平和な日常って幸せだよね。3

「本当に申し訳ございませんでした……」


 エレナは絨毯に零した水を拭き取りながら、夜会服にかかった水をタオルで吸っている男性を見上げた。


「僕のことは気にしないで。──できれば本当に風邪でもひいて、夜会に行かずに済めばもっと良いんだけどなあ」


 前髪の隙間、分厚いレンズの眼鏡越しに、明るい灰色の瞳がちらりと見えた。瞳の色までも灰色なのかと思ったが、それでも思っていたよりも涼やかな印象でどきりとする。雪の降る日の空のような、澄んだ灰色だった。


「ご出席されるのですよね。お召し替えを手伝わせて頂きます。貴方様のお召し物のあるお部屋に連れて行って頂けますか? お手数をおかけしますが、私、まだこちらに勤めて日が浅く──」


「僕が行ったところで女性と踊る訳でもないし、友人とは夜会以外でも会うし。その分仕事は進まないし。意味ないと思うんだよね」


 エレナは絨毯の水を吸わせたタオルを持ってきていた桶に入れ、右手に提げた。男性は夜会に行きたくないのだろうか。とはいえ夜会服を濡らしてしまった分まではどうにかしないと、エレナとしても気がかりなままだ。


「──貴方様が夜会に行くかどうか、私は存じ上げませんが、そのお召し物のままお帰しするわけには参りません」


 エレナが頭を下げると、男性は苦笑して諦めたように頷いた。


「分かったよ。じゃあ、一緒に来てくれるかい」





 その部屋は、今は使っていない公爵の服と親族の服が仕舞われているという衣装部屋だった。やはり男性は公爵の関係者なのだろう。

 まだエレナがここにきてから季節が変わっておらず、泊まりの来客もなかったため、この部屋に入るのは初めてだ。


「──うわぁ、すごいですね……」


「そうかな? ああ、この辺りの服は僕のサイズに合うよ」


 男性はクローゼットの一角を手で示した。そこには様々な色の服がずらりと並んでいる。エレナはその光景に圧倒され、同時に目を輝かせた。思わず衣装に駆け寄り、その袖口に触れる。


「ここから同じ色の──」


「え、この生地、異国のものですよね! こんなに近くで見るの、初めてです! 艶やかで美しいわ。こっちはうちの領地の染めですよ。うわぁ、これ、色がとっても素敵……きっとあの工房のものでしょうね。クラヴァットもこんなに沢山──どちらのお召し物になさいます?」


 エレナは興奮のままに声を上げた。男性はその勢いに圧倒されたように目を見張って、ぱちりと一度瞬きをする。


「ああ、何故こんなに様々なお召し物があるのに、貴方様はそのような色を着ていらっしゃるのです? 私のご主人様もそうですが、公爵家の方は灰色を着なければならないという決まりでもあるのですか」


 こんなに色とりどりの、選びがいのある衣装棚は久しぶりだった。エレナが手入れをしている公爵の服は、全て灰色だ。コートもシャツも、スラックスも灰色。公爵の部屋に備え付けのクローゼットには、灰色の服しかない。手入れをしていても、全く面白みがなかった。ここ最近は灰色一色で、ノイローゼにでもなるかと思っていたのだ。


「決まりというよりは、呪いかな」


「呪いなんてご冗談を。少々お待ちくださいませ。ただ今ご用意致します」


「あ、いや──」


「大丈夫です! これでも、衣装選びには自信がありますので」


 エレナは小さく笑って、たくさん吊るされ並んでいる衣装をまじまじと見た。ここから好きに選んで良いとは、なんて幸せなのだろう。


「ご主人様と同じ夜会にご出席されるのなら、王城での豊穣の宴でございますわね。でしたら、色味は春らしく爽やかな感じで、でも夜会だから少し華やかに……」


「あ、いやあの」


 エレナは棚から、鮮やかな青の上着と、青灰色のスラックスを選んだ。上着には銀糸で刺繍がされている。装飾の控えめな白いシャツに、シルバーのクラヴァットを合わせる。クラヴァットにはサファイアのブローチがついていたので、丁度良いだろう。男性が身につけている靴や手袋、髪を纏めているリボン等は灰色だが、きっとこの衣装なら似合うだろう。

 選んだ服をまとめて両手に抱え、エレナは男性に向き直った。


「こちらでいかがでしょうか! あ、お嫌いな色はありましたか?」


 男性はエレナの言葉に首を振った。


「いや、嫌いな色はないが──」


「でしたら、どうぞお召しになってくださいませ」


 エレナが笑顔で差し出している服に男性は手を伸ばし、触れる直前で躊躇したようにその手を引いた。


「──どうかなさいましたか?」


「いや……何でもないよ。ありがとう」


 しかし言葉と裏腹に、男性はなかなか受け取ろうとしない。先程夜会はあまり気が進まないようなことを言っていたが、そのせいだろうか。

 エレナは男性が着ている夜会服を改めて見てはっとした。灰色はただでさえ水染みが目立つ。まして夜会服のような光沢のある生地では、それがそのまま跡になってしまうことも多いのだ。


「あの……早くお召し替えをなさった方がよろしいかと思います。今お召しになっているお洋服が、染みになってしまうと大変ですから。今日は私がお預かりして、綺麗にしておきます。本当に申し訳ございませんでした」


 うっかりしてしまったせいで、迷惑をかけてしまった。エレナは申し訳ない気持ちで、しかし早く着替えてほしくて、頭を下げてもう一度力強く服を差し出した。


「いや、そうじゃないんだけど……うん。着替えるよ」


 その言葉に、エレナは頭を上げて顔を輝かせた。男性は少し強張った表情で、おずおずとエレナの持つ服に触れる。


「──……っ!」


 瞬間、服に触れていた手が、エレナ自身もびっくりするほど熱くなった。いや、手が熱かったのではなく、服から熱が伝わったのかもしれない。反射で持っていた服から手を離す。


「え、今──」


 目の前にいる男性は、驚いているエレナに構わず、じっと手にした服を見つめている。その反応に、熱を感じたのはエレナだけではなかったのだろうかと思ったが、もし違ったら変な女だと思われてしまうような気がして、口を噤んだ。代わりに笑顔を貼り付ける。


「どうぞ、私は部屋を出ていますので、ゆっくりお召し替えください!」


 エレナは一礼して早足で部屋から出た。追いかける声はなかった。背後でばたんと扉が閉まる。壁に背中を預けて、じっと自身の掌を見つめた。今の熱は何だったのだろう。考えても何も分からず、エレナは一人廊下で首を傾げた。

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