あなたと、一歩先へ。3

「──待って!」


 走るエレナの背後から、叫ぶ声が追いかけてくる。擦れ違う人達が何事かと振り返る。それでもエレナは止まることができなかった。


「エレナ、待って。お願いだからっ」


 立ち止まってしまったら、決定的に何かが壊れてしまう。それが何だか分からないまま、エレナは必死で足を動かした。

 だからだろう。二階から駆け下りようとした右足が、階段の端を滑った。


「──きゃ!」


 身体が浮くような、時間が止まってしまったような感覚がした。この長い階段を落ちたら、無事でいられる気がしない。咄嗟に手摺に手を伸ばした、その手が空を掴んだ。落ちると覚悟を決めたエレナだったが、しかし予期していた衝撃はなかった。

 空を掴んだ筈の右腕が、ぐっと引かれた。腕の付け根が軋んで痛みを覚える。次に感じた固さに、放心していたエレナははっと意識を引き戻した。誰かの腕の中にいる。以前にも同じようなことがあった。あれは、エレナとフェルナンが初めて出会ったときだ。この腕の持ち主を、エレナはもう知っている。


「大丈夫?」


「も、申し訳、ございませ……っ」


 両手を突っ張って慌てて離れようとしたエレナを、フェルナンは離さないとばかりに抱き締める。


「ご……主人、様?」


 耳元で小声で呼ぶと、フェルナンははっと気付いたようにエレナの両肩を掴んで引き離した。代わりに右手を痛いくらいに握って、その手を引く。

 フェルナンはそのまま、迷いなく階段を下りる。


「あのっ。ど、どちらへ行くのですか! ご主人様っ」


「いいから」


 エレナはほとんど引きずられるようにしてついていく。問いかける声に、返事はない。

 ついに二人は玄関を出て、秋の花が咲き誇る庭を抜け、裏口を通って、バジェステロス公爵邸の外に出てしまった。それでも止まろうとしないフェルナンに、エレナは立ち止まり声を上げる。


「──フェルナン様!」


「やっと呼んでくれたね」


 焦るエレナに対して、フェルナンが心底嬉しそうに言った。お邸の中では、名前で呼んではいけないと思っていた。それなのに、振り返ったその笑顔があまりに綺麗で、エレナは息を呑む。


「ねえ。ここなら、エレナは侍女ではないよ」


 フェルナンがエレナに向かって、一歩、踏み出した。エレナは咄嗟に後ろにさがる。それを数回繰り返しているうち、エレナは背後にある公爵邸の塀の煉瓦とフェルナンの間にすっかり閉じ込められてしまった。

 フェルナンの左手がエレナの顔のすぐ横に置かれ、逃げ道を遮る。それに気を取られていると、右手が髪を結い上げていた大きなピンに触れた。


「あ……」


 それを引き抜かれてしまえば、エレナの豊かな金髪がさらりと落ちる。毎朝仕事に向かう前に気合を入れて結っている髪すらも解かれてしまった。


「ほら。もう、エレナは何者でもない」


 髪をおろしたエレナは、もうフェルナンの専属侍女ではない。フェルナンもまた、供を誰も連れずに外にいる今、バジェステロス家当主という肩書を置いてきていた。

 フェルナンの言葉の意味を理解した瞬間、エレナの身体が熱をもった。その理由に気付いてしまったら、もう瞳を逸らせない。


「──嫌なら、突き飛ばして良いよ」


 フェルナンの右手が、エレナの頬を撫でた。夕陽の炎をたたえた透き通る灰色の瞳の中に、エレナがいる。もうどうしようもないくらい、顔いっぱいにフェルナンを好きだと書いてある。フェルナンのそれにも、エレナへの想いが表出していて。


「え、あ。……う」


 近付く顔に、先に目を閉じたのはどちらだったか。まるでそうなることが必然であるように重なった唇は、これまでの悩みも躊躇いも全て嘘のように消していく。代わりに残されたのは、どうしようもなく甘く、ぐずぐずに蕩けてしまった思考だけだった。


「好き。好きだよ、エレナ。愛してる」


 苦しさすら覚えるほど熱く繰り返される口付けの隙間から、フェルナンが愛を囁く。エレナは呼吸するだけでもう精一杯で、持てるいっぱいの感情でそれに応えた。

 やっと離れた唇が濡れて光る。それにまた心臓が跳ねた。


「わ……私も、フェルナン様が、好きです」


 エレナは想いを言葉にして、捕らえられてしまったことに歓喜した。


「ありがとう。もう、離さないから」


 フェルナンがエレナを抱き寄せる。エレナが少し背伸びして少し高い位置にある首に腕を回すと、フェルナンはゆっくり息を吐いてエレナに頬擦りをした。

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