りに狂いそうになりながらも、必死にその名を呼んで、展望デッキを駆け回った。夜景なんか目に入ってこなかった。ただ、その姿を捜した。もう一年ぶりになる、彼女の姿を。

 スタッフの注意も無視して、何度、彼女の名を叫んだことだろうか。

 カップルの群れの中、一人でぽつんと窓の外を眺める寂しげな後ろ姿があった。すらりと長身で華奢な体つき。相変わらずの艶やかな長い黒髪。見覚えがある。見間違うはずはない。


「夏希!」


 ひときわ大きな声で叫んで、彼女のもとへと駆け寄った。

 東京の街が、足元に光の海となって広がっていた。こぼれ落ちた砂金のように、散りばめられた数多もの小さな光が燦然と輝いている。そんな景色の中で、彼女はゆっくりと振り返った。

 彼女の肩を滑り落ちていく髪の一本一本の動きさえ、はっきりと見えるようだった。いつの誕生日だったか、俺が贈った蝶のピアスが耳元で光を散らしながらわずかに揺れていた。まるで、ほかに誰もいないかのような錯覚に陥った。静かで穏やかで、時の流れさえ感じなかった。

 愛嬌のある大きくぱっちりとした目を瞬かせ、ふっくらとした唇を子供のようにぽかんと開けて、彼女はこちらを見ていた。化粧のせいか、少しきつい印象になった。でも、素朴な感じは変わってない。


「来てくれたんだ」


 彼女は顔を歪めて、泣いているのか、笑っているのか、よく分からない表情で言った。


「来ないと思ってた」


 本当に、期待していなかったんだろう。ずっと、不安だったに違いない。冗談っぽく言うその声はひどく疲れていた。

 それでも、待っていてくれたんだ。一人でずっと、こうして夜景を眺めて。


「ごめん」


 その一言で済まされることではないとは分かっていても、もうそれしか言えなかっ

た。

 七時〇三分。

 もう時間がないから。だらだらと懺悔の言葉を並べる猶予も残されていない。

 夏希の傍に歩み寄り、俺はその細い身体を力いっぱい抱きしめた。


「ちょっと……どうしたの、急に?」

「大丈夫」さらにきつく夏希を抱きしめ、俺はぐっと瞼を閉じた。「一瞬で終わるから」

「終わるって、これからじゃ……」


 そして、次の瞬間。

 閉じた瞼に赤い光が焼き付く。これで終わるんだ、と思った。

 ドン、と爆音が鳴り響く。あたりがどよめき、


 「きれい」


 誰かがつぶやいた。

 きれい? 

 なぜだろう、いつまでたっても爆風も熱もなにも来やしない。何度も爆音は聞こえてくるのに。想像していたものとは程遠い。周りからは、悲鳴とはかけ離れた感嘆の声が聞こえてくる。


「あっちゃん」と、穏やかな夏希の声がした。「目、開けなよ」


 もう、あの世なんだろうか。あっけない。死ぬのって、こんなものなのか。

 困惑しながらも、夏希に言われるまま、瞼を開く。


「間に合ってよかったね」


 柔らかに微笑む夏希の顔は、確かに、天使とかそういうものを連想させるものだった。


「見て」と、夏希は視線を横にずらした。「ほら、花火が下に見えるんだよ」

「花火……?」


 ハッとして、夏希の視線を追うと――。

 眼下に広がる光の海に、色鮮やかな花が咲き乱れていた。火の粉の花びらを散らして、一瞬にして消えていく。次から次へと、惜しみなく、その輝きを街に焼き付けて。

 慌てて腕時計を確認する。――七時〇六分。

 ふらりと足の力が抜けて、その場に座り込んでいた。


「あっちゃん? どうしたの、大丈夫!?」


 ああ、くそ。バカじゃねぇの。

 俺は目元を手で覆い、うつむいた。あまりにホッとして、涙が出そうだった。


「なんだよ」と、俺は皮肉をこめて鼻で笑った。「すげぇきれいじゃん」


 クスリと笑う夏希の声がすぐ隣から聞こえてきた。


「来てよかったね」


 勝ち誇ったように言う夏希に、完敗した思いで俺は苦笑した。

 東京は消えなかった。夜空には火の大輪が舞い踊り、人々は歓喜に沸いた。なんでもない。蒸し暑い夏の夜だった。

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