あなたと、一歩先へ。4

 そして翌日、午後。エレナはフェルナンの私室にある衣装部屋で、目の前の夜会服をじっと見ていた。


「──私の衣装に合わせる、のよね」


 フェルナンは今日のために衣装を仕立てていたらしい。夜会服の上下は用意されていた。濃灰色の上着に、明灰色のズボンと黒いベスト。絹の艶やかさが、これまで呪いで染まっていた服の灰色とは一線を画している。エレナのドレスと揃いで作られているようだ。


「うう……恥ずかしいんだけど」


 しかしそれが、今回の夜会ではおそらく最適だということも、エレナは分かっていた。一旦エレナの感情は横に置いておこう。掌で頬をぱちぱちと叩いて気合を入れる。


「装飾品はサファイアとエメラルドだったから──」


 エレナに用意されていた装飾品は、サファイアとエメラルドを使ったものだった。鮮やかな青のクラヴァットに、大粒のエメラルドのブローチを選ぶ。チーフはクラヴァットと揃え、ブートニエールにエメラルドのピンを、ベストに銀の飾り紐を選んだ。あわせて靴や小物を揃えていく。


「よしっ」


 全て揃えて、エレナは衣装部屋を出る。バルドと話しながらエレナを待っていたフェルナンが振り返った。


「フェルナン様、こちらをお召しくださいませ!」


 いつもの通りに衣装を抱え、フェルナンにそれを手渡した。渡すときに指先に熱を感じれば、呪いを相殺した証だ。それがエレナの仕事である。


「あれ……?」


 フェルナンが衣装を受け取っても、エレナはそこに起こるはずの熱を感じなかった。まさか、失敗してしまったのだろうか。

 しかしエレナの心配をよそに、フェルナンは口元に笑みを浮かべている。手を引く前のエレナの手が、一度優しく握られた。


「──ありがとう、エレナ。着替えてくるね」


「あっ! でも、今──」


 熱を感じなければ、服は灰色になってしまうはずである。失敗したのなら選び直さなくては。そう思って声を上げたが、フェルナンは首を左右に振った。随分機嫌が良いようだ。


「大丈夫だよ、多分だけど。ほら、後はバルドに頼むから、エレナも支度しておいで」


「では、失礼いたします」


 エレナは後ろ髪を引かれながらも一礼して部屋を出た。扉の前では侍女長が既に待っている。限られた時間でエレナの支度を終えなければならないのだ。フェルナンの厚意で、いつも夜会前にはこの順番で準備をしていた。

 今日も鏡の中のエレナは、侍女長の手によって、まるで別人のように飾り立てられていく。決して濃くしているわけではないのだが、化粧ひとつでこんなにも変わるのだと、エレナは侍女長を尊敬した。





 そうして準備を終えて、エレナはフェルナンが待つサルーンへと足を運ぶ。フェルナンが仕立ててくれたドレスは、似合っているだろうか。大胆と上品を併せ持つそれに、どうしてもエレナは緊張を隠せない。


「お待たせいたしました」


 エレナはフェルナンの後ろ姿に声をかけた。

 灰色のドレスに、銀の装飾品。そこにサファイアが青薔薇を、エメラルドが葉を描いている。ドレスがモノトーンなので、強く印象に残るだろう。髪飾りから耳飾り、首飾り、ブローチに至るまで、全てが同じデザインで統一されている。使われている石の数を教えて、五十を超えたところで逆に怖くなって止めたことは、誰にも内緒だ。

 フェルナンが振り返ってエレナを見る。瞬間、エレナは息を呑んだ。あの綺麗な透き通った灰色を隠していた忌まわしい前髪と、何を合わせても途端に残念な印象にされてしまう無骨な伊達眼鏡がない。

 代わりにそこにあったのは、白い肌が美しく、柔和な印象の、ひどく整った顔だ。伊達眼鏡を外し、前髪を自然に切り揃えただけで、この美貌とは。正直隣に並ぶのを躊躇してしまう。


「──フェルナン様?」


 エレナの動揺に構わず、フェルナンはじっとエレナを見詰めていた。居心地が悪くてもう一度名前を呼ぶと、フェルナンはやっと笑顔になって──というよりも慌てたように笑顔を貼りつけて、口を開いた。


「あ、いや。うん。──綺麗だ。あからさまかとは思ったんだが、私の色をエレナに着てもらいたくてね。そうか……こんな気分になるのか」


 耳が赤くなっているのは、フェルナンも照れてくれているのだろうか。笑顔が作り物なのもそのせいだろうか。今日はあからさま過ぎるほどに、しっかりお揃いにしている。

 しかしそれどころではないエレナは、フェルナンの褒め言葉を聞き流していた。


「そんなことより、フェルナン様。その、お髪とお召し物──」


「やっぱり、大丈夫だったね」


「やっぱり?」


 エレナは首を傾げた。フェルナンは楽しそうに声を上げて笑って、流れるようにエレナの手を取った。


「ほら。エレナの好きな小説でも、悪い魔女の呪いは真実の愛で解けるんだろう?」


「な……っ」


「すごいね、母上が喜びそうだ。髪は、そのついでに。──エレナが側にいてくれるなら、もう隠す必要はないと思って」


 ついでで切ってしまって良かったのか。


「ついでって、そんな……あれ? 母上……って、大奥様……デボラ先生ですか!?」


「あー、うん。昔から不思議な話が好きだったから。この呪いのことを伝えたときも、何の証拠もなく『ちゃんとした恋人を作って口付けしなさい』なんて──」


「うう……」


 そんな理由で散々悩んだ呪いが解けてたまるか。言い返したかったが、実際、呪いは解けているようなのだ。それが事実として目の前にある。どんなに信じられなくても、こうして突きつけられてしまえば認めるしかない。


「ごめんね。遅れないうちに行こうか」


「はい、お願いします……」


 呪いが解けたのなら嬉しいし、髪や伊達眼鏡もフェルナンにとって何かの縛りになっていたのなら、それがなくなるのは喜ぶべきことだろう。

 それより、今日エレナはこの完璧な貴公子のパートナーを務めるのか。考えるだに恐ろしく、エレナは今にも溢れてしまいそうな溜息を必死で呑み込んだ。

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