破・垂り
宮線を添ふ
氷と同じ色をした分厚い雲から、朝日が雫のように滴り落ちる。
切支丹の言葉では、天使の梯子と言うそうだ。
神を信じながら神から見放された信徒たちの上にも、神の使いが降りてくるのだろうか、と古川は思う。
補陀落船が寄港した島原の浜辺は、波の花に混じって死体と血潮が浮かんでいた。
宜振が折れて甲板に突き刺さった脇差の刃を引き抜いた。
「おぉ、真っ二つだ。こいつは使えねえや」
誰に言うでもなく呟いて、宜振は刀身を鞘に入れた。
口調に反して、仲間の亡骸に触れるような慈しみを感じる手つきに、古川は思わず目を奪われた。
港に上陸すると、薄く積もった雪が草履の下で儚い音を立てた。
少し離れた場所で、遠巻きに罪人たちを眺めているのが見える。
畏怖とも軽蔑ともつかない視線を物ともせず、先頭を歩いていく雄平の影に隠れるように、古川は役人たちが示す建物へ足を進めた。
建物は雪で作ったかまくらのように丸い胴体から突き出すように、細い尖塔がついている。
村人たちが開けた扉を潜りながら、雄平が「“えけれしや”か」と呟いた。
「それはポルトガル語ですね。私たちは教会のことを“チャーチ”と呼んでいます」
奇妙な抑揚を持った女の声が響いた。
等間隔で並ぶ長椅子の間に年若い女が立っている。
肩まである髪と、眠たげな瞼の奥の瞳は透けるように色が薄く、西洋の人間であると一目でわかった。
雄平が素早く飛び抜き、鯉口を切る。
「やめえ、新兵衛。そがあことしよったら喋れるもんも喋れんがよ」
宜振がかぶりを振った。雄平はわずかに眉をひそめてから、刀から手を離したが、視線は女から離さなかった。
教会の中に収まった罪人たちは、訝しむような視線を一斉に彼女に向けた。
女の顔には困惑が見て取れたが、血と泥に汚れた男たちに囲まれて覚えてもおかしくない恐怖はないようだった。
まだ十八、九に見えるが、場数を踏んでいるのだろうと古川は思う。
女の横に並んだ役人が一、二言交わし、女が頷く。
「Can I talk? well……I try to say……」
女は流れるような英語で呟いてから、少し俯き、顔を上げた。
「すみません。隊員から少し習ったんですが、日本語、まだ喋れなくて。」
女は村娘のような仕草で眉根を下げると、辺りを見回して、小さく深呼吸した。
「あたしはネモ。第一次長期北極遠征隊・ノーチラスの隊員、ネモ・ピルグリムです」
罪人たちの半分は理解が及ばないのか疑問の声を上げ、もう半分が驚愕に息を飲んだ。
「世界政府……」
古川の言葉に、宜振が苦い笑みを浮かべた。
「あのお嬢さんが、ねえ」
「まずは皆さん、危険な任務に赴いてくださってありがとうございます。知っての通り、あたしたちは武器が足りない。人手も。だから、あんまり長くはここにいられないんですけど。後から増援を出せると思います」
ネモ・ピルグリムはすでに世界政府の一員としての顔を取り戻したように、落ち着いた口調で述べた。
「皆さんにやってもらうのは、“氷惨”を討伐して、雪花鉱を採取してもらうこと。そして、凍刃を作ってもらうことです」
ネモ・ピルグリムはそう言って足元に置いてあった、二対の桐箱のような容れ物を掲げた。
役人に呼ばれ、古川は前に進み出る。
目の前で箱が解錠され、ふた振りの凍刃が現れた。
古川は言われるままにそれを手に取り、見聞した。
「真作だな」
確かな手触りに古川は首肯を返す。
「こちらは日本で製造された凍刃、≪ライキリ≫と≪カセン≫です。それぞれ太刀と打刀を模しています。承認していただけますか」
「承認します」
役人の言葉にネモ・ピルグリムが短く返し、再び罪人たちに向き直った。
「皆さんにはこの凍刃の原料になった“氷惨”よりもっと強いものと戦ってもらうかもしれません。スラヴァ……ええと、日本語だと栄光個体の可能性もあります。すごく強いってこと」
彼女の危うげな口調に笑うものはなく、静かなざわめきだけが起こった。
「報告に寄ればストランド……駆導型の“氷惨”らしいです。らしいっていうのは、実際遭遇したっていう日本の民間警備会社の海援隊が、その報告以降行方不明だからです」
罪人たちの中央に立つ宜振の目が、眼窩から溢れそうなほど見開かれた。
古川以外にそれに気づくものはなく、ネモ・ピルグリムは言葉を続けた。
「これはあたしたち世界政府のためだけじゃない。皆さんのいる日本を、そこにいる家族とか友だちの皆さんを守ることにも繋がります。だから、どうかよろしくお願いします」
彼女はそう言って、一礼した。
役人が手を叩いて、罪人の視線を集め、これからの動向について語り出す。
教会の中に満ちる謙遜に掻き消されそうな小さな声で、ネモ・ピルグリムが古川に呼びかけた。
「ここにいるのはみんな囚人?」
「はい」
「あたしの船にいるのは
そう言って彼女は少女らしい笑みを浮かべたが、古川は言葉の意味がわからず曖昧な笑みを返した。
「あなたも?」
「いいえ、自分は……刀匠です」
刀匠を示す単語が英語にもあるのか悩んだが、ネモ・ピルグリムは意図を理解したように頷いた。
「トーショーか。ムラマサさんがいれば話が合いそうなんだけどな。日本人だし。でも、今はアラスカで––––」
「センシ=ムラマサですか!?」
話を遮った古川の勢いに押され、ネモ・ピルグリムが目を丸くする。
「そう、ムラマサ氷等一尉。知ってます?」
言葉が喉の奥につかえるのを必死で絞り出した。
「昔、会ったことが。助けてもらいました。自分の、英雄です」
遠くで役人が呼ぶ声がする。
戸惑う古川に、ネモ・ピルグリムは微笑を浮かべた。
「伝えておきます」
頷くのが精一杯だった。
もはや神話の中の存在のようだった、ムラマサの姿が急に実像を持って、自分に線を結んだのだ。
古川は凍刃の箱を抱えて、役人たちの元へ向かいながら、子どものように気分が高揚するのを感じた。
話し合いを終え、教会の外に出ると、宜振が煙管をふかしていた。
「大変だったな。いや、大変なのは俺もお前さんも一緒か」
宜振は古川を見とめると、歯を見せて笑った。
「栄光個体だとさ。一匹で村が焼け野原に……いや、雪原って言った方がいいか。とにかく真っ当な人間じゃ太刀打ちできねえって評判だぜ。実際、維新の英雄どももやられちまったかわからないしな」
古川は歩み寄って、煙管から細く流れる煙を眺めながら、言葉を探した。
「心配、ですよね」
「そりゃあな。まあ、海援隊つっても強かったのは昔の話だ。今は世界政府に取って代わられちまって、日本の船なんぞ……」
「そうじゃなくて、坂本龍馬さんも海援隊にいるんですよね」
宜振は笑った。
「咎人が英雄の心配なんかするかよ。手前の頭の蝿を追えって言われちまう」
「戦友じゃないんですか」
宜振が片方の眉を吊り上げて、古川を見た。
「あなたの折れた脇差し、肥前忠広だ。坂本龍馬がそれを譲ったのは、岡田宜振以蔵。あなたは、ひと斬り以蔵、ですよね?」
宜振は表情を打ち消して黙り込んだ。
「詮索してすみません……」
彼は苦笑してかぶりを振る。
「刀匠さんってのは怖えや、刀ひと振りからそんなことまでわかんのかい」
煙管から火を捨て、袂にしまい、踵を返して去ろうとした宜振に古川は言った。
「坂本さんは生きてますよ」
「……何でそう思う」
「英雄、だから」
宜振は足を止めて、古川を見た。
「お前の英雄は、さっきあのお嬢さんと話してたセンシ=ムラマサかい?」
古川は頷いた。
「お前にとってのムラマサがな、俺の龍馬だった」
そう言って、宜振は見慣れた笑みを作った。
「お前の英雄が生きてんなら、龍馬も生きてなくちゃなぁ」
声は明るかったが、男の胸中は読めなかった。
古川は唇を固く結び、記憶の中の後ろ姿を浮かべる。
自分はセンシ=ムラマサのための刀を打とう。
島原の港に広がる雪原が、白く輝く刀身に変わり、あの英雄の幻影に続いてるように思えた。
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