雪催、弐
喧騒に、古川の意識は記憶の中の雪原から、現実の船上に引き戻された。
「これより島原へ着岸する運びとなる! 」
船内から現れた監督役の軍人たちが、吹雪に負けじと声を張り上げる。
「港付近には“氷惨”が潜伏しているのと情報があり、住民への被害も報告されている。型は潜血型。名は“
「潜血型……」
古川が呟くと、隣で宜振が、
「フカと蛸の合いの子みてえなもんだとさ。それとは桁違いだけどな」
と言った。
軍人が合図すると、後ろに控えていた部下たちが三尺はある黒いからくり箱に似た直方体を出した。
「この船に搭載されている凍刃は三振り。その中で唯一、世界政府の承認を受けたものがこれだ」
複雑な錠を外すと、溜息に似た排気音と共に、真っ白な鞘に包まれたひと振りの刀が現れた。
「凍刃<ツルマル>。
白銀に一点赤をあしらった鶴のような刀に古川は息を呑む。
「バッタモンじゃねえのかい」
罪人の中の誰かが叫んだ。
刀に贋作があるように、凍刃にも非正規品が流通している。その多くは“氷惨”の外皮に当てれば、たちまち折れるような粗悪品だ。
「古川、検分しろ」
軍人が顎をしゃくってみせた。
古川は歩み出て、箱の前に膝をつき、手に取った。
鋼の重みと冷たさが、掌に沈み込む。
「長さは二尺五寸九分半、反りは八分八厘。
軍人が満足げに頷く。
古川は指の震えを抑えて凍刃を箱に戻した。手にはまだ重みが残っている。
比較的早くから凍刃造りに移った父を間近で見ていた自分が、未だにその技巧を習得できていないうちに、もうこれほどまでの武器を完成させる刀匠がいるのかと思うと、焦りと共に妬みにすらも変わらない純粋な憧憬が沸き起こった。
「万一<ツルマル>を折るようなことがあれば、その者は即刻打ち首となる。しかし、刀は美術品ではない。振るわねば。“氷惨”を討つ自信があるという者にだけ、これを預ける。誰かいないか」
船上にざわめきが広がった。
かろうじて繋がった首を、胴と別れさせたい者などいるはずがない。
その中で、宜振が頭を掻いて息をつき、歩み出ようとした瞬間、低い声が響いた。
「俺がやる」
全員が声の方向を振り返った。
先ほどの、静かだがよく通る声の持ち主とは思えない、若いが陰鬱な顔つきをした男が立っていた。
甲板の隅に佇んでいた、雄平と呼ばれた乗組員だった。
「お前か」
軍人が眉をひそめるのに構わず、男は前に進み出た。
「“氷惨”に初太刀を食らわせるなら、俺しかいない。俺の剣は他とは違う」
罪人たちが非難めいた声を上げる。
宜振は呆れたように首を振った。
「何であいつはちゃんと説明しないかね。まぁ、箝口令があったんじゃ難しいが、それにしたって……」
一瞬、宜振に睨めつけるような視線をやると、雄平は軍人の前に手を差し出した。
「どうする。渡すのか渡さないのか」
軍人は僅かに目を泳がせ、上ずった声を出した。
「わかっているのか。せっかく死罪を免れたというのに、仕損じれば斬首の憂き目に遭うのだぞ」
雄平は嘲るように息を漏らしてから言った。
「何が免れた、だ。この航海自体が“捨てがまり”みたいなもんだろうが」
聞き慣れない言葉と雄平の眼光に軍人は一歩後退ったが、すぐに虚勢を取り戻した。
「あいわかった。“氷惨”が出現した暁には、お前に一番槍をつとめてもらうぞ」
雄平の顔から鬼気迫るような表情が嘘のように消え失せると、彼は黙りこくる乗組員を無言で掻き分け、元いた後方へ戻っていった。
すれ違う際、手袋に覆われた雄平の掌が痩せた腕にそぐわず、武骨に膨れているのがわかった。
幾度も剣を振るった侍の手だ。古川は記憶の中の英雄の、刀に添えた手を思い出した。
寒さは一層増し、古川は着物の襟を搔き合せた。
その下に纏っているのは、船に乗る前支給された世界政府公認の防刃と防弾を兼ね揃えた、防寒着だった。
それを渡す際、軍人は「これを着なければ半刻も保たず凍死だ」と甲板に叩きつけるように投げてよこした。
罪人たちが群がろうとしたとき、声を上げたのもあの雄平だった。
「お前らにとって俺たちはこの着物のようなものだろう」と。
俺たちが“氷惨”を殺して鉱石を採らなければ、日本の軍事力は頭打ちだ。僅かも保たずに、世界政府の中で権力を失い、清と同じように滅びの一途を辿る。
彼はそう言った。
その声に応じた軍人たちが根負けし、防寒着を拾ってひとつずつ手渡しで支給するまで、乗組員は一歩も動かなかった。
雄平という名しか知らないその男は、どのような経緯でこの船に乗ったのだろう。
着岸の準備のため、呼び出された乗組員たちがせわしなく動き回るのを横目に、いつの間にか甲板の中央に来ていた雄平は、宜振の首に巻かれた赤い紐を指で引いた。
「何だよ、普通に話しかけてくれ」
抗議に構わず、もう一度紐を引き、彼は自分より少し背の高い宜振を屈ませ、耳元に口を寄せた。
古川は思わず耳をそばだてる。
「おい、あいは猿の家の者ではなかか」
そう囁いて、雄平は船上を駆け回るひとりの乗組員に視線を走らせた。その口調には先ほどまでにはない訛りがあった。
「猿?
「おう、島田のきっさね高利貸しじゃ。あのえのころによう顎で使われちょった。わからんちな?」
「あぁ、よく見りゃそうだ。よりによって……人生わからねえもんだ」
雄平は視線を下にやって静かに呟いた。
「きっがわり…….おいらのやっちょったこと、ねっかい無駄か」
猿の文吉とは、“氷惨”によって世界の情勢が一変する前の頃、沸き起こっていた尊王攘夷運動の志士たちの恨みを買い、暗殺された岡っ引きの名ではなかったか。
雄平が使ったのと同じ方言を、その頃の江戸で聞いた覚えがあると、古川は思う。
話を終えたふたりの視線がこちらに向けられていることに気がつき、古川は慌てて海の方へ目を逸らす。
海面に貼った氷は、濁った鏡のようにその下の波の紋様を映していた。
目を凝らすと、黒くうねる潮の層の間に、水ではない、爬虫類に似た不穏な光沢を放つ何かが蠢いている。
古川は訝しんで、近くで見ようと船から身を乗り出した。
そのとき、轟音とともに波と雪の巨大な壁が突如前方にそびえ立った。
※標準語訳
「おう、島田の〜」→「おう、島田の汚い高利貸しだ。あの犬によく顎で使われてた。わからないってか?」
「きっがわり〜」→「虚しいな……俺たちのやってたことは、全部無駄か」
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