平和な日常って幸せだよね。4
ようやくエレナが落ち着いた頃、衣装部屋の扉が開いた。閉じていた目を開け、壁に寄りかかっていた姿勢を正す。
男性はエレナの選んだ夜会服を身にまとっていた。青を基調として纏めた衣装は、すっきりとした体型と黒髪に良く似合っている。妙に真剣な瞳が、分厚い眼鏡のレンズの奥からエレナを見ていた。
「あのさ、君──」
「あ、お召し物、拝見させていただきます!」
エレナはすぐに扉の前に立ったままの男性の周りを一周し、肩の位置や袖の長さ、裾の位置を確認する。流石公爵の親族のために仕立てられた衣装だ。ぴったり男性の身体に合っていた。
「大丈夫そうです。では、こちらのお洋服はお預かりしますね。本当に申し訳──」
エレナは男性が持っていた灰色の夜会服をほとんど奪うように受け取った。この服も、上質な素材でできているのは間違いない。また灰色の服の手入れをすることになるが、それは仕方のないことだろう。
男性が何かを言おうと口を開こうとした、瞬間、廊下の向こうから聞き慣れた声がした。少し遠くの方からかけられた声は、随分と焦っているようだ。
「フェルナン様! こちらにいらっしゃったのですか」
早足で近付いてきたのは、エレナの上司であるバルドだった。しかしエレナが驚いたのはそこではない。エレナにとって、もっと重大な事実が判明してしまったのだ。
「フェルナン……様って──」
放心しているエレナに構わず、目の前の男性──エレナの雇い主でありバジェステロス公爵でもあるフェルナンは、バルドに向き直ってへらりと笑った。
「ああ、ごめんごめん」
バルドはフェルナンの正面に立ち、驚いたようにフェルナンの姿を足の先から頭の先までじろじろと眺めている。
「そのお召し物、いかがなさったのですか!?」
喜色混じりの声でバルドがフェルナンに聞いた。フェルナンもまた、笑顔を崩さない。エレナは自身がしてしまった失敗に話が向いて、その場で跳び上がった。
「そうなんだよ! この服、彼女が」
まずい。非常にまずい。このままでは、エレナが花瓶をひっくり返して、よりにもよってフェルナンに水をぶっかけてしまったことを、バルドに言いつけられてしまう。
「──私、失礼させていただきます!」
エレナは勢いよく頭を下げ、ほとんど走るくらいの速さでその場を離れた。後ろから追ってくる声があったような気がするが、きっと気のせいだろう。少しでも叱られるのを先延ばしにできればそれで良い。
「気付かなかったわ……! そんな、嘘でしょ。そりゃ灰色の服着てたけど、ご主人様よ? 次期宰相なんて聞いてたから、もっと、こう」
偉そうな感じの人だと思っていた。
二階の階段まで逃げてきて、やっとエレナはひと息つくことができた。水のない花瓶を手に取り、水を補充して綺麗に生け直す。それから灰色の夜会服を持ってランドリールームに行き、染みにならないよう、丁寧に洗って室内に干した。
今日の仕事を全て終えて手が空いたエレナは、定時を過ぎたのを良いことに、大急ぎで同じ敷地内にある女性使用人の寮へと帰った。
食事と着替えを済ませてやっと腰を落ち着けたとき、エレナの部屋の入り口の扉が数回叩かれた。
「エレナ、いる?」
クララの声だ。安心する仲間の登場にエレナは肩の力を抜いて、扉に駆け寄る。
「クララ……! 入って入って。もう今私、一人でいたくなくって」
一人でいると、今日の失敗がぐるぐると頭を回る。急かすようにテーブルセットの椅子をぽんぽんと叩くと、本を抱えて入ってきたクララは苦笑してそこに座った。
「何、どうしたの?」
「それが──」
首を傾げたクララに、エレナは事の次第を説明する。最初は笑って聞いていたクララだが、相手がフェルナンだったことを話すと、真顔になって深く嘆息した。
「うわ……やらかしたわね。エレナったら、普段はそんなことしないのに」
「そうなのよー、どうしよう!?」
頼れるのは仲の良いクララくらいだ。縋るような目を向けるが、クララも困った顔をするばかりだ。
「どうしようって言っても。私にはどうしようもないわよ!?」
「そんなあー」
エレナは分かりやすく落ち込んだ素振りをして見せた。とはいえクララが来てくれてやっと落ち着いた頭で考えてみれば、きっと明日──は仕事が休みだから明後日、バルドから少しきつく叱られるくらいだろう。悩んでいた頭が、すうっと晴れやかになる。
だからここからは、もうただ戯れているだけのようなものだ。クララもそれを分かってくれているのか、とうとう苦笑して抱えていた本をエレナに差し出した。
「ほら、読み終わったから持ってきたわ。これ読んで元気出して」
本の表紙には、華やかな男女の絵。
「デボラ先生の新作!」
今日一日楽しみにしていた、読みたかったロマンス小説である。貸してくれるクララに心から感謝だ。
「ありがとう。うう……もう、早速読んで気持ち切り替えるわ……」
「そうするのがいいわよ。別に大変なことをしたわけじゃないんだし、気にし過ぎることないって」
「そうよね。うん。ありがとう、クララ」
エレナはぱらぱらと本の頁をめくって、ちらりと見えた挿絵に思わず緩んだ頬を引き締めた。その変化を見逃さないクララは、染めた頬に手を当てる。
「ううん。ほんっとうに素敵だったから、早く読んで、語りましょうね!」
「楽しみ! 読み終わったら返しに行くわ」
それからしばらく会話をして、クララは自室に帰っていった。昨日の夜も夜更かしをしてしまったが、今日も早くは眠れそうにない。やっと手にしたロマンス小説を、朝まで我慢できるはずがなかった。
エレナは早速本を開いて、並んだ活字を目で追い始めた。すぐにその幸福な物語に引き込まれて、次の日には、エレナは今日あったことなど綺麗さっぱり忘れてしまったのだった。
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