第3話 日本兵

 ちょうど、予備校のビルを出ようとしたときだった。突然の豪雨が降り注いできた。他の予備校生たちが「最悪」だの「どうしよう」だの漏らし、入り口で立ち往生する中、俺は濡れるのも構わず、外に出た。

 一瞬で靴の中までびっしょりと濡れた。一歩踏みしめるごとに、濡れたスポンジを握りしめるように靴底から水が浸み出すのを感じた。もはや、靴を履いていようが脱ごうが変わらない気がした。

 ざあざあと容赦なく降り注ぐ雨を見上げると、雨雲に覆われた空は不気味なほどに黒ずんで、時々、雲の間を走る稲妻が猛獣の咆哮のような轟音を鳴り響かせ、龍でもいるんじゃないか、とすら思わせた。

 予備校を出る前、ちらりと見た時計はもう四時を回っていた。花火大会は七時から八時半まで。新幹線でここから東京までは二時間。今から急げば、なんとか花火大会には間に合うだろう。――今から急げば……。

 頭の中でそんな計算をしながらも、重々しく進む足は、駅とは逆方向へ、自分の住むアパートへと向かっていく。

 自分でも分からなかった。自分がどうしたいのか。今夜に限ったことじゃない。夏希とのこと。このまま避け続けて、俺はどうしたいんだ。

 俺はいつも夏希を待たせてきた。受験のことも。大学生になったら――なんて、いつになるかどうかも分からない約束もしてきた。たまに帰省してくる夏希からの誘いも、ギリギリまで返事を待たせて断ってきた。それでも、夏希は待ってくれてた。今日だって、夏希からの確認の連絡はない。そうやって、いつも待っていてくれるんだ。そんな夏希に、俺は甘えてきたんだろう。

 でも、いつまで、待ってくれる? こんな俺に、もう夏希だって愛想をつかしているかもしれない。

 はたりと足が止まった。

 金井の「受験じゃねぇんだ」という言葉が、ふいに脳裏をよぎった。

 そうだ、今夜が最後のチャンスってことも――。

 そのときだった。

 ひときわ眩い稲光りが辺りを昼間のように照らし、耳をつんざく爆音が町中にこだました。

 その閃光が照らした景色の中に、俺は思わぬものを見つけて息を呑んだ。

 路地に並ぶ電柱の一つ。その陰で、男がぐったりとした様子で座り込んでいたのだ。

 その男の格好が異様だった。服は元の色が分からないほどに泥で汚れ、丸いヘルメットに、双眼鏡を首から提げ、手にはエアガンだろう、ライフルを握りしめている。ゲームとか映画とかで見たことあるような格好だった。


「日本兵かよ」


 心臓の高鳴りを自分でごまかすかのように、俺は嘲笑まじりにそうつぶやいていた。

 ミリタリーオタクか、何かのゲームのコスプレか。しかし、なんで、こんなところで座り込んでるんだ? まさか、本物の自衛隊の人、てことはないよな。

 気味悪く思いつつも、そうっと歩み寄り、様子を伺う。

 うつむいているせいでよくは見えないが、ヘルメットの陰からのぞく男の頬はやせこけ、顎から首のあたりまで火傷の跡と思われるケロイドが広がっていた。

 特殊メイク? 何かの撮影? ドッキリ? いや、でも、それにしても――と、俺は手の甲で鼻をかばうように覆った。生ぬるい湿った空気の中、漂ってくる匂い。腐った牛乳が染みた雑巾のような……そんな不快な匂いだった。

 火傷も、匂いも――あまりにもリアルで、そのまま見過ごすこともできなかった。かといって、声をかける勇気も出ず、俺は助けを求めて辺りを見回した。しかし、この大雨のせいか、誰一人として通りがかる様子はなく、俺は男の傍で呆然と立ち尽くした。

 もしかして、雷にでも打たれたんだろうか、なんて考え出して、意識があるかだけでも確認しよう、と男の顔を覗き込んだ。

 ――その瞬間、俺はぎょっとして固まった。

 黒ずんだ目蓋の下で、ぎょろりと今にもこぼれ落ちそうな目玉が俺を見つめていた。

 夏だというのに、凍りつくような冷たい風が背中を撫でていったようだった。

 思わず、あとずさろうとした脚がもつれ、俺はその場に尻餅ついた。

 そんな俺を、男は観察するようにじっと見つめていた。身体が恐怖にからめとられたようだった。身動きも出来ず、言葉も出ない俺に、


「どうなってるんだ」


 独り言なのか、俺への問いなのか、男はぽつりとそうこぼした。

 男はキョロキョロと辺りを見回すと、「なんなんだ、これは」と困惑した様子でつぶやいた。「死んだ」だの「あの世」だの不吉なことをぶつぶつ言ってから、やがて、ぴたりと動きを止めて「まさか」と震えた声を漏らした。


「今日は何日だ!?」


 いきなり、男は身を乗り出し、俺の両肩を力強く掴むと掠れた声を張り上げた。


「何日って……」


 なんなんだ、いったい。こんな格好で、そのうえ、まさか記憶喪失なんていうんじゃないだろうな。面倒なことになってきた、と思いつつも、あまりに必死な男の気迫に押されるように「七月二十五日……ですけど」と答えていた。

 俺の肩を掴む男の手から力が抜けていくのを感じた。


「本物だったんだ」と男は感極まったような声でつぶやいた。「叶ったんだ」

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