氷牢の鑪≪タタラ≫

木古おうみ

序・雪催

雪催

 吹雪に烟る海原は、死装束の襟元から覗く、色の失せた死人の肌に似ていた。



「氷惨じゃ悲惨じゃ言うて、ここじゃあ何より“こんひさん”じゃわ」

 誰かの声に次いで、いくつかの野卑な笑い声が甲板に響く。

 その全てを搔き消すような冷たい風が吹き荒れて、古川友弥は着物の襟をかき合わせた。



 夜明け前の有明海は、分厚い氷の下でもはっきりと見えるほど黒く淀んでいた。

 日本の南方に位置しているというのに、寒さは江戸と全く変わらないと古川は思う。

“氷惨”の出現と同時に世界中の気温が著しく低下した現在となっては、南も北もないようなものなのだろう。


 船の上でまた笑い声が響いた。


 まるで、平和だった頃、屋台の前で談笑する気のいい職人たちのようだと思いかけ、古川はその考えを打ち消した。

 どう見えても、彼らはみな重罪人なのだ。


 闇を切り裂く刀身のように、氷海を破って進むこの外輪蒸気船の名は「補陀落船ふだらくせん」。

 かつて行者たちが捨身のため海に乗り出したように、乗組員は自分以外の全員が、死刑宣告を受けた悪人たちで構成されている。

 そして、船の行き先は“氷惨”の襲撃により死地となった、島原だ。



「呑気なもんだ、いつ奴さんが出るとも知れないのに。呑気にしてねえとやってられないのかね」


 銀幕をめくるように、吹雪の中からひとりの乗組員が現れた。その首元には船に乗る際、罪人たちにつけられた赤い紐と識別用の番号の書かれた木札が揺れている。

 煙管を片手に、煙とも呼気ともつかない白い息を吐いたその男は、腰に帯びた刀に手をやりながら肩をすくめた。


「緊張してんのかい?」

 古川は曖昧に頷いた。

 男は「宜よしふるだ」と名乗って、古川の隣に立ち、

「そりゃあそうだ。船の外には得体の知れん化けモン、中もひと型の化けモンだからなぁ」

 と笑った。


「お前が例の刀鍛冶だろう?」

「古川友弥。会津兼定十一代目、になる予定です」

「生きて帰れれば、だな」

 宜振は歯を見せて言った。


「島原は、どうなっているんでしょうか」

「さぁな、“氷惨”が出てから陸の孤島みたいなもんだから、危険だってことしか聞いてねえが……」

「仏教由来の名前を冠した船で赴くのが、切支丹のメッカというのは、どうにもですね」

 男はかぶりを振った。


「俺は学がねえからそういう話はできねえよ。あっちのがまだ向いてる」

 宜振は甲板の隅にひとりで立つ男に向かって声を張り上げた。

「雄平、こっち来て話すかぁ」

 男は敵に向けるような鋭い眼光を一瞬こちらに向けた。


「行かん」

 それだけ答えて、雄平と呼ばれた男はすぐ海の先に視線を戻した。

「話すとろくなことがない」


 にべもない口調に言葉を失っていると、横で宜振が苦笑を漏らした。

「あいつは本当に言葉が足りないからなぁ」

 煙管の先から燻った火種が落ちる。

「誤解しないでやってくれ。あれでも気遣ってんだよ。無駄口叩いてこっちがボロ出せば、お前が厄介なことになる。敷かれてるんだろ? “箝口令”」


 その言葉の響きに古川は俯いた。


 補陀落船隊の存在自体が一般には非公式だ。乗組員はみな、ここに来る前に処刑されたことになっている。

“氷惨”やそれによる病で死体がそこかしこに転がる江戸では、どのような刑死も娯楽の価値を失い、“氷惨”は血の匂いを嗅ぎ分けるというまことしやかな噂も合わせて、晒し首は行われなくなった。


 書面の上での死刑執行がありふれた今だからこそ、編むことができた非公認組織。


 唯一後ろ暗いところを持たない古川は、他言無用を再三推され、いくつもの誓約書にも印を押した。

 同じ船に乗る男たちが、どのような罪状で極刑を受け、どのような思いで目の前の死と引き換えに命懸けの使命を選んだのか、古川は知らない。



「火つけに物盗り、殺しと来たもんだ……。そんな連中と船に乗って、それでも打ちたい刀があんのかよ、 刀匠さん?」

 宜振の足元で溢れた火種が赤く煌めき、古川の記憶の奥底に明かりが灯る。



 迫る脅威に対して従来の刀はあまりに頼りなく、鍛冶屋の活路は、対“氷惨”用兵器・凍刃の製作に移行するしかないこと。

 日本で未だ数少ない実用性のある凍刃を作成した父に、雪牙病の凶兆が見られ、一刻も早く跡を継がねばならないこと。


 どれも理由のひとつではあるが、何よりも古川を突き動かしたのは、ある光景だった。



 巨大な“氷惨”が巻き上げる雪の壁を前に佇む、ひとりの剣士の姿だ。


 容赦ない風が、着物の下の身体の輪郭を暴き立てる。

 華奢と言ってもいいほど小柄で細い後ろ姿に、その背に庇われた幼い頃の古川はごまかしようのない頼りなさを感じた。


 剣士が刀を抜く。

 そこからは一瞬ですらもなかった。

 彼はそこにあった時間ごと斬り裂いたかのように、次の瞬間には両断された“氷惨”が噴き上げる赤い吹雪が、余白となった空間を染め上げていた。


 剣士の斬るという意思に、刀が応え、ひとが触れられない次元の何かを呆気なく断ち切った––––そう思えた。



「大事ないか」

 そう言って振り返った彼の名前も、その太刀筋も、白い面差しに風に流された赤い吹雪が散り、雪の寒紅梅のように見えたのも、今日まで忘れたことはない。



 第一次長期北極遠征隊・ノーチラスの一等氷尉、センシ=ムラマサ。


 あの剣士にしか見えない時間を、同じ速度で生きる、刀を打ちたい。



 それが、古川を死地への航海へ赴かせた理由だった。

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