平和な日常って幸せだよね。5

 エレナは早速机に向かい、クララから借りた本を開いた。表紙と同じ花のイラストが、中にも装飾として描かれている。弧を描く唇を自身の手で隠すようにして、表紙を開いた。

 物語は前巻の続きから始まっている。シリーズ三作目にあたるこの本では、身分差からすれ違っていたヒーローとヒロインの想いがきっと通じ合うだろう。甘い話になることを期待して頁を捲る。


「──きゃあ、素敵……」


 思わず漏れる嬌声が、机上のランプの明かりだけの薄暗い部屋に響く。


「貴女でなければ駄目なんだ……私だけのものになってくれ、なんて」


 挿絵では、ヒロインの前でヒーローが片膝をついて愛の言葉を囁いている。エレナの頭の中では、その光景が映像として映し出されている。

 憧れるその状況、自分にはそんなこと起こらないだろう。自分で恋愛を見つけられないエレナは、きっと父親が決めた実家の利になる相手と結婚させられるに決まっている。


「──ま、自分で見つけても、お父様に認めてもらえるか分からないんだけどね」


 家のためになる結婚を求められるのは、マルケス子爵家の令嬢として当然のことだ。それでもいざ結婚するとなったら、相手と向き合って、家庭を築いていく覚悟くらいある。

 今こうしてここで働いているのだって、行儀見習いの名目だ。仕事に慣れてきたら、来客対応などの仕事もすることになるのだろう。花の装飾と衣装の管理をする仕事は楽しくやっている。できれば、灰色以外の服もあると嬉しいが──それでもエレナは現状の仕事に満足している。これ以上を望んではいなかった。


「それでも、一回くらい……こんな甘い台詞、聞いてみたいなぁ」


 ただ一人のものになってくれ、などという言葉、言われる機会などそうそうないだろう。結婚したって夫となる人物に言ってもらえるかどうか怪しい。

 エレナは一度溜息を吐いて、また物語の世界に沈んでいった。





「フェルナン様! こちらにいらっしゃったのですか」


 早足で近付いてくるその姿に、フェルナンはバルドを待たせていたことを思い出した。夜会に行く前に、公爵領の会計書類について、質問したいことがあったのだ。

 しかし今のフェルナンにとって、もはやそれは些細なことだった。自身が、灰色以外の服を着ている。これはここ五年はなかったことで、それをできてしまった奇跡の方が重大だ。


「フェルナン……様って──」


 目の前にいる侍女は放心しているようだ。侍女なのにフェルナンの姿を知らなかったから、きっと新人だろうと思った。ならばそのまま気付かずにいた方が気に病まないでいてくれるかと思ってのことだったが、かえって驚かせてしまったようだ。


「ああ、ごめんごめん」


 この場を収めるために、とりあえずへらりと笑って見せた。しかし、やはりバルドはフェルナンを足の先から頭の先までじろじろと眺めている。


「そのお召し物、いかがなさったのですか!?」


 喜色混じりの声でバルドがフェルナンに聞いた。バルドは驚いただろう。フェルナンもまた驚いていたが、笑顔は崩さない。何せこんなに嬉しいことは久しぶりだ。


「そうなんだよ! この服、彼女が」


「──私、失礼させていただきます!」


 フェルナンが説明しようとした途端、エレナは勢いよく頭を下げ、ほとんど走るくらいの速さで逃げて行ってしまった。


「あっ! ちょっと、君!?」


 呼び止めても振り返る様子もない。その逃げっぷりは、まるで危険を察知した兎のようだ。


「フェルナン様!? そのお姿に、あの侍女が関係しているのですか」


 バルドが興奮した様子で、フェルナンに詰め寄ってくる。フェルナンは一度バルドの肩を軽く叩いて落ち着かせた。


「そうなんだよ。実は、あの子が──」


 そして、今あったことを説明する。花瓶をひっくり返したことも話してしまったが、フェルナンにこの服を着せた功績と比べたら、叱られることはないだろう。


「彼女、誰ですか? 名前は聞いていらっしゃるのでしょうか」


「いや、聞きそびれちゃったんだよね。エメラルドの瞳が綺麗だなぁとは思ってたんだけど」


 美人とは言えないかもしれないが、くるくると表情が変わる愛らしい顔をしていた。慌てる姿も面白くて、勢いがあって忙しない子だった。久しぶりに心から笑った。思い出してまた少し表情を緩ませる。

 和んでいるフェルナンに反して、バルドは僅かに目を吊り上げた。


「どうして、貴方様は、大切なところで抜けているのですか! この家に、どれだけの使用人がいると思っていらっしゃるのです? 若い女性だけでも五十人ですよ、五十人!」


 フェルナン一人しかいないとはいえ公爵の邸だ。大勢いるとは思っていたが、両親が引退した今でもそんなにいたのか。


「──バルド、探せるよね?」


 あえて言い切ってみせると、バルドは深く嘆息した。長い付き合いで信頼している相手だから、フェルナンもバルドが使用人であっても気を抜いて話ができる。


「はぁ……分かりました。フェルナン様にとっても、この公爵家にとっても、彼女の力は貴重なものですから」


 もう遅いので仕事は帰ってきてからになさいませ、と言ったバルドが、先に馬車を確認するために玄関へと向かった。フェルナンもすぐにその後を追う。


「ごめんね、兎ちゃん」


 ぽつりと呟いた声は、誰も聞いていない。謝罪の言葉と裏腹に浮き立つ心を抱えて、フェルナンは気が進まない夜会へと向かった。

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