“ひと斬り新兵衛”
鋭い風切り音と共に、暗闇が一段濃い黒の軌道に切り裂かれる。
海中から現れた無数の太い鞭のようなそれは、触手だった。
「“氷惨”! “氷惨”襲来! 垂りのモウジャブネだ!」
古川の中で現実が急速に遠のいていく。
「あれが、潜血型……」
触手の一本一本が、幼い頃見た“氷惨”と変わらない巨大さだ。五感が消えていく中、自分の歯の鳴る音だけが煩わしく響いた。
「邪魔だ、糞餓鬼!」
肩に感じた硬質な痛みで、我に返った。
古川を突き飛ばして、前方へ逃れようとした乗組員の頭上に黒い影が迫る。
「あ、危ない!」
古川の声に振り返った男の顔が、赤い血煙になって霧散した。
頭部を奪われ、制御を失った身体を、触手が海に引きずり込む。
「砲撃、開始!」
補陀落船の腹が開き、砲身が現れた。爆音とともに発射された防弾は、暴れ狂う触手に叩き落とされ、飛沫になって消える。
船上はすでに断末魔と、 しなる触腕が立てる風音が響き渡る、地獄絵図と化していた。村田銃を構えた軍人が弾を込める間に、首や腕をへし折られ、あてもなく逃げ出そうとした者が無数の黒い腕で海中に引き込まれた。
かつて、古川を背に庇い、あの化け物を斬せ伏せた英雄は今、ここにはいない。
血で滑る甲板を這いずって、古川は凍刃の元へ向かった。“氷惨”を斬り伏せると言った、あの男に刀を届けなければ。
箱に縋りつき、凍刃が指先に触れたとき、鋼の帯に似た硬い蔓に腹を締めつけられた。
声を上げる間も無く、古川の視界は逆転した。
目を見開いた乗組員たちの顔貌が逆さに映る。
吹きつける雪と波の飛沫が、思考を冷やし、死が眼前に迫るのを感じた。
垂りのモウジャブネに吊り上げられながら、掠れる声がひとりでに漏れた。
「誰か……」
視界が強く揺れ、古川は水面に叩きつけられた。
鋼鉄で全身を打たれたような衝撃に次いで、冷たい海水が全身を刺し、潮が目、喉、鼻へ容赦なく潜り込む。
苦痛にもがきながら、自分が右手に握った凍刃が泡の中で白く光った。
沈む。
自分も、受けた使命も、この傑作も。
そう思った瞬間、くぐもった破裂音とともに水面が泡立ち、古川は再び海上に引き上げられた。
モウジャブネの本体を、砲弾がかすったらしい。
酸素を取り込もうと喘ぐたび、飲み込んだ海水が肺の中で暴れて、強烈に痛む。
「誰か……」
腹部を物凄い力で締め上げられ、水を吐きながら、必死で叫んだ言葉が、自分でも信じられなかった。
「誰か、刀を、あのひとに……!」
指先から力が抜け、<ツルマル>が零れ落ちる。
「よく言った!」
声とともに、隼のような影が滑るように船上を駆け抜け、落下する凍刃を受け止める。
<ツルマル>を手にした宜振が、だらりと両手を垂らすように構え、真っ直ぐに刀を突き上げた。
ひっ先は分厚い外皮を貫き、悶絶するように触手がうねる。
古川は宙に投げ出され、甲板に転がり落ちた。
血と肉片、ごっそり抜け落ちた毛髪が絡まる床に手をつき、その場で嘔吐した。
背中に暖かい手の感触を感じて、顔を上げると片手で刀を構えた宜振が立っている
「大丈夫かぁ」
答えようとしたが、潮と胃液の混じった苦い汁が口の端から糸を引いただけで声が出なかった。
海面から再び触手が現れ、怒りで我を忘れたように暴れ狂う。
宜振は振り下ろされた腕を<ツルマル>で防ぎ、腰に帯びた己の刀で横から薙いだ。
キン、と冷たい音が響き、真ん中から折れた日本刀の刃が弧を描いて甲板に突き刺さる。
「やっぱり、硬ぇか」
宜振は凍刃を構えたまま、古川を抱えて後方に飛び退った。
「雄平、殺れぇ!」
宜振は抜き身のまま<ツルマル>を放った。
船の中央で交戦していた雄平が、弾かれたように駆け出す。
真空を跳ぶ針のように伸ばされた手が、柄を捉えた。
雄平はそのまま頭上に凍刃を構えた。
目の前に“氷惨”など存在しないかのように、彼は薄く目を閉じ、深く息を吸い込み始めた。
鳴り続ける悲鳴や砲撃音を縫って、遠い吹雪のような細い呼吸の音が聞こえる。
「刀匠さん、耳塞いどけよ」
宜振の言葉を聞き返す前に、鋼の鋸で鉄を無理やり引き裂くような鋭い絶叫が響いた。
目の前の寡黙な男から、それどころか、人間の喉から発せられた声とは思えない、強烈な咆哮だった。
音の刃に断ち切られたように、“氷惨”の触手が両断される。
持ち主から切り離された腕が宙を舞い、青い鮮血が間欠泉のように噴き上がった。
蒼白な顔と白銀の刀身を青く染め、雄平は言葉を失って立ち尽くす船員たちを振り返った。
「ないしちょっとか、がんたれども!
言葉はわからずとも、気迫に押された男たちが、刀や銃を握り直す。
砲撃が再開され、船体に絡みついていた触手が剥がれ落ちていく。
罪人たちは、ある者は残った“氷惨”の腕を海へ押し返すため、またある者は負傷者を助け起すため動き出した。
雄平は目を細めてその様子を眺めてから、刀を濡らした青い血を着物で拭い落とし、足元に転がった鞘を拾って納めた。
血脂で濡れた床を踏みしめながら進み、古川の前で立ち止まると、片手で凍刃を差し出した。
「刃こぼれはしてないが、手入れのやり方があるんだろ。俺にはわからん」
宜振に肩を叩かれ、古川は立ち上がって刀を受け取る。
鞘から抜くと、砲弾すら叩き落とした硬い外皮を斬ったのと関わらず、刀身には傷ひとつなかった。
「わっぜかだれた……」
雄平は別人のように暗く力ない声で呟き、粘つく髪や肌を袂で拭う。
古川は凍刃を握り締めながら、この方言を聞いたことがあると思った。
江戸で見かけた、薩摩藩士の言葉だった。
そして、あの剣技も薩摩由来のものだ。
「
古川は呟いた。
口数を抑えていたのも、お国言葉から流派がばれるのを防ぐためだろう。
けたたましい猿叫で敵を牽制し、天高く刀を掲げる蜻蛉の構えから強烈な一撃を叩き込む独特の剣術。その威力は、相手の防御の構えすら貫き、刀ごと頭蓋を砕くこともあるという。
新撰組の間ではこう言われた。
“薩摩の初太刀は受けるな。”
それほどまでに隊士たちを恐れさせた剣士の名を、古川は知っていた。
「土佐勤王党、薩摩藩士、田中新兵衛雄平。貴方は、ひと斬り新兵衛、ですか……」
雪と水飛沫の霧が晴れ、その間から一段明度の高い白の朝日が覗く。
目の前の男は逆光を背に受けながら、記憶の中の英雄とは微塵も重ならない、獰猛な笑みを浮かべた。
※標準語訳
「ないしちょっとか〜」→「何してるんだ、役立たずども! 兵士なら泣くより果敢に立ち向かえ」
「わっぜか〜」→「本気で疲れた……」
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