第1章

平和な日常って幸せだよね。1

 エレナは邸に飾る花を選びに、公爵邸の広い庭園に出た。艶やかな金髪もサファイア色の瞳も日の光を受けて輝いているが、そんなことは今のエレナには関係なかった。ただ春の日差しが暖かく、寝不足のせいで襲ってくる眠気と戦うので必死だ。


「うう、気持ち良い。お昼寝したい……」


 欠伸をおし殺して、綺麗に咲いている白い薔薇の花を摘んで棘を落とす。腕に提げている籠に、選んだ花を入れていった。

 エレナはマルケス子爵家の娘だ。礼儀見習いのため、二ヶ月前からバジェステロス公爵家の侍女として働いている。

 マルケス子爵領は鉱山も肥沃な土壌も持っていないが、絹織物が特産で、服飾の世界では有名な土地だ。勿論エレナもマルケス子爵家の令嬢として、幼い頃から服飾や色彩について勉強をしてきた。そのお陰で、ここでも花の装飾や衣装の手入れを任せてもらっている。


「エレナー! これ見てよ、これ!」


 邸の方から、侍女仲間のクララが駆け寄ってきた。エレナの前で、両手で握り締めていた本を見せてくる。


「デボラ先生の新作、やっと手に入ったの!」


 表紙には繊細なタッチで抱き締め合う男女と、彼らを囲むように華やかな花の絵が描かれていた。シリーズ小説の新刊だ。エレナは仕事も眠気も忘れて、クララの本をまじまじと見る。

 デボラは王都で大人気のロマンス小説家だ。それもシリーズ作品の新作なんて、簡単には手に入らない。


「うっそ! クララ、どこで手に入れたの?」


「さっき実家から届いた荷物の中に入ってたの。お兄様が買ってくださったみたい」


 クララが頬を紅潮させて言う。


「羨ましい。私、新作は売ってないからって、昨日、諦めて前作読み直してたわ!」


 エレナも大好きなロマンス小説だ。手持ちの本は何度も読み返している。昨夜は仕事終わりに読んでしまったため、すっかり寝不足だ。


「今日休みだから一気に読んじゃうから、読み終わったら貸すわ。もう、すぐにでもお話ししたくって!」


「本当? ありがとう、クララ」


 エレナはクララの手を握って、寝不足の目をぱっと見開いた。しばらく読めないと思って諦めていた。ファンとして勿論買えるようになったら買うつもりだが、先に読めるのは嬉しい。


「リリアナにも話してくるわ。エレナ、お疲れ様!」


 クララがもう一人の侍女仲間の名前を言って、手を振って走っていった。残されたエレナは溜息を吐いて空を見上げる。

 バジェステロス公爵家のタウンハウスには、現公爵しか住んでいない。他の家族は領地のマナーハウスに暮らしていたり、分家として独立していたり、既に嫁いでいたりするらしい。

 当主一人だけ、しかもその当主は多忙のため、あまり邸にいない。しかし公爵家なので、使用人の数は多い。ともなれば、そんなに忙しくない。侍女として働きながらも長閑な今の暮らしを、エレナは気に入っていた。


「──とはいえ、あまりゆっくりもしていられないかな」


 なにせ、まだ花は必要な量の半分も摘んでいない。エレナは季節の庭園を楽しみつつ、花を選んで回った。





 籠いっぱいの花を持って邸内に戻る。誰もいないサロンに籠を置き、集めて水を入れておいた花瓶に順に花を生けていった。公爵に妻がいれば、その人が花を選んだりもするのかもしれない、とエレナは思った。しかしまだ会ったことがない公爵は独身らしく、花を生ける人は侍女しかいない。


「ご主人様、どうしてご結婚されていないのかしら?」


 エレナは首を傾げた。公爵は二十六歳で、この国では結婚には少し遅いくらいの歳だ。ましてバジェステロス公爵家といえば、建国時代に王弟が臣籍降下して作ったという、由緒正しい家だ。今の王家には王女がいる。未婚の王女の降嫁先とされてもおかしくない。きっと社交界でも引っ張りだこなのではないだろうか。


「──ま、私には関係ないけど」


 エレナが夜会に参加するのは年に数回、公的行事のものだけだった。それも両親と共に参加しており、大抵は仲の良い友人達の輪に加わるだけだ。異性からダンスに誘われることもあったが、次に繋がるようなこともなかった。

 なにせ小説の主人公のような燃えるような恋の相手も、目の冴えるような素敵な男性も、現実には存在しないか、エレナの手の届かない人なのだ。エレナだって、ヒロイン達のように、可愛らしくはないだろう。


「──エレナ、いるかしら?」


 サロンに顔を出したのは、侍女仲間のリリアナだ。


「リリアナ。どうしたの?」


 リリアナは緩やかな微笑みを浮かべて、エレナの側にやってきた。輝く銀髪にエメラルド色の瞳。同じ女性でもうっとりしてしまうような美人だ。


「私の方は落ち着いたから、バルドさんに言われてエレナの手伝いに来たの」


 バルドとは、この邸の使用人頭の男性だ。豊かな白髪とモノクルが紳士的な印象の、ロマンス小説の登場人物のような男性だ。


「ありがとう。じゃあ、向こうからお願いできる?」


「構わないわ」


 反対側の花瓶を手で示したエレナに、リリアナは頷いて籠から花を手に取った。


「さっき私のところにクララが来たけれど、エレナのところにも来た?」


「ええ、デボラ先生の新作を──」


「そうなのよっ! あの子ったら、お兄様が手に入れてくださったんですって。羨ましいわ。エレナの次に貸してくれるって言っていたから、エレナ、借りたら早めに読んでくれないかしら」


 リリアナは瞳をきらきらとさせてこちらを見ている。リリアナもクララ同様、ロマンス小説を愛する仲間だ。手元の花瓶には花が不揃いに生けられていた。それどころではないということだろう。身を乗り出して、真剣な表情だ。


「勿論よ。私も、一晩で読んでしまう自信があるわ」


 エレナが笑うと、リリアナはその大人びた容姿には似つかわしくない悪戯な表情で笑い返した。

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