もう灰色は見たくない!3
そして、本格的な仕事はその日の夜、フェルナンが帰宅してから始まった。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
エレナは玄関扉の横で、バルドと共に一礼した。鞄とコートを預かり、バルドとフェルナンの会話に耳をすます。
「今日は何かあった?」
「いいえ、本日は特に問題はございませんでした。エレナの教育が済みましたので、ただ今よりフェルナン様付きとさせていただきます」
バルドの言葉に、端に控えていたエレナは軽く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「うん。よろしく頼んだよ」
微笑んで頷いたフェルナンに、がちがちに緊張していたエレナは少し安心した。バルドがちらりとエレナを見て、口を開く。
「まだ至らない点も多いと思いますので、何かあれば私にお伝えください。先にお食事でよろしいですか」
「ああ、構わないよ。エレナ、一旦部屋に戻る」
「お供いたします」
エレナはすぐにフェルナンに応える。
「では、私は一度失礼させていただきます」
「ああ、また後で」
バルドは少し深く一礼してその場を離れ、廊下の奥へと向かった。おそらく、厨房にフェルナンの帰宅を知らせに行ったのだろう。
フェルナンはそれを途中まで見送って、私室へと歩き出した。中央の階段を上りながら、エレナに声をかけてくる。
「バルドの教育は大変じゃなかった?」
「はい……あ、いいえ!」
咄嗟に素直な感情が口から溢れ、慌てて首を左右に振った。なにせ、フェルナンの側仕えの仕事を、一日で全て教えられたのだ。それを大変ではなかったと言えるほど、エレナは器用な人間ではない。
フェルナンはそれを聞いて、思わずというように笑った。
「ふふ、そうか。まあ、君を専属にしたのは世話を焼いてもらうことが目的ではないから。そんなに心配しないで」
その優しい言葉に、エレナはほっと小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「そうだね、そんなに堅くならなくてもいいよ。僕も家では気を抜いているから、堅苦しくされると疲れてしまう」
「かしこまりました。──善処いたします」
とはいえ、相手は雇い主だ。そんな簡単に気を抜くことなどできるはずがない。今のエレナにとって、精一杯の返事だ。
フェルナンはエレナの本音を知ってか知らずか、小さく頷いて苦笑する。
「そうか、ありがとう」
確かに無理は言われているが、特別お礼を言われるようなことはしていないと、エレナは思った。
部屋に着いて、エレナはフェルナンの鞄を預かり、コートを壁に掛けた。用意していた部屋着──これは灰色のものだ──を差し出し、受け取ったフェルナンが着替えのために寝室に行くのを見送る。流石にエレナの前で着替えるのはやめてくれるようで、少し安心した。
フェルナンが着替えを終える前に、コートをハンガーに掛けて形を整え、鞄の埃を払った。すっかり着替えたフェルナンが寝室から戻ってきて、エレナに声をかける。
「僕はこのまま食事に行くから、あとは頼んだよ」
「はい、いってらっしゃいませ」
部屋の入り口まで見送り、エレナはすぐに寝室へと向かった。先程まで着ていた服があるはずだ。
確かに寝室についているスリーピングポーチの椅子に、雑に服が置かれている。
「──さて、片付け片付け」
エレナはそれをこのまま衣装部屋にしまう準備をするものと、洗濯に出すものに仕分けた。恐ろしいのは、中に着ている肌着まで灰色なことだ。確かにこれを呪いと言わず、他に何と言うだろう。
食事を終えたフェルナンが、部屋に戻ってきた。入浴はこれからのようで、バルドとは別に従僕が一人ついてきている。
部屋で待っていたエレナに、フェルナンが話を切り出した。
「早速だけど、先日のようなことが起こる条件について、明日検証したい。良いかな?」
エレナより早く口を開いたのはバルドだった。
「勿論です。ですよね、エレナ」
バルドは良い笑顔をエレナに向けて、無言の圧力をかけてくる。エレナに許された言葉は一つだけだった。顔が痙攣らないよう、気合を入れて頷いた。
「はい」
気付いているのかいないのか、フェルナンは優しげな笑みを浮かべる。目が見えない分、どこか胡散臭い。
「うん、ありがとう。じゃあ今日は疲れただろうし、お茶を淹れたら上がりでいいよ」
「お気遣いありがとうございます。では、ご用意して参ります」
エレナは逃げるように部屋を出て、給湯室に向かった。棚から茶器を取り出してワゴンに並べ、ポットにお湯を入れる。並んだ茶葉に手をかけ、はたと動きを止めた。
「寝る前に飲むお茶で、良いのよね……?」
多分きっとそうだと思うのだが、違ったらどうしよう。フェルナンはまだ風呂には入っていなかったはずだ。風呂の前に飲むのなら、違うものだろうか。
「何でこんなにあるのよっ」
誰に言うでもなく、独り言を漏らす。しかし持っていかない訳にも行かず、寝る前に飲むというお茶を淹れていった。怒られなかったので、間違えてはいないらしい。
寮に帰り風呂に入って着替えを済ませたエレナは、ぼすんと音を立ててベッドに転がった。
「はあっ、……もうつっかれたー!」
思ったより勢いがついてしまったが、他の人の迷惑にはなっていないだろうか。いつもより遅い時間になったから、少し不安だった。
明日はフェルナンが休みなので、朝は少し遅くても良いとのことだった。早く休んで、疲れを取ろう。
思いっきり伸びをして布団に包まると、予想より早く睡魔が襲ってきた。それに素直に身を任せ、あっという間にエレナは夢の世界へと旅立ったのだった。
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