彼は決めたーー無視をすると。

『誠治』

 か、花蓮……!


『ごめんね』

 どうして謝るんだよ……。いや、いい。だいぶ遅くなったけど、もう三カ月経ったんだ。久しぶりに出かけよう。見たい映画があるんだ、花蓮の趣味に合うかはわからないけど、一緒に――――。


『誠治とは、行きたくない』


 え……? それは、どういう……。


『この人とが、いい。もう誠治はいらない』


 そ、そいつは……! 花蓮……どういうことなんだ、説明してくれ。何もわからないままなのは嫌なんだ、頼む……!


『誠治よりずっとこの人の方が良いの。何もかも』


 ……そうか。俺は、劣っていたんだな……男として。


『さようなら』


 花蓮……俺は、一体――どうすればよかったんだ……?


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「……最悪の寝覚めだ」


 心臓がドクドクして、まだ夢の続きみたいに胸がざわついている。昨日見たあの光景――花蓮と知らない男の姿――が、しっかりトラウマとして脳に焼き付いているせいだろう。


 まさか花蓮が浮気なんて……いや、まだ決まったわけじゃない。そう思いたい。

 でも、俺にはもう答えが見えている気がした。あの笑顔は本物だった。俺が惚れた、太陽みたいな笑顔。それが、俺じゃなく別の男に向いていた。


 連絡が遅い理由も、もう説明がつく。俺のくだらない連絡より、その男を優先してたんだ。きっと。

 別れ話を切り出して俺がごねるのが面倒だから、ドライに振る舞ってたんだろう。……あるいは、俺がそうさせたのかもしれない。


「はあ……」


 ため息が重く落ちる。階段をドタドタと登ってくる音がした。母さんか? 昨日はショックで寝落ちして夕飯を食べなかったし、心配して起こしに来たのかもしれない。申し訳ないな……と思ったが、ドアを開けて顔を出したのは。


「うーっす兄貴、飯だってよ」


 妹の長嶺結花ながみねゆかだった。


 小学校の頃までは「お兄ちゃんお兄ちゃん」と近所で噂になるくらい仲良しだったのに、中学生になってからはほとんど絡まなくなった。思春期、ってやつだ。


「あ、あぁ……サンキューな」

「ん? 何そのしょぼくれ顔。きしょいんだけど?」


 相変わらず口が悪い。中学に入ってから見た目も口調もヤンキーっぽくなった。


「高校生男子には色々あるのだよ」

「は? ウケる」

「(……うぜえ!!)」


 小さい頃はブラコンって言ってもいいくらいだったのにな……。お兄ちゃんは悲しいよ。


「まあでもさ。なんかあったら話ぐらい聞いてやっから。元気出せよ! いつものちょっとキモいくらいがちょうどいいんだから!」


 そう言って俺の背中をバシンと叩く。痛いけど、その一撃で心臓が少し軽くなった気がする。根は家族思いだってこと、母さんもわかってるんだろう。だから結花にはあまり何も言わないんだと思う。


「いてて……ま、ありがとな」

「お母さんご飯作って待ってっから。早く下降りてこい! アタシは学校行くけど!」


 バン!とドアを閉めて去っていった。相変わらず乱暴だけど、背中に残る温もりがありがたかった。


 ……とりあえず着替えて下へ行こう。

 親に学費払ってもらってる以上、学校をサボるわけにはいかない。俺は学生の本分を全うする。


***


 俺の通う青嵐学院高等学校は、電車で三十分ほど。渋谷が最寄り駅だから、朝の通勤通学ラッシュは地獄だ。


 車内には大学生の姿もちらほら見える。俺の前には、なかなかイケてる大学生二人。

「あ〜寝み〜……」

「傑、また夜勤? バイトもいいけど遊べよ」

「夜勤は稼げるんだよ。仕送りもらってても足りない分は補填しないといかんし」

「はあ、ほんと苦学生だな」


 大学生も大変なんだな……。そう思うと、俺の悩みなんて小さいもんに思える。けど、胸の奥にある痛みはそう簡単に消えてくれない。


「ぬ? そこにいるのは誠治殿ではないか?」


 やけに時代がかった声。振り向けば、草間半蔵だ。


「おお、半蔵か」

「本日は晴天で、まっこと気持ちが良いでござるな!」


 スポーツ刈りに黒縁メガネ、180センチの長身。顔から下は別人、と男子からよく言われる。実家は剣道場、本人も剣道部。時代劇好き一家の影響で、口調まで武士っぽい。名前まで半蔵とか、どんだけ忍者意識だよ。いや実際、兄が武蔵と小次郎らしいし……可哀想に。


「今日は朝練ないのか?」

「うむ。大会近しといえど、無理な鍛錬は控えるべきゆえ」

「偉いな運動部は……俺は無理ゲー」

「はっはっは。誠治殿こそ元は空手部であったろう」

「幽霊部員みたいなもんだったけどな」


 中等部からの腐れ縁。四年同じクラス。こいつと話してると、少しは気が紛れる。


***


 授業が始まっても、俺は先生の話に集中できなかった。窓の外ばかり見て、花蓮のことばかり考える。メンヘラかってくらいに執着してる自覚がある。


 本気で好きになるって、こういうことなんだな。素敵な反面、脆くて、簡単に心に傷を負う。

 しかも浮気を目撃したなんて致命的だ。正直、体調までおかしい気がする。


 怒りはある。浮気されて怒らないやつなんていない。でも、面と向かって怒鳴る気にはなれない。

 嫌いになれたらどれだけ楽か。けど、好きだったからこそ、嫌いになりきれない。矛盾した気持ちに押し潰される。


「……ぬ? 誠治殿、顔色が優れぬな」

「ああ……悪い、ちょっと考え事してただけ」


 隣に座るのは美少女じゃなく、いかつい半蔵。腐れ縁は席まで隣。俺の表情、よっぽどひどかったらしい。


「そういう時は身体を動かすのが一番! よし、剣道部に――」

「入らん」


 半蔵の熱意を一蹴して、また視線を窓の外に投げる。


 花蓮との関係……もう終わってる気がする。けど、ちゃんと別れを言ってない。俺から切り出すしかないのか?

 「浮気したやつとは付き合えない。別れよう」……そう言える勇気が俺にあるのか?


 多分、俺は後悔する。けど、このまま曖昧に続けても苦しいだけだ。

 自然消滅。それが一番いいのかもしれない。すれ違っても他人みたいに振る舞って、無視し続ける。向こうもその方が楽だろうし、俺にとっては意趣返しになる。幼稚だって自覚はある。でも、今の俺にはそれが精一杯だ。


 盲目的に執着していた。IQが50くらいまで下がってた気がする。これ以上は、自分のためにも、花蓮のためにも良くない。


 よし。今日から俺と花蓮は――他人だ。


 そう思った瞬間。


「おい長嶺!!! お前さっきから窓ばっか見やがって、俺の授業がそんなにつまらんのか!?」

「うぇ!? す、すみません!」


 教室が笑いに包まれる中、俺は心の中で静かに決別を刻んだ。


 この日、誠治は最愛の人との終わりを決意した。

 ――しかし一方の花蓮は……?











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