主人公にはなれなくて。3
フェルナンは本当に眠ってしまったようだ。規則正しい寝息が隣から聞こえてくる。エレナもクッションに背を預けて目を閉じる。ざあ、と風が走る音が心地良い。
目を開けて、折角貰ったのだからと、本を読むことにした。フェルナンが眠ってくれたお陰で、気を遣わずに集中して読める。
物語は続きから始まっていて、想いが通じ合った二人が結婚準備のために奔走していた。読みやすく挿絵まで美しいその物語に、エレナはあっという間に引き込まれる。
「それにしても、プレゼントが本、なんて」
ロマンス小説的には、男性からのプレゼントはドレスや宝石と相馬が決まっている。エレナもこれまでに何度となくそういった場面に心をときめかせてきた。今読んでいる物語の中でも、ウエディングドレスを好きに作って良い、と主人公が言われて顔を赤くする描写があった。
しかしエレナは、フェルナンがリリアナに聞いて、マナーハウスにいる母親に連絡をして、この新刊を手に入れてくれたのだと思うと、とても嬉しかった。多忙なフェルナンが、エレナのためにと時間を使って動いてくれたのだ。
「ふふ、ありがとうございます」
フェルナンの寝顔は安らかだ。毎朝起こしているエレナにとっては見慣れた姿だが、こうして自然の中で見ると、より穏やかに見える。
「──少し風が冷たくなってきたかしら」
エレナは近くにあったブランケットをフェルナンに掛けて、また小説の続きに戻った。
随分長い間、物語に夢中になってしまったようだ。気付けば傾いてきた太陽を雲が覆っている。フェルナンを起こすべきだろう。エレナはきりの良いところまで読んだ本に、ついてきた栞を挟んだ。
「フェルナン様、そろそろ起きますか?」
「ん……」
声をかけるが、返事はない。フェルナンは相変わらず寝起きがあまり良くなかった。それも専属侍女として働いてみると、睡眠時間の短さに起因していることが分かった。とはいえ原因が分かったところで多忙なことに変わりはないので、なかなか起きないのだが。
「フェルナン様?」
最近はエレナが起こしにくることをわかっているからか、最初のようなトラブルはなかった。流石に侍女を寝台に引き込んだことは、フェルナンも反省しているのだろう。
「起きる気配がないわ……もうっ、起きてくださいませ!」
エレナはフェルナンの身体に手をかけて揺すった。
次の瞬間、触れていた腕が掴まれ、ぐいと引かれた。バランスを崩したエレナは、そのままフェルナンの身体の上にぼふりとうつ伏せに倒れ込む。顔を胸板にぶつけずに済んだのは幸いだった。慌てて頭を上げると、今度はフェルナンの両腕が身体に巻き付き、ぐるんと四十五度回転する。まるで──まるで腕枕で抱き締められているような体勢だ。
「わ、きゃ……っ」
かあっと顔に熱が集まった。慌ててもがいたが、男性の力強い腕はエレナの力ではびくともしなかった。
「ん」
「あ、あああ、あのっ。私──」
何を言えば良いのか分からない。そもそもこの深い睡眠の中にいるフェルナンに、言葉は届くのだろうか。規則正しい寝息は乱れず、穏やかな寝顔が今は恨めしい。
フェルナンは確かに眠りの中にいる。不意にその表情が柔らかなものになり、形の良い唇が動いた。
「──エ……レナ……?」
「──……っ!」
夢でも見ているのだろうか。フェルナンはとても幸せそうにエレナの名前を呼んだ。そして、抱き締める腕の力が強くなる。
「う、うう……フェルナン様ぁ」
最初の頃とは違うエレナのフェルナンへの想いは、これに耐えることができなかった。あの頃でさえ、エレナは動揺したのだ。今はそれだけでなく、心臓が壊れそうなくらい煩く鳴っている。
エレナはどうしようもなくて、混乱する。結果、手が届く範囲──丁度フェルナンの脇腹のところで、エレナは指を細かく動かした。息が乱れてきたフェルナンは、はっと目を開け、覚醒する。擽ったそうに身体を捻るのを見て、エレナは手を止めた。
「や、ちょ……何、何!?」
「おはようございます、フェルナン様っ!」
茹蛸のように真っ赤になっているエレナを見て、フェルナンは状況を悟ったようだった。
「おはよう、エレナ……わ、ごめん!」
「いえ、よろしいのですよ。分かっておりますから」
エレナは拘束が解かれたのを見計らって、ぱっと身体を離した。せめてもの心の平穏のために、フェルナンに背中を向ける。
「ああ、本当にごめん。──大丈夫?」
細身の割にしっかりした胸板、力強い腕。エレナの名前を呼ぶ甘い声。冷たくなってきた風が、より身体の温度を記憶に刻み込ませる。
「大丈夫、ですっ」
何も大丈夫ではない。それはエレナが一番良くわかっていた。気付かされた特別な想いが、痛いくらいにエレナの心に打ち込まれていく。
エレナは裏口から、フェルナンは正面玄関から帰ることになる。裏口のすぐ近くで止められた馬車から降りて、エレナは笑みを浮かべた。
「今日はありがとうございました。気持ち良い場所でしたし、本も……あの、とても嬉しかったです」
「そうか、良かった。これに懲りずに、また一緒に出かけてくれるかな?」
恥ずかしかったけれど、内心嫌だったわけではない。主人に恋をしても不毛だと分かっている。それでも、仲良くなるくらいなら良いと思った。それくらい、今日は楽しかったのだ。
「はい、勿論です!」
「……っ、それは、良かった」
フェルナンはそそくさと馬車の扉を閉めて、すぐに正面玄関へと向かってしまった。邸の中に入ってしまえば、また雇い主と使用人になってしまうのに。
エレナは自由な心で恋をするロマンス小説の主人公達に、心の底から憧れた。
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