これは恋ではありません!8
それは優雅な舞踏曲だった。曲が変わったのを合図に、皆がそれぞれのパートナーの手を取り、フロアの中心へと移動していく。
フェルナンも当然のようにエレナに手を差し出してくる。目の前のその手は、エレナの手よりもずっと大きい。すらりと綺麗な手と思いきや、実はところどころの皮膚が硬くなり盛り上がっている。そのうちのいくつかは、ペンがあたるところだろうと思うと、少し笑える。
しばらくまじまじと観察するように手を見ていると、フェルナンが軽く咳払いをして苦笑した。
「ほら、踊ろう?」
「っ、はい……」
エレナは見過ぎたことを反省し、その手に自らの手を重ねる。もう大分慣れたはずのその手の温もりに、エレナはまた困惑した。フェルナンとの距離がこんなに近いと、勘違いしそうになる。
音楽に合わせて踊り始めると、周囲の雑音は聞こえなくなっていった。エレナの動きに合わせてドレスの裾が舞い、フェルナンがより美しく見せようとリードしてくれる。初めて踊ったときよりも、踊り慣れた今は息も合い、より踊りやすくて楽しかった。
身体が軽くていつまでもこのままでいたいような、恥ずかしくてすぐにでも離れてしまいたいような、不思議な気持ちだ。
「やっぱり、エレナと踊るのは楽しいな」
フェルナンが嬉しそうに微笑む。
「私も、楽しいです」
言って、エレナも微笑みで返した。なんて素敵な人なのだろうと思わず好意を込めた目を向けそうになって、そこから浮ついた色を消した。
フェルナンをどんなに身近に感じても、それはエレナがフェルナンのパートナーをしている──つまりは、恋人のふりをしているから。優しくしてくれるのは、エレナがいなければフェルナンは呪いに対抗できないから。だから、勘違いをしてはいけない。
「フェルナン様、今日はありがとうございます」
「何が?」
「私が困っていたから、助けてくださった……んですよね」
エレナはできるだけ疲れを面に出さないようにしていたつもりだったのだが、フェルナンに気付かれていたのだろう。優しいフェルナンは、きっとエレナの憂いを晴らすために、この夜会でエミリオに釘を刺してくれたのだろう。
「違うよ」
しかしフェルナンの言葉は予想したものとは異なっていた。
「──え?」
フェルナンが困ったような顔で、エレナの笑顔を見下ろしている。
「僕が、他の男に消費されるエレナを見ているのが嫌だったんだ」
エレナはその瞳の奥に宿った真剣な色を見てしまった。無骨な眼鏡のレンズに光が反射して、ドレスアップしたエレナが映っている。自身の頬が赤く染まっているのが見えて、エレナは思わず目を逸らした。
「──消費だなんて。大袈裟です」
「現に疲れていただろう? 駄目だよ。エレナは僕の……」
フェルナンが手を握る力を強めて、エレナの腰を引き寄せる。その力強さが頼もしくて、エレナはフェルナンが一人の魅力的な男性だということを再認識させられた。
言葉の続きが気になって、上目遣いにおずおずとフェルナンの顔色を窺う。
「フェルナン様……?」
しかしフェルナンは苦笑するばかりで、エレナに答えをくれなかった。
「ここで話すことでもないんだ。──これで、エレナの次の休日は空いたよね」
やっとエミリオに縛られない休日だ。エレナは嬉しくて満面の笑みになる。
「はい、ありがとうございます」
公爵邸に戻ったら、今夜のうちに両親に手紙を書いて、改めて見合いを断ってもらおう。今度は絶対に受け入れられるだろう。なにせ、エレナのことをバジェステロス公爵のパートナーだと思ってくれているのだから。
そう思えば心が弾む。久しぶりにロマンス小説をゆっくり読もうか。それとも、街に出て書店を巡ろうか。考えるだけでも自然と笑顔になる。
「僕に、付き合ってくれないかな。連れていきたいところがあるんだ」
フェルナンのその言葉は、またもエレナから自由な休日を奪う言葉だった。エレナは少し残念に思いながらも、これまでのように嫌な気はしなかった。それどころか、何やら嬉しい気持ちがむくむくと湧き上がってくる。
「私でよろしいのですか?」
「エレナが良いんだ」
フェルナンは即答した。その迷いのなさは、エレナの迷いを消し去っていく。
「では、よろしくお願いします」
どこに連れていかれるのかは分からないが、きっと悪いところではないだろう。フェルナンを見ていると、そう思う。
ロマンス小説に浸るのは、もう少し先にしよう。エレナには明日からの仕事も、次の休日の予定もあるのだ。
フェルナンがエレナを見つめて笑みを浮かべる。その笑みは甘く優しくエレナの心に染み込んでいく。まるで遅効性の毒のように、それはすっかりエレナの全身を侵していた。
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