主人公にはなれなくて。2
馬車は途中で森に入った。森の中でも馬車が走る道は整備されているようで、揺れは街を走っていたときとあまり変わらない。
しばらく走って馬車は止まり、外から扉が開いた。先に降りたフェルナンが手を差し出してくれる。エレナはその手を頼りに、馬車から降りた。
そして目の前に広がった景色に、歓声を上げた。
「う、わぁ……」
そこにあったのは、青々とした草原と湖だった。森の中にあるようで、周囲を木に囲まれている。邸のある貴族街や商業地区とは違って、空気が澄んでいる。深呼吸をすると、瑞々しい空気が肺を満たした。
「気に入った?」
「はい、すごいです!」
勢いよく振り返ると、フェルナンはあまりに優しげな笑みを浮かべてエレナを見ていた。目が合った途端に恥ずかしくなって、思わず俯いてしまう。
フェルナンもエレナから目を逸らして馬車の方を向いて、一緒に来ている護衛に指示を出した。
「敷物を用意してあるから、少し休もうか」
ここにいるのは、エレナとフェルナンを除いては、御者と最低限の護衛だけだ。御者は馬と一緒に湖の側に行ってしまった。今のうちに馬を休ませるのだろう。
エレナがいるので侍女は連れてきていない。代わりに護衛が、馬車の荷台から荷物を下ろして、大きな木の影にシートを広げ、小物を並べていった。
「こ、これは……ピクニック、ですね!」
出来上がったのは、快適そうなピクニックスペースだった。大きなシートの上に、大小のクッションが複数置かれ、中央にバスケットと水筒がある。バスケットの中にはサンドイッチが入っているようだ。公爵家の料理人が作ったサンドイッチなら、美味しいに決まっている。
「うん、そうだよ。たまにここでゆっくりするのが好きでね。実は、公爵家の私有地なんだ」
「そんなところに私を……ありがとうございます、フェルナン様」
エレナは感動して、勧められるがままにシートの上に座った。普段あまり床に座ることはないが、シートの下の草と大きなクッションのお陰で座り心地も快適だ。というよりも、大きなクッションが、身体を包み込むように柔らかく抱き止めてくれている。
「うわぁ、ふわふわです」
更に小さいクッションを抱えたエレナは、あまりの居心地の良さに目を細めた。秋の始まりの木陰は暖かいのに風が心地良い。
「今日は、お礼がしたくて連れ出したんだ」
「お礼、ですか?」
首を傾げたエレナに、フェルナンはバスケットの中のサンドイッチを勧める。エレナが一つ選んで手に取ると、フェルナンも選んだサンドイッチを口に運んだ。
「エレナのお陰で、僕は今こうして普通の服を着ていられる。きちんと色がある服を着ていられるお陰で、式典でも問題なく務めを果たせる」
「そんな、私は何もっ」
フェルナンのあまりに大袈裟な言い方に、エレナは慌てて首を振った。そんな大それたことはしていないのだ。エレナにとっては、毎朝服を選んで渡しているだけで。
フェルナンが苦笑して、横に置いていた小さな包みをエレナに渡した。エレナはそれを受け取り、促されるままに包みを開く。中身は本のようだ。
その表紙を見て、エレナは驚き目を見張った。
「ありがとう。何を贈るか悩んだのだけど、同僚の……リリアナに聞いたら、エレナには恋愛小説が良い、それもデボラの本が好きだと教わったから」
「これは……っ! デボラ先生の、新刊? あれ、でも発売はまだで──」
エレナがフェルナンの専属侍女になる前にクララから借りて読んだ本、その最新刊だった。しかしその本は、一週間後が発売予定になっていたはずだ。その日のためにお金を取っておいてあるので、間違いない。
「領地の母上に連絡をしてね。もう見本誌ができていたからと、送ってもらったんだ」
「え?」
「その本の作者。デボラって、母上なんだ」
「──お、大奥様……!?」
その衝撃の告白に、エレナは驚き本を落としてしまいそうになった。ロマンス小説を書くなど、貴族としては通常あまり褒められたことではない。作家というのは、一般的には平民の仕事である。しかし思い返してみれば、デボラの小説は、貴族社会をよく知っている人間が書いたと言われても納得できるほど、描写が丁寧だった。貴族の使用人あたりかと思っていたのだが、まさか本当に貴族──どころか、前公爵夫人だったとは。
「リリアナも知らなかったみたいだよ。母上は仕事のときに身分を隠しているから、そうだろうとは思っていたけれどね」
エレナは表紙の美しい絵を軽く撫でながら、何度も頷いた。こんなに素敵な場所で、こんなに素敵なプレゼントを貰えるなんて思っていなかった。早く読みたい。この表紙を捲った先にどのような恋愛や冒険があるのかと思うと、わくわくした。
そんなエレナの様子を察して、フェルナンは笑みを深める。
「僕は少し休むから、読んでいて良いよ。良い季節だから、外出が気分転換になれば良いと思ったんだ。勿論ここから見える範囲なら、何をしても良いからね」
「ありがとうございますっ! とても嬉しいです」
「良かった。その笑顔が見たかったんだ」
エレナは嬉しくて貰った本を抱き締めた。それを見て笑ったフェルナンが、クッションに身体を埋めて目を閉じる。
本当に自由にしていて良いようだ。エレナはならばとすぐにクッションに寄りかかり、早速表紙を捲り、物語の中に集中した。
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