第9話 左手の脳力

 洗面所に首を突っ込んだ僕は、蛇口を全開まで捻り、頭から水を浴びた。

 

 先ほどまでの記憶の情景は洗い流されたように消え去り、僕の心情をはっきりと判断できるようになった。

 

「……まさか、ここまで僕が取り繕うのが下手だとは……」

 

 自身の正直さに飽き飽きした。

 

 少なくとも、彼女の前に出ると謎の高揚感に襲われ、笑顔を見るとこちらまで幸福感に包まれた感覚に陥る。

 

 ……いやもう自分でも気付いている。この気持ちの正体に。それならいっそボロが出る前にカナタに真実を伝えてもいいのではないだろうか?


「…………いやそれは駄目だ」


 僕はもうあの頃とは何もかもが違う。

 本当のことを彼女に伝えてしまえば、彼女も僕も二度と会うことが出来なくなる。


 とにかくもう一度このデートの間に彼女を諦めさせる策を考えなければ。

 

 そう決意した僕はあまり彼女を待たせても悪いと思い、水が髪から滴りながらさっきまでいたクレープ屋まで走った。


 そこにはカナタがさっきと同じ場所で僕を待っていたが、戻ってきた僕に気付くことはなく、まるで何かを心配して祈るように手を合わせてどこか遠くを見据えていた。


「どうかなさいましたか?」

「あ、レイ君……あれ、危なくないかな?」

 

 カナタが指差す方を見ると、一つの建設中の高層の建物の上で、鉄骨を肩に担いで運ぶ女性の建設員がいた。

 

 その女性建設員の足取りは重く、鉄骨を支える手は遠眼でもよく分かるほど震えていた。

 

 そして、偶然それを目にした。

 

 女性建設員の膝が崩れ落ち、その衝撃で鉄骨が落ちる瞬間を。

 そして、その鉄骨の墜落地点には一人の女の子がいた__

 

「っっ!?」

 

 それを確認すると同時に、僕は脳力を発動。


 体の力が抜けるのを感じながら、始業式の日に僕に襲いかかってきた赤服の生徒のように右手をエネルギーの噴射口にして加速。

 一瞬にして墜落地点に辿り着いた僕は、女の子を自分の体で庇いながら、今まさに僕に突き刺さろうとしている鉄骨に向けて左手をかざす。


  傍から見たら、僕のしていることは無駄な抵抗だろう。


 普通なら僕の左手は鉄骨に貫かれ、そのまま僕と少女の体は共に串刺しにするに違いないと。


 だが実際はそうではなかった。


 僕の左手は衝撃や負荷を感じさせることなく、まるで綿でもに持つかのように鉄骨を掴みとっていた。

 

 僕はそのまま鉄骨を地面に優しく置くと、庇っていた女の子に声をかける。


「君、大丈夫? 怪我はないかな?」

「……は、はい!? 大丈夫です。助けていただいてありがとうございますっ」


 礼儀正しくお辞儀をする女の子の体を念のため改めるて見るが、本当に擦り傷一つ付いておらず問題は無かった。


 強いて言うならば――

 

 「レイ君っ!? 大丈夫だったのっ!? さっき手で鉄骨を掴んでたでしょ!? 怪我してない? ちょっと見せてっ!」


 僕が安堵しているとカナタが遠くから走ってきて僕の側まで来る。

 

 「……!? 僕は大丈夫だから心配しないでくださいっ」

 「でも、直接手で掴んでたでしょ!? どんな脳力でも絶対に負荷は使用した場所に現われるんだから、とにかく手を見せて!!」

 

 カナタが強引に僕の手を引っ張って怪我がないか見ようとして来る。

 

 これは……まずいっ!

 

 「いや、本当に大丈夫だからっ! もし怪我していたとしても唾つけとけば直るから!」

 「なら私の唾を付けてあげるから! 観念しなさいっ!!」

 

 腕を抱きつくように取られた僕は抵抗できず、カナタに左手の手の平を見られてしまった。


 「……やっぱり、無傷……」

  

 カナタが見た僕の左手には怪我どころか傷の一つも無く、それを見てカナタは確信したように呟く。

 

「カナタさんっ、これには理由が__!」

 

「おらっ! とっとと歩けや!」

「す、すいません……」

 

 僕がカナタに左手の言い訳をしようとした時、建設中の建物の中から二人の男女が出てきた。

 

 男の方はがっしりとした筋骨隆々の体躯に、怒りに満ち溢れた形相の作業員。

 そして、その男が引きずっている女性は、先ほど鉄骨を落とした女性建設員だった。

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