これは恋ではありません!7

 決して無難に済んだとはいえない挨拶を終え、フェルナンのエスコートでエレナは会場の端まで移動した。フェルナンが近付いて来た給仕からシャンパンを二杯受け取り、一杯をエレナに手渡した。エレナはそれを受け取り、そっと口に運ぶ。

 一口飲んで、はたと気付く。すっかりフェルナンのペースに乗せられてしまった。

 先程のカルダン伯爵との会話について追求したかったが、周囲に聞かれるわけにもいかない。しばらく考えたエレナは、隣にいるフェルナンの腕を引いた。少し屈んだフェルナンの耳に自らの口を近付ける。フェルナンがつけているコロンがふわりと香り、その甘さにどきりとした。エレナは誤魔化すように、質問を急ぐ。


「フェルナン様、今のは──」


 フェルナンはちらりとエレナを見て、眉を下げた。口元に手を添え、エレナに耳を向けるよう促す。エレナはそれに従った。

 周囲から見れば、仲睦まじい恋人同士の内緒話にしか見えないことに、エレナは気付いていない。


「ごめんね、エレナ。でも明言はしていないから、大丈夫だと思うよ。後から何か言われても勘違いだと言えばいい」


 明言とは、エレナとフェルナンの関係のことだろう。だがあの言い方では、恋人か、婚約者だと受け取られて当然だと思う。カルダン伯爵の次男エミリオとエレナの見合いが続いていると、知ってのことだろうか。


「あの、それは」


「待って。来たよ」


 問い詰めようとしたエレナを、フェルナンが片手を上げて遮った。外された視線を追って会場の中心に目を向ける。そこにはこちらに向かって迷いなく歩いてくるエミリオがいた。

 距離があっても、相変わらずその煌びやかな服装は目立つ。今日は黄色に青がアクセントになっているデザインの夜会服だ。装飾品は金。シャンデリアの明かりを受けて、きらきらと輝いている。──いくら派手好きでそのような服が似合うとはいえ、フェルナンを見た後にエミリオを見ると、目に痛かった。見目の良いエミリオに好意を込めた視線を向ける令嬢達もいるが、エレナの好みではない。


「エミリオ様……」


 エミリオはフェルナンの正面に立ち、恭しく一礼した。


「ようこそお越しくださいました、バジェステロス公」


「こちらこそ、招待ありがとう」


 フェルナンが無難に挨拶を返した。エレナは二人の間にそわそわと視線を彷徨わせる。エミリオは分かりやすく怒りにも似た感情を隠し切れていないし、フェルナンは笑顔で柔らかい声音だが、その穏やかさに反して目が笑っていない。


「いえ、招待客は私が選んだのではございませんから」


「エ、エミリオ様……?」


 エレナはその言葉に驚いた。相手はバジェステロス公爵家当主だ。伯爵家の次男が揉めて良い相手ではない。


「エレナ」


 フェルナンの手が、エレナを落ち着かせるようにゆっくりと背を摩った。夏用のドレスの生地は薄く、フェルナンの手の温もりを強く感じる。エレナはぎこちなく微笑みを返した。

 それを見たエミリオが目を吊り上げる。


「お二人は随分と親密なご様子でいらっしゃいますね。皆、噂しておりますよ」


「噂好きなのは貴族の性だね。皆の想像通りとだけ言っておこうかな」


 そこだけ声を大きくしたフェルナンが、くすりと笑う。エミリオも負けじとエレナを見た。


「ですが彼女は、私と見合い中でございます。それを他の男性と夜会に出席するなど──」


「後から執着したのはどちらかな。……彼女の家から、断りの連絡は来ているのだろう」


 フェルナンの目が細められ、前髪と眼鏡越しの灰色の瞳が攻撃的な色を宿す。


「それは……っ!」


「良い機会だから教えてあげよう。私はね、気に入ったものを得るために手段は選ばないんだ。君も、『噂』で聞いたことがあるだろう?」


 その冴えない見た目からは想像できない攻撃的な態度に、息を呑んだのはエミリオだけではなかった。エレナの心臓もばくばくと煩く鳴っている。

 その様子に気付いたフェルナンが、腰に手を回して抱き寄せてくれた。見上げると、フェルナンは正面を見たまま視線だけでエレナを心配そうに見下ろしている。その横顔は、いつもの優しいものに戻っているように見えた。


「だから、あまりちょっかいを出さないでほしいな。これ以上私と彼女の時間を奪うのなら、容赦しないよ」


 エミリオは完全に萎縮していた。フェルナンの言葉は、自分のものに手を出したらどうなるか分かっているな、という脅しだ。やはり目上の──それもかなり上の立場の人間の刺す釘は、エミリオにもよく効くらしい。


「は、はい……っ!」


「君の今後のためにも、彼女のことは黙っていた方が良い。私と揉めたという経歴では、誰も雇ってはくれないだろうからね」


「──……っ」


 反論をぐっと抑え込んだエミリオが、顔を青くしてその場から逃げていった。エレナはほっとして、肩の力を抜く。フェルナンもゆっくりと深く嘆息して、エレナを見た。


「フェルナン様、あの」


「エレナ。エレナはとても頑張っている良い子だけど、これは駄目だね」


 これ、とはフェルナンと参加しパートナーを務める夜会で、エレナのせいで揉めてしまったことだろうか。それとも、エミリオとの見合いで困っていたことを黙っていたことだろうか。


「も、申し訳ございません」


 しかしエレナの心配をよそに、フェルナンはエレナの頭をぽんぽんと軽く叩いて、そのまま髪の先まで掌を滑らせた。硝子細工にでも触れるような繊細な触り方で、それはまるでロマンス小説のヒーローのようで、エレナは耳まで真っ赤になった。慌てて俯いたが、気付かれてはいないだろうか。


「困っていたんだろう? エレナは、もっと早く相談してくれて良かったんだ。もっと頼りなさい」


「で、ですが──」


「一人で抱えて、エレナが疲れてしまう方が困るよ。いつも僕のために、頑張ってくれているんだから。──それに、エレナには……笑顔が似合うから」


 そう言われて、エレナはどうにか顔を上げていつものように微笑んだ。フェルナンがエレナの表情を見て、安心したように頷く。

 ここが夜会会場であることを忘れてしまうくらい、二人だけの空間のように、穏やかに時間が流れる。それに浸っていたエレナは、会場の音楽が変わったことで現実に引き戻された。

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