もう灰色は見たくない!4

 エレナが指定された時間は、昼食を終えてすぐだった。予想外に半休をもらえたことが嬉しくて、今朝は二度寝をした。


「じゃあ、早速始めようか」


 いつもよりすっきりとした頭で、エレナはフェルナンの寝室にいた。フェルナンとバルドが一緒にいて、他の従僕はいない。目の前の衣装部屋はやはり華やかで、灰色を見飽きているエレナは気分が上がった。


「はい。それであの、私は何をすればよろしいのでしょうか?」


 気分そのままの笑顔で問いかけると、フェルナンは頷いてエレナに向き直った。


「そうだね。今日は条件を探りたいんだ。とりあえず、服を選んでそこに置いてくれる?」


 条件とは、服が灰色にならないためには何をしたら良いか、ということだろう。

 エレナは言われた通り、衣装部屋にある服からフェルナンに似合いそうな臙脂色のジャケットが主役になるように一式揃える。あえて光沢を抑えた臙脂色は上品な印象だ。

 それを指示されたベッドの端に置いた。


「こうでしょうか」


「うん。それで僕が着る、と」


 フェルナンはそれを持って浴室の手前の脱衣所に向かった。なかなか出てこないのは、着替えをしているのだろう。

 しばらくして出てきたフェルナンは、光沢のないくすんだ灰色のジャケットと同色のシャツとスラックスに身を包んでいた。エレナは落胆を隠せず顔を伏せた。


「──駄目ですね」


「駄目だね」


「そうですね……」


 三者三様、それぞれが溜息と共に言葉を吐き出した。おそらく糸から染めて作られたであろう、せっかくの綺麗な臙脂色が台無しである。

 しかしフェルナンはすぐに次の条件を提示した。


「今度は、バルドが服を選んで、そこに置いて。それをエレナが僕に渡してくれるかな?」


「はい、分かりました」


 バルドが返事をして、衣装部屋の服を次々と手に取る。しばらくして、選び終えたバルドがエレナに服を手渡した。


「選びました」


 エレナは受け取った服を見る。今度は夏の青葉のようなみずみずしい緑色のシャツを中心に、白地に黒のストライプのパンツを合わせた爽やかな組み合わせだった。それを、エレナはそのままフェルナンに手渡す。


「どうぞ、ご主人様」


「じゃあ、着てくるね」


 受け取ったフェルナンが、また脱衣所へと移動した。少しするとそのパンツのストライプすら灰色に染まった姿で戻ってくる。


「──駄目かぁ」


「ああ……またお召し物が」


 エレナは残念で仕方なかった。きっとあのシャツもパンツも、とても良いものに違いないのに。

 それからも、エレナが適当に選んだ場合や、エレナが選んだものをバルドが組み替えた場合、灰色になった服を着たフェルナンに触れる場合など、何通りもの方法を試した。

 二度寝でとれたはずの疲れが、もうすっかり戻ってきてしまっている。


「じゃあ、今度はエレナが真面目に選んで、僕に渡してくれるかな」


 日も傾いてきた頃、フェルナンが仕方ないというように嘆息して、少し残念そうに言った。


「はい……」


 もう何度も試して、灰色になるのを見せられている。エレナは心苦しかった。おそらく職人達の技術の結晶であろう高価な服が、次々と灰色になっていくのだ。これを最後にしたい。エレナは衣装部屋と全力で向き合い、その服を選んだ。

 艶やかな絹の白いシャツと、紺に水色の模様のタイ。それに青灰色のスラックスだ。爽やかな夏の組み合わせだ。


「──こちらで! お願い致しますっ」


 エレナは服を抱えた両手を勢い良く差し出した。フェルナンが思わずといったように笑う。


「ふふ、分かったよ。じゃあ、着替えてくるから」


 フェルナンがエレナが持つ服に触れる。次の瞬間、あのときも感じた熱がエレナの指先に走った。服に触れていた手が驚くほど熱くなる。まるでこの服を介して、熱を持つ何かが走り抜けたような感覚だった。


「え、今──」


「どうやら、これが正解みたいだ」


 目を丸くしたエレナに対して、フェルナンは嬉しそうに唇に弧を描いてその服を受け取った。


「ご主人様も……?」


 フェルナンはそれ以上何も言わず、薄く笑って脱衣所へと消える。


「エレナ、今何か違いがあったのですか?」


「ええと、ですね」


 バルドが説明を求めてくるが、エレナには非常に言い辛い。この不思議な現象を、何と説明すれば良いのか。


「私はもうフェルナン様の衣服について、非現実的なことには慣れております。そういった気遣いは無用です」


 そう言われてみればその通りだ。なにせあの灰色に染まってしまう服を、フェルナンの話が本当ならば、バルドも五年間、毎日見ているのだ。


「あの……ご主人様が受け取られる際に、何か、熱のようなものを指先に感じたのです」


「それは、以前と同じ感覚ですか?」


「はい」


 バルドが何かを考えるように、難しい顔で右手の指でこめかみを叩いている。唐突に訪れた静寂にエレナは居心地が悪くなった。落ち着かない心持ちのまま視線を彷徨わせていると、脱衣所の扉が開いた。


「そうか、エレナが感じていたのは熱か」


 どうやら脱衣所まで話が聞こえていたらしい。

 しかしエレナはそれどころではなかった。


「ご主人様、お召し物が……っ!」


 艶やかな絹の白いシャツが、細身の身体にバランス良くついた端正な筋肉を強調する。青灰色のスラックスは爽やかな印象だ。タイは紺に水色の模様で、シンプルな組み合わせに少し遊び心を取り入れていた。

 フェルナンは背が高くてただ細いだけの印象だったが、こうして見ると予想外に男性らしい体つきのようだった。これで髪と眼鏡がどうにかなれば──エレナは少し残念に思った。そういえば、フェルナンがどんな顔をしているのか、エレナは知らない。

 やっと灰色にならなかった服に、エレナは喜びが隠せない。随分長い時間、呪いと戦っていた気がする。


「ああ、成功だね。良かった……けど」


 機嫌の良さそうなフェルナンが、口を濁した。エレナはその様子に首を傾げる。


「何か、問題がありましたか?」


「この場合、エレナには毎朝丁寧に服を選んでもらわないといけないなぁ、と」


 つまり、他の人が選んだ服を渡したり、エレナが前日に選んでおいた服を着たり、ということができないということだろう。先程まで繰り返していた実験で充分に理解していたが、なんとも限定的で、困った能力だろう。エレナは毎日、朝早くから仕事をするはめになるのだ。


「──そう、なりますね」


「ごめんね?」


 フェルナンの謝罪に、エレナより早く、バルドが口を開いた。


「いいえ、構いません。フェルナン様が快適に過ごせるようにするのが、私共の務めですから」


「ちょ……っ」


「何か?」


 咄嗟に言い返そうとしたエレナに、バルドが無言で目を向けてきた。こんなときのバルドの圧力は、エレナに反論を許さない。一言で言えば、怖い。


「イイエ、ナンデモゴザイマセン」


 限界まで棒読みで、エレナは言った。フェルナンは実験の成功とエレナの了承を得られたことを無邪気に喜んでいるように見える。バルドもまたどことなく嬉しそうだ。

 後で必ず労働条件についてはしっかり話し合おうと、エレナはぐっと拳を握った。

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