主人公にはなれなくて。6
エレナがフェルナンと外出してから二週間が経った。フェルナンから貰った本は昨日が発売日だ。エレナは今日までに何度か読み返したその本を両手に抱えて、女性使用人の寮の廊下を急ぐ。エレナの終業時間は、一般の使用人よりも遅い。友人の就寝に間に合うだろうか。
エレナが目的の部屋の扉を軽く叩くと、リリアナが中から扉を開けてくれた。既に夜着に着替えてしまっているが、室内の明るさとはっきりとした表情から、まだ起きていたことが分かる。エレナはほっと息を吐いた。
「エレナ、どうしたの?」
「遅くにごめんね、リリアナ。これ、ご主人様に教えたの、貴女だって聞いたわよ」
そう。この本を貰ったとき、フェルナンはリリアナに聞いたと言っていた。既にエレナは貰ってから何度も読んでいるのだから、この本を贈られる原因となったリリアナにも読んでもらおうと思ったのだ。勿論ロマンス小説仲間のクララにも、次に貸すつもりでいる。
「あ、デボラ先生の新刊! 流石はバジェステロス公爵様ね」
リリアナは本を見て目を輝かせた。印刷技術が発達途中の現在、新聞やペーパーはまだしも、装丁がしっかりしている人気の小説を発売後すぐに手に入れられる者は、実はそう多くない。
「リリアナ……」
その反応に、エレナは少し呆れてしまう。フェルナンならば手に入れることができると予想して、エレナがロマンス小説を、それもデボラが好きだと教えたのだろう。実際エレナは、デボラが執筆した本ならば幻と言われている初期の作品と発売前のもの以外はほぼ揃えている。リリアナもエレナの部屋に来てそれを見て知っていたはずだ。つまり、そういうことである。
「はい、お陰で楽しく読めたわよ」
エレナは本をリリアナに差し出して、くすりと笑った。リリアナが満面の笑みでそれを受け取った。
「ありがとう、エレナ!」
他人から貰ったものを貸し出すのはどうかとも思ったが、ロマンス小説に関しては、それとこれとは別である。エレナにとって、語り合うところまでが楽しみなのだ。
そういえば、以前デボラの一つ前の新刊の話をリリアナ達としたのは半年以上前だった。丁度その頃、エレナはフェルナンの専属侍女となった。花盛りだった春から、季節は巡り、すっかり秋になっている。エレナがフェルナンに抱く気持ちも、随分変わったものだと思った。
その次の日の夜も、エレナはいつものようにフェルナンの私室で仕事をしていた。今は脱衣所で部屋着に着替えているフェルナンを待っているところである。
同じ部屋にいるバルドがおもむろに口を開いた。
「エレナ。来週末、フェルナン様の夜会に同伴してください」
いつもの夜会への同伴指示だ。もう慣れてしまったそれにエレナは頷く。そして、カルダン伯爵家の夜会以来欠かさずしている質問をする。
「かしこまりました。今回はどちらの夜会ですか?」
「王宮だよ」
エレナの質問に答えたのは、問いかけたバルドではなく、たった今着替えを済ませて出てきたフェルナンだった。
「ご主人様!」
咄嗟に声を上げる。フェルナンは真剣な表情でエレナを見つめて、口を開いた。まるで剣を構えた剣士と向き合っていて、目を離すと命の危険があるかのような真剣さだ。勿論エレナはただの侍女であるし、この邸でそのような危険はない。フェルナンは一体何と戦っているのだろう。
「エレナ。王宮の月見の宴に、僕と一緒に出席してほしい」
「月見の宴……」
それは王宮で行われる夜会の中でも、特に規模の大きなものだ。古くから行われてきたその夜会は、秋の最中で最も大きな満月の日に行われる。普段は地方にいる貴族も議会に合わせて王都に集まっており、参加する者が特に多い。また、成人した王族が全員参加するのも特徴だった。エレナも去年は両親と共に参加している。
フェルナンは、自身に呪いをかけた王女がいることが分かっている夜会に、エレナと共に参加すると言っているのだ。それはつまり、ある意味では正しく戦いだろう。
フェルナンのその透き通った灰色の瞳を覗き込んで、エレナも共に戦場に向かう覚悟を決めた。
「はい、かしこまりました」
「ふふ……そうか。ありがとう」
声音からエレナの緊張を察したのか、フェルナンが思わず漏れてしまったというように笑った。
「笑わないでくださいませ」
「ごめんね。──夜会の前日に衣装を合わせるから、そのつもりでいてね」
エレナは頷いた。いつもフェルナンの妹である王太子妃アマーリアのドレスを手直ししたものを着ているので、サイズ合わせという意味だろう。しかこれまでは以前測った寸法で全て作業ができていたようなのに、今回合わせるのはどうしてだろう。半年経って、寸法が変わっただろうか。
「了承いたしました、ご主人様」
疑問に思っても、どうせフェルナンの命令に逆らうつもりがないエレナは、それを呑み込んだ。
バルドが視界の外で手帳に何かを書きつけていることにも、フェルナンがいつも以上に甘く微笑んでいることにも、このときのエレナは気付くことができなかった。
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