平和な日常って幸せだよね。2

 全ての花瓶に花を生けるのも、二人でやれば随分と早く終わった。


「ありがとう、リリアナ」


「良いのよ。後は、これをそれぞれの場所に置くのよね?」


「ええ。だけど、それは私がやるから大丈夫よ」


 普段から同じ仕事をしているエレナと違い、リリアナには花瓶を置く場所は分からないだろう。


「ありがとう。本、楽しみにしてるわ」


 リリアナが出ていったサロンで、エレナは気合を入れ直した。この花瓶を運ぶ作業が、実はかなり手間なのだ。


「あーあ。本の中みたいに、ちょちょいって魔法で浮かせられたら良いのに」


 勿論現実世界に魔法なんて便利なものは無く、あったとしてもエレナに使いこなせるとは思えない。今はこつこつ運ぶしかない。エレナは食堂に運ぶ花瓶を台車に乗せた。





「最後は、二階の廊下ね」


 そろそろ夕方になってきた。これを運べば、今日のエレナの仕事は終わりである。エレナは深紅の絨毯が敷かれた階段を慎重に上った。うっかりしては、大変なことになってしまう。念のために、階段の端の方の、いつでも手摺を掴むことができる場所を選んだ。

 玄関からサルーンにかけて吹き抜けになっているこの邸は、無駄に天井が高い。そして階段も長い。両手に抱えた大きく重たい花瓶で隠れがちな視界に、恐る恐る先に進む。


「この花瓶……壊してもとても弁償できないわね」


 なにせ、いかにも立派な絵付けの花瓶だ。値段を考えると、余計に怖くなった。

 一段一段上って、やっと二階に着こうというそのとき、右足が階段の端を滑った。


「え、嘘っ!」


 花瓶が、いや、それより自身の心配だ。この長い階段を落ちたら、無事でいられる気がしない。咄嗟に手摺に手を伸ばした、その手が空を掴んだ。落ちると覚悟を決めたエレナだったが、しかし予期していた衝撃はなかった。

 がたん、という花瓶が床に落ちる音──割れていないようで安心した──と、水が溢れる音がする。

 空を掴んだ筈の右腕が、ぐっと引かれた。腕の付け根が軋んで痛みを覚える。次に感じた固さに、放心していたエレナははっと意識を引き戻した。誰かの腕の中にいる。それも、この感触は間違いなく男性だ。


「も、もも──申し訳ございません!」


 両手を突っ張って慌てて離れようとしたエレナを、腕の持ち主は離さないとばかりに抱き締めた。突然のことに、エレナは驚きを隠せない。


「あのっ!」


「後ろは階段だから、少し待ちなさい」


 その男性は角度を少し変えて、エレナを離した。どうやら踊り場まで引き上げてくれたようだ。自由になった身体で、エレナは頭を下げる。


「ありがとうございました」


「いや、無事で何よりだよ。それより……これ、大丈夫かな」


 顔を上げたエレナは、男性と周囲の惨状に目を見張った。絨毯は水浸し、花はぶちまけられ、高価だろう花瓶は床に転がっている。とりあえず割れてはいないようだ。


「あー……」


「片付けるの大変だね。大丈夫?」


「はい、大丈夫で──」


 思わず項垂れそうになったエレナの視界に、今助けてくれた男性が映り込んだ。男性が着ている灰色の夜会服が、腰から太腿あたりにかけて水で濡れて色が変わってしまっている。これから夜会に行くところだったのだろうか。


「申し訳ございません、お召し物が!」


 慌てて言うエレナに構わず、男性は呑気に自身の服を見下ろした。


「ああ、本当だ。まあ、着替えれば良いよ。怪我がなくて良かった」


 男性が口角を上げて言った。そこでエレナは初めて男性の顔を見た。顔と言っても、その半分は長い前髪によって隠れていた。中途半端な長さの髪を雑に一つに束ね、無骨なデザインの眼鏡を掛けている。その前髪と眼鏡に遮られ、瞳は確認できなかった。

 随分と癖の強い見た目だが、この邸に夜会服でいるということは、バジェステロス公爵の縁者だろう。間違いなく高位の貴族だ。エレナは顔を真っ青にした。


「これから夜会へ行かれるご予定でしたか? お召し物をどうにかなさらなければ……でも、サイズが」


 この邸にある服は公爵家のものだ。公爵と、その親戚分の服しかない。エレナが勝手に貸すことはできない上に、男性に合うサイズがあるかもわからなかった。せめて乾かすことはできないだろうか。考えを巡らせていたエレナに、男性は首を振った。


「僕は着替えれば良いから」


「着替えと仰いましても──」


「大丈夫大丈夫。僕の着替えならここにあるよ。それより、これをどうにかしなくて良いのかい?」


 男性が手の平で床を示す。エレナは気を取り直して、真っ先に花瓶を起こして傷がないことを確認し、拾い集めた花をそこに挿した。水は後で入れれば良いだろう。その花瓶を、すぐ近くにある飾り台の上に乗せる。

 着替えがあるということは、やはり公爵の親戚だろうか。大変失礼なことをしてしまった。


「少々お待ちください。今、タオルをお持ち致しますので。その後でお着替えを手伝わせてください!」


 身なりは変だが親切だった。あの男性が風邪をひいては大変だ。エレナはタオルを取りに行くため、長い階段を駆け下りた。

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