あなたと、一歩先へ。2
フェルナンと共に廊下を歩く。最初は少し早足だったフェルナンだが、エレナがついてきていることを確認して、歩調を弱めた。
エレナとフェルナンが歩いていたところで、誰も気にしない。当主であるフェルナンと侍女のエレナが二人でいる。本来は従僕を連れているのが一般的なのだが、バジェステロス公爵邸では、今更それを気にする者はいないのだ。それが当然だと思われるほど、エレナはフェルナンと一緒に時間を重ねてきた。
「──ご主人様、どちらに行かれるのですか? ご主人様っ」
何も言わずに前だけを見て歩くフェルナンは、いつもより纏う雰囲気が固い。何か緊張しているのだろうか。返事はなかったが、その向かう方向から、その目的地がフェルナンの私室だろうと思い、口を噤んだ。そして結果は予想通り。エレナはフェルナンと、私室に二人きりになる。
無言のまま、おもむろにその顔を隠している無骨な眼鏡を外したフェルナンに、エレナは首を傾げた。
「ご主人、様?」
いつもとは何かが違うと、エレナの本能が警鐘を鳴らしている。
「ごめんね、エレナ。話したいことがあるんだ」
何かに追い詰められていくような、大切な何かが変わってしまうような、そんな、感覚。どうしよう。どうしたら、この張り詰めた空気から逃れられるだろう。
そうしてエレナが出した結論は、とても子供じみたものだった。
「でしたら、お茶をお淹れしましょうか!」
両手をぱんと打ち合わして、自分でも空虚だと分かる笑顔を浮かべる。フェルナンは小さく溜息を落とし、ゆるゆると首を左右に振った。
「……うん、エレナも飲みなよ。二人分お願い」
「ですが」
エレナは使用人で、フェルナンと共にお茶をすることはない。これまでにもなかったことだ。
「良いから、ね?」
しかしフェルナンは決して譲らないであろう意思の強い瞳で、エレナを促す。
「──かしこまりました」
立ったまま話すより、お茶を挟んで座ってしまった方が逃げ場は無いのではないか。それに気付いたのは、既に全ての準備が整った後だった。ソーサーに乗ったティーカップが二つ、テーブルの上に向き合うように置かれている──否、たった今、エレナが置いた。
エレナは高級そうな椅子に浅く腰掛けた。向かいに座っているフェルナンの顔がよく見える。話があるはずよフェルナンから最初の一言がなかなか出てこなくて、エレナは思わず口を開いた。
「──あの」「あのね」
被ってしまった。エレナは、あ、と口にして、つい笑ってしまう。フェルナンも笑っていて、それまでの緊張が一気に解れる。部屋の温度も暖かくなったように感じた。
「エレナから良いよ」
「いいえ、ご主人様から」
エレナは改めてドレスの礼を言おうとしただけだったので、ここは話があると言ったフェルナンに譲ることにする。
「じゃあ僕から」
フェルナンが紅茶を一口飲んで、カップを置き、ゆっくりと深呼吸をした。
「エレナ、いつもありがとう。この……服だけじゃなくて、朝起こしてくれたり、帰宅を笑顔で迎えてくれたり。僕に呆れないで、いつも話に付き合ってくれて」
その透き通った灰色の瞳が、フェルナンの言葉が全て真実そう思ってのものだと、エレナに教えてくれる。エレナは恥ずかしくなってきて、小さく首を振った。
「いいえ! 私は、そんな。特別なことは何も──」
「特別じゃないことのひとつひとつが、僕は嬉しかった。それが僕にはとても貴重で、大切だったんだ」
「ご主人様……?」
フェルナンの笑顔はこれまでに見たことがないほどに優しく、穏やかだ。フェルナンが改めてこんな話をする理由も、こんな表情を向ける理由も、今のエレナには分からない。それでも、今瞳を逸らしてはいけないことだけは分かった。
「好きだよ、エレナ。侍女としてではなく、一人の女性として。呪いも仕事も関係なく、側にいてほしい」
「──……っ」
エレナは息を呑んだ。何を言われたのか理解できない。しばらく時間をかけてどうにか理解しても、言葉がすぐには出てこなかった。顔が、身体が、燃えるように熱い。
エレナは確かに、フェルナンに恋をしていた。
「そ、んな。私……ただの、侍女で……フェルナン様には」
それは何度も自分に言い聞かせた言葉だった。辿々しく話すエレナを見ても、フェルナンの表情は変わらない。凪いだ海のような微笑みは、既に諦めているようにも見える。
「エレナには僕の側にいるより、幸せな道が沢山ある。それは分かっているんだ。だから、無理強いはできないと──」
「違います!」
叫んだのは反射だった。
「エレナ?」
フェルナンが驚いて目を見張っている。
「わ……私は、フェルナン様が……っ!」
瞬間、フェルナンと向き合うエレナは、フェルナンの背後にある部屋に備え付けの姿見に気が付いた。姿見には、フェルナンの背中と、エレナの姿が写っている。侍女服を着て髪を纏めたその姿は、どこからどう見てもぱっとしない見た目の、目立たない使用人だ。そしてその頬は、もう言い訳もできないくらいに、真っ赤に染まっていた。
「あ……っ」
フェルナンには、エレナの姿がこう見えているのか。それに気付いてしまえば、もうその場にいることはできなかった。
音が立つのも気にせず立ち上がり、挨拶する余裕もないまま部屋から逃げ出した。礼儀も何も関係ないほど大きな音を立てて、扉が閉まる。残されたフェルナンがどうするかなど考える余裕もない。ただエレナは胸を占める恋情を抱え、混乱した頭のまま、公爵邸の廊下を走り抜けた。
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