第1話 今夜、スカイツリーで

「そういや、アツシ。今日だよな、東京行くの」


 静まり返った休憩室に呑気な声がこだました。

 休憩室といっても、自販機があるだけで自習室と変わりない。こぢんまりとした部屋にまばらに置かれた丸テーブル。そこに皆で集まって和気藹々と話すわけでもなく、一人で缶コーヒー片手に参考書を睨みつけている奴らばかりだ。そんなところで、よく大声を出せるもんだ、と神経を疑った。

 俺は「声、でけぇよ」と注意した。

 テーブルの向かいで踏ん反り返って座る男。だらしなく伸ばした髪を、サッカー選手でもないのに細いヘアバンドで止めている。髪が邪魔になるほど、勉強している姿など見かけたことはない。ファッションにしても似合っていないから、見ていると腹が立ってくる。

 金井かない広志。俺と同じ時期からこの予備校に通い出した男だ。つまり、三浪中。親が開業医で、跡を継ぐことになっているらしいのだが、てんで真面目に勉強している様子はない。受かる気があるのか甚だ疑問だ。


「一年ぶりなんだろ、会うの」と、金井は声を落とすわけでもなく、続けた。「夏希ちゃん、楽しみにしてんじゃねぇの?」


 なにが『夏希ちゃん』だ。会ったこともないのに、馴れ馴れしいことこの上ない。俺は目を逸らし、「ああ、まあ」と曖昧な返事をした。すると、


「まさか、またドタキャンする気か?」仕方ねぇ奴、とでも言いたげな憫笑を浮かべて、金井は分かったような口を利く。「行きたくねぇなら、誘われた時点で断ればよかったじゃん」

「当たると思わなかったんだよ」


 丸テーブルに頬杖ついて、俺はぶつくさ言った。


「ああ、スカイツリーの特別入場券……だっけ? たしかに、驚いたよな。倍率、百倍なんだろ? 東北大なんて、倍率三倍だってのに。お前、運を使う場所、間違ってるよな」


 くつくつ笑う金井は、実に楽しそうだ。そののっぺりとした顔を殴りたくなる。

 隅田川の花火大会をスカイツリーから見下ろせるんだって――そう夏希からラインが来たのが、たしか、先月だった。特別な入場券があって、花火大会の時間帯にスカイツリーに登って花火を眺めることができるという。当然、俺は興味がなかった。でも、いちいち、言葉を選んで断るのも面倒で、倍率が百倍を超えるプレミアチケットだと聞いて、オッケーしてしまった。

 お互い、二人分のチケットを申し込めば、当選する確率も二倍になるから、と夏希に頼まれ、当たるはずもない、と踏んでウェブで申し込んだら、どんな因果の嫌がらせか、二人とも当選してしまった。結局、プレミアチケットが四枚も手に入ってしまった。


「せっかくだし、行ってこいよ」と、しつこく金井が説得してくる。他人事だと思って、おもしろがりやがって。

「そこまで言うなら、お前も来いよ。チケット余ってるし、やるよ」

「いやいや。展望デッキで待ち合わせなんだろ? そんなロマンチックな場面に、俺がいちゃ、おかしいだろ」


 確かに、とその光景を想像して笑いそうになったときだった。


「マジで、行かないわけ」


 金井は急に声を低くし、そう聞いてきた。それまでとは違う、年相応の落ちついた声色で。


「見栄か」


 涼しい顔でこちらを見据え、同意を求めるようでもなく、からかっているふうでもなく、ただ確信をもって金井はそう言った。何か言い返したくても言葉が出てこなかった。図星――そんな単語が頭をかすめた。


「よく考えて決めろよ」ガタッと音を立て、金井は席を立った。「受験じゃねぇんだ。二浪も三浪もねぇぞ」


 俺の返事なんて期待していないんだろう。軽い調子でそう言い残し、金井は休憩室から去っていった。

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