第6章

あなたと、一歩先へ。1

 そして夜会の前日、昼食を終えて戻ってきたエレナは、その後呼び出された客間の様子に驚きを隠せなかった。


「こ、これは……!?」


 そこにいたのはフェルナンとバルドと侍女長。そしてどこかで見たことがあるような、上品なマダムだった。その近くには、大小様々な大きさの箱が置かれている。

 美しく年齢を重ねているように見えるマダムの横のテーブルには、大きな裁縫箱が置いてあった。そして一拍置いて気付く。見たことがあるとエレナが思ったのは、そのマダムが王族御用達で王都評判の仕立屋の女主人だからだ。


「公爵様よりご依頼のありました、ドレスと装飾品でございます」


 ドレスと装飾品。その言葉に目を見張った。今日は衣装合わせをすると聞いていた。しかしエレナはいつもの通りアマーリアのドレスを手直しするのだと思っていたのだ。どうやらそうではなかったらしい。


「ご主人様、私、聞いておりません!」


「言っていないからね。折角の月見の宴だ、良いじゃないか」


 フェルナンは平然と言ってのけた。王族御用達の仕立屋のドレスなんて高級品で、とてもエレナの給料では支払える気がしない。それどころか装飾品まで付いてきては、マルケス子爵家ではとても買おうとは思えない値段なのは確かだ。

 エレナは慌てて両手と首を左右に振った。


「ですが、これほどのものを……っ」


 しかしエレナの反応に構わず、フェルナンは口角を上げる。


「ほら、マダムが待っているよ」


 眼鏡と前髪によってその瞳は見えないが、声音からきっと穏やかな色をしているのだろうと分かる。そんな顔をされてしまうと、エレナもそれ以上抵抗する気が失せてしまう。それにフェルナンが言う通り、マダムを待たせているのは確かなのだ。


「──はい、お願いいたします」


 エレナはおずおずと頷き、マダムと共に隣室に移動した。侍女長が、たくさんあった箱の中から一番大きいものを持ってくる。その箱を開けて広げられたドレスを見て、エレナはなにも言えなくなった。

 そのドレスは灰色だった。しかし生地が絹であるため、艶やかで上品な印象だ。胸元はほとんど白く、裾は黒くなるよう、グラデーションになっている。ワンショルダーで片袖だけが柔らかく広がるデザインのようだ。

 サイドに入っているスリットから、控えめに広がった濃灰色のパニエのフリルが覗いている。またウエスト部分には銀糸で細かい刺繍がされており、ベルトのように見える。他にも袖周りや裾、スリットの周囲に同じ銀糸で刺繍がされていて、灰色でも地味にならないよう工夫がされていた。

 エレナは侍女長とマダムの手伝いでそのドレスを着て、鏡の前に立つ。それは不思議なくらい、エレナに良く似合っていた。


「本当にお似合いでございます。お嬢様にぴったりですわ!」


「──……ありがとうございます……」


 エレナはマダムの言葉にも、背後で満足げに頷いている侍女長にも返す言葉を持っていなかった。

 こんなに素敵なドレスをエレナのために仕立ててくれたことが、嬉しくもあり、怖くもある。

 エレナはその寸法に何も問題がなかったドレスを脱いで、片付けをしているマダムと侍女長を置いて、先程までいた客間に戻った。

 客間ではフェルナンがテーブルの上に何かの書類を置いて、それに目を通していた。どうやら多忙な中、エレナのドレスのために時間を作ってくれていたらしい。


「ご主人様」


 呼びかけたエレナに、フェルナンは顔を上げた。


「なんだ。脱いでしまったのか」


 残念そうに言ったフェルナンに、バルドが苦笑する。


「フェルナン様、そのような楽しみは明日に取っておくべきかと」


「そういうものかい?」


「そういうものでございます」


 図らずも心臓が大きく跳ねた。エレナがドレスを着るのを、フェルナンは楽しみだと思ってくれているのか。

 これまでとは違う、エレナのために選ばれた、灰色のドレス。エレナはどうしたら良いか悩み、しばらくして勇気を出して口を開いた。


「あの……私が受け取っても良いものでしょうか」


 そう。ロマンス小説的に言えば、自身の色を贈るというのは、特別な異性にするものだと相場がきまっている。エレナのような使用人に贈るものではない。日頃の感謝を込めて、などの言葉だけでは無理がある贈り物だ。

 しかしフェルナンは動揺しているエレナを知ってか知らずか、飄々としている。


「受け取ってほしくて選んだんだよ」


「そう、でごさいますか」


 そんなに甘い声で言わないでほしい。エレナだって一人の女性だ。自分がフェルナンの特別だと、勘違いしてしまいそうになる。


「うん。──エレナ、この後、少し付き合ってもらえるかな?」


 隙間から覗くフェルナンの目は真剣だった。エレナは緊張して唾を呑み、侍女服の影で手をぎゅっと握り締める。


「はい。構いませんが……」


 フェルナンがエレナの返事を聞くと頷いて立ち上がった。ついてこいとばかりに背後を気にしながら、入り口の扉に手をかける。エレナはマダムと侍女長を置いたままこの場を離れて良いのか困惑した。

 どうしようか悩むその背を押したのは、書類を纏めているバルドだった。


「──行ってきてください、エレナ」


 その声は有無を言わさぬ響きだった。エレナは驚いた後、素直に頷く。


「では、失礼させていただきますっ」


 エレナは一礼して、早足でフェルナンの後を追いかけた。

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