あなたと、一歩先へ。8

 エレナはフェルナンからグラスを受け取った。それを掲げたフェルナンを真似て、グラスを重ねる。大広間の中とは一線を画した秋の澄んだ空気に、小さく涼やかな音が響く。葡萄酒は白で、喉を抜ける爽やかな感覚と独特な甘さが心地良かった。月が、いつになく近い。近くて、眩しい。

 フェルナンがゆっくりと口を開いた。


「さっきはありがとう、エレナ」


「あ、あれは……っ」


 適切な対応ではなかったことは、誰よりエレナ自身が理解していた。無駄に衆目をあつめる結果になってしまったことも。

 エレナは肩を落とした。もしあの場で何も言わなかったとしても、フェルナンはきっと上手く切り抜けていただろう。


「申し訳ございませんでした。余計なことだったと──」


 フェルナンがエレナの手首を掴んだ。咄嗟に言葉を詰まらせると、フェルナンは左右に首を振る。


「そんなことないよ。エレナの言葉は……本当に嬉しかった。僕こそ、本来なら貴女を守るべきなのに。ごめんね」


 月の光が、フェルナンの艶やかな黒髪に輪を描く。グラスに反射してその輪郭を鮮明にし、エレナをそこに映し出す。エレナの金の髪はより明るく見えた。

 そんなことで、今日の夜会が月見の宴だと思い出す。先程まで、全く月など見ていなかった。


「いいえ。フェルナン様は、私を守ってくださいました」


 そう。エレナが怒れたのはフェルナンがいてくれたからだ。倒れないように、怯まないように、フェルナンがエレナを支えてくれていた。


「いつも、守ってくださっています」


「エレナ……」


 それは、最初から。


「私だって、気付いていないわけではないのです。私の素性をずっと隠していらっしゃったのも、守るため、だったのですよね」


 よく考えたら、フェルナンの呪いを解きたくないと思う人間は、大勢いたはずなのだ。それは王女だけでなく、例えばバジェス侯や、フェルナンの政敵にあたる者も。あんな嫌がらせのような呪いでも、不都合はたくさんあったのだから。だから、エレナが呪いに対抗すると知られてしまったら、何をされるか分からなかった。

 だから正体を隠した上で、少しでも早く解決するため、エレナを夜会に連れ歩いていたのだろう。少しの化粧で別人のように印象が変わるというのも、この場合は都合が良かったに違いない。


「貴女には、僕の都合ですまないことをしたと思っている。──僕が望んだからって、無理はしなくて良いんだよ?」


「フェルナン様。これを選んだのは、私です」


 フェルナンの隣を選んだのは、他でもないエレナだ。他の誰にも譲るつもりはない。それがたとえ、王女であっても。

 エレナは葡萄酒のグラスをまた傾けた。フェルナンが、月を見上げながら苦笑する。


「はは……、エレナには敵わないな」


「そんなことありませんよ」


 エレナだって、フェルナンには敵わないと思う。

 フェルナンが月からエレナに視線を戻す。正面から目が合った。まだ瞳を隠すものが何もない状態には慣れていない。感情が、熱が、その灰色から伝わってくる。きっとエレナも似たような顔をしているのだろう。引き寄せられるままに体を寄せ合い、しばらくの間、喧騒を背に二人きりの世界に浸っていた。





 バルコニーから大広間に戻ると、国王の側にアレマン・ビニェス侯がいた。以前フェルナンと行った夜会で、フェルナンに嫌味を言っていた人だ。エレナは一度しか見ていないが、よく覚えている。隣にいるのはその息子だろう。

 そういえば、彼らは王女の縁談で王家との結び付きを強くしようとしていた。だがその様子からして、良い返事はもらえなかったらしい。


「分かりやすいね。僕が縁談の無効を明言した途端にこれだ。──とはいえ、断られたみたいだけどね」


「あー……ですが、良いお相手なのでは?」


 エレナが首を傾げると、フェルナンが口の前で人差し指を立てた。内緒の話だろうか。


「あのね、実は王女の嫁ぎ先としては、隣国の第二王子が最有力なんだよ」


「隣国ですか?」


「そう。王子は結婚を機に臣籍降下することになっている、その相手だね。ビニェス侯は外務大臣だけれど、王女の婚姻については偏りがあったから、国王が秘匿していたんだ」


「──……それは」


 ビニェス侯も、まさか外務大臣である自分を通り越して、国王が隣国と縁を結ぼうとしているとは思いもしないだろう。


「そう。だから、あの令息にそれ以上の価値を示せないと、王女との縁談は見込めないだろうね」


 その声はそれまでとは異なり、温度がなかった。それは感情を平坦にしているからだろうとエレナは思う。王女の縁談による勝手な勘違いでしつこく敵視され、嫌味を言われ──きっと他にも色々あったのだろう。

 せめてエレナは精一杯愛したいと気持ちを新たにして、エスコートのために重ねられているフェルナンの手をぎゅっと握り返した。

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