第2話 八百屋のおっちゃんの正体

「今回のは山下のおっちゃんにもらってきたのよ」

珍しくあっさりと出どころを言ったが、山下のおっちゃんて誰だ。山下という人物に思い当たる人がいなかった曽山はそれをそのまま口に出したが次に返ってきた言葉には困惑を隠せなかった。

「そんな八百屋のおっちゃんにもらってきたみたいに言われても、どなたなんです。山下さんて。」

「だから山下奉文(ともゆき)おじさんだってば。」

その名前が浸み込むまでたっぷり三秒ほど?が浮かんでいた曽山であったが、その名前に聞き覚えがあると同時に脳内でその名前に紐づいた情報を理解するに及び、目を見開いていくのが自分でもわかった。

というより彼は先ほどの入港手続きの書面でその名前を見ていたのだ。

昭南島の最高責任者の署名で。

紐づいていた情報は「陸軍中将山下奉文。シンガポール攻略戦の指揮官。通称マレーの虎。」である。


「山下奉文陸軍中将ですか、シンガポールの最高指揮官じゃないですか。」

唖然としながら返すと何を驚いているのかとばかりあっけらかんと「そうよ。さっきからそう言ってるじゃない。」と言い放ちましたよこの人。


これだからこの女性は侮れない。


適当なあだ名をつけて呼んでいる人物が、実は華族や財界、軍部の大物という例が少なくないのだ。さすがに皇族に関しては適当なあだ名をつけていることはないようだが、それでも時折「○○ちゃんがねー。」と話す内容が降嫁した皇族などの場合は多々ある。

普段連合艦隊司令官の山本五十六大将を博打オヤジといっているのはまだ序の口なのだ。


「山下のおっちゃんは昔からの知り合いでね。うちの家によく来ていたから。あたしが小さかった頃はよくお菓子を買ってもらっていたわ。」

「山下のおじさまは優しかったですからね。私も何度かご相伴にあずかったことがありますが、あの方のセンスはとてもよかったです。今回の紅茶もとても良い品ですわ。」

それまでニコニコと黙って聞いていた女性、揖斐の通信長である「黒部 理緒」少佐がティーカップを掲げながら言葉を重ねた。

この黒部少佐は八品中佐と同郷の幼馴染で、何かと暴走しがちな八品の幼いころからの抑え役の一人である。


言い換えれば八品中佐のお世話係と言っても過言ではない。


だが主従関係ではなく関係性は対等であり、八品の暴走に真っ向から反対することもある。とはいえ八品との関係が長いこともありその暴走の理解に対しては随一であり、利点や損益を瞬時に判断して暴走を肯定して背中を押すこともある。


そして彼女は八品中佐の昔からのお茶飲み仲間である。

そんな縁で八品家に出入りしていた彼女は八品家との交友関係にあった山下中将とも面識があり、何度かご相伴にあずかっていたそうだ。


で、八品中佐はそのお菓子を買ってもらう感覚で今回も物資をねだったんですねわかります。

口には出さずに視線でそう返しながら曽山は山下中将が一介の海軍中佐にこれほどの便宜を図っていいのかと疑問符が湧く。

小遣いで済む範囲とも思えないんだが、大丈夫なのか帝国陸軍。

物資横流しとか、横領とは言われたくないんだがなと。


この紅茶にしてもおそらくインドやセイロンで収穫された茶葉をシンガポールにいったん集積して加工、その後英本土へ運ぶ予定で船積み待ちだったのだろうが、シンガポール陥落でそのまま日本軍に鹵獲されることになったようである。

本来であれば鹵獲品はすべて確認し書類記載されて勝手に持ち出すようなことは行ってはならない。さもなければ鹵獲品が兵士のポケットに消えていてもわからないわけで、そのようなことは本来許されないことになっている。


とはいえ鹵獲品を鹵獲品として倉庫でほこりをかぶらせているだけではもちろんダメなので司令官には分配する権限はあるし、大体どこの部隊にも要領のいい下士官や軍曹がいて、員数外の品を色々と部隊間で流通させている。保存のきく食料品の缶詰やタバコなどの嗜好品、燃料弾薬やオートバイなどの自動車関連は特にどこの部隊でも喉から手が出るほど欲しいので、いかにしてうまく手に入れるかが、各古参兵の腕の見せ所であった。


今回の紅茶は食料品と嗜好品の微妙なラインだが、本来はまぁ缶詰などと違いそこまで取り合いになる類のものではない。

本来ならだが。

この本来は取り合いになる類ではないはずの紅茶が英国という国と絡むととんでもないことになるという事を曽山はまだ知らなかった。

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