幕間劇 エピソード1

 ──セミ時雨が突然止まった。

 長年怪奇事件の捜査に携わっていたベテラン刑事、関口環はすぐにこの異様な雰囲気を感じ取った。

「古賀、今何時だ」

「十八時四十二分ですが……」

 部下の古賀瑞穂はさっとスマホを取り出し、時間を確認する。

 刑事たちはもうすぐ帰ってくるだろう、北上路敏を迎えるために、現保護者である田中圭の家の近くに車を停めていた。

 あとは家のカギを持っている路敏と合流して、一緒に田中家で一晩過ごすという、子守兼ボディーガードを務める予定だった。

 だが、その予定はキャンセルだ。

 この世のものとは思えない──神域の住民たちによって、窟拓村は浸食されるようとしている。

 一人の人間を狂気の世界へと追いやるのか、村を壊滅させるほどの規模になるか。現状ではわからない。

 だが、この村には赤染の力によって、生き返った少年がいる。

「とにかく路敏だ。路敏を探し出すぞ」

 関口は車を急発進させ、窟拓神社へと車でいける距離まで向かう。

「関口刑事」

「ああ、間違いなく、神がかり的な力が働いているぜ」

 赤染は一言で言い表せば、邪神だ。

 理由があって人間を祟る神でも、人間を手助けする神でもない。

 ただ、おもしろいからという理由でひっかきまわす、トリックスターに近い性質を持っている。

 ただし、ルールは守る。それは、絶対だ。

 ルールと言っても、人間に配慮したものではなく、かの柱独特のものではある。

 だが、一度決めれば自身がどんなに不利になろうとも、ルールには従い、膨大な力をもって、奇跡を起こす。

 赤染が神と称される由縁は、そのルールを厳守するという一点に尽きる。

「路敏は言ってねぇが、十中八九北上一家殺害事件の真相を知るが、望みだ。だからこそ、こんな……血縁関係のない村までもらわれた」

 そう。

 赤染が書き換えたのは、路敏の生き死にに関する情報だけではない。

 出生記録、戸籍、家系図と普通の人間なら気がつかない、『書き換えた跡』がある。

 すべては路敏が窟拓村に介入しやすくなるように、設定されたのだ。

「路敏君、無事でいて……」

 古賀は祈るように手を組む。

 確かに路敏が危機的状況にあるかどうかまでは確定していない。

 だが、少年の近くで何かが起こったと考えるほうが自然だ。

 赤染に関わってしまった路敏が爆心地の中心部にあることは間違いないのだから……。

 あとはどのような被害状況か、この目で見なければわからない。

 ただの人間である自分たちは、祈るしかないのだ。

「……」

 路敏は頭のいい子どもだ。

 少年は家族を失い、絶望していた。

 だが、その目は悲しみよりも憎しみよりも、絶対真相を暴いてみせるという強い意志が宿っていた。

 赤染の提示したゲームに勝利し、祝福された人間特有の、危うくも強い光。

 面会した当初、古賀瑞穂は誰かを思い出し、沈痛な面持ちで目を伏せた。関口環は一人の男として、路敏を認めなければならなくなった。

 深淵をのぞいてしまったものは、もう何も知らなかった普遍的な日常へと戻れない。

 折り合いをつけて、日常を送る。

 意識して暮らしていかなければ、あっという間に狂気の世界へと転落してしまう。

 正気と狂気の間で揺れ動く、人生。

 生き返った少年はこれから死ぬまで、悩み続けるだろう。

 だが、時にはその重みを背負ったり、冷たい心に寄り添ったりはできる。

 二人の刑事はそうやって、怪異に巻き込まれた人間の心を……いやしてきたのだ。

「間に合え、よ……」

 たしかに、夏南汰という怪奇事件に巻き込まれ、詳しくなってしまった人物がいるが、夏南汰だけでは対処しきれない事態に陥った可能性もある。

 車がいけるギリギリまで距離に車を停め、乗り捨てるかのように二人の刑事は走る。

 前夜祭メインイベントである緑精大神に捧げる巫女の舞踊が無事終わり、若い衆はもちろんのこと、村人はすでに撤退。今頃、窟拓旅館で恒例の酒盛りをしているだろう。

 出店も明日の本祭のために早々と店をたたみ、行きかう人がまばらになった時間帯。

 切羽詰まった表情で急いで神社に来る二人の刑事は、異様だった。

「古賀、俺はとりあえず、山の奥に行くから、お前は神社周辺を頼む」

「わかりました」

 二手に分かれて刑事たちは、走る、走る、走る。

 路敏たちがどこにいるか、わからない。

 目星もついていない。

 だが、ここは小さな村の小さな神社。走り回れば、そのうち手掛かりが見つかるはずだ。

 関口は刑事の勘を信じ、突っ走る。

「あ、関口刑事」

 トイレのすぐ側に、小学生がいる。

 浴衣姿のこの少女は、見慣れた子。

 都甲椿だ。

「椿!」

 関口が何かを尋ねる前に、少女は唇を動かし、山の奥を指さす。

「おじさんと、路敏なら、あっちに行ったわ」

 簡潔に。

 少女は関口が今一番知りたいことを教えた。

「そうか。古賀が来るかもしれないが、その時も案内頼む」

「わかったわ」

 これで、十分だ。

 あとは、路敏が無事であるところをこの目で確認できれば、いい。

 いつの間にか、せみの声も聞こえ出し、山岳地帯特有の蒸し暑いジメジメした風が関口の肌にまとわりつく。

「夏南汰、路敏、無事かぁ!」

 血の匂いがする小道を走る関口は祈るように吠える。

「関口刑事!」

 返事をしたのは、夏南汰。

 ポケットに右手を入れたまま、左腕で何かを背負っていた。

「夏南汰……後ろの、は……そうか……」

 背負っていたものは少年──路敏だった。顔を青ざめ、ぐったりとしているが、その体はキズ一つなく、呼吸音もある。

 路敏が無事なことに関口はとりあえず、ホッとする。

「路敏は、生きているか……」

 ならば、このおびただしい血の匂いは誰のものか、ということになる。

 長年の勘からわかってはいた。

 この量は……どう見ても、致死量だ。

 さらに関口は目を森の奥を向ける。視界がとらえたのは、木につられ、ぶら下がっている、巫女装束。

 そして、その中身……骨を失った不気味な肉塊。支えを失った内臓がボトボトと落ち始めていた。

 ……ああ、そっくりだ。

 北上一家殺害現場、そのものだ。

「……路敏にはつらい思いをさせたな」

 父と母の死体を思い出したのか。

 加々見麻衣という比較的親しいお姉さん的な存在を失ったからか。

 あるいはその両方か。

「関口刑事……」

「路敏はこの残酷な場面から逃れられねぇからよ……気に病むな、夏南汰」

 それよりも、この小さな、本当に小さな子供を、安全な場所に休ませてあげたい。

 そのためにもと、関口は鑑識と応援を呼ぶためにスマホを取り出そうと胸ポケットに手を入れた時だった。

 加々見麻衣の変わり果てた姿よりも奥から、奇妙な……ムチのような触手が関口の手首めがけて襲い掛かってくる。

「っ!」

 とっさによける、関口。

 化け物と戦うのは不本意ながら慣れている。だからこそ、初動を回避できた。

「関口刑事!」

 ポケットから銃を取り出す、夏南汰。

 彼はずっと何が起きてもいいように、ポケットの中で銃を握っていたのだ。

 怪奇事件に巻き込まれ続け、化け物との戦うことになれ、非常時に即座に対応できるようになってしまった人間ゆえの、行動。

 素早く動く触手に一発、二発、三発。

 威嚇と殺傷を兼ねた射撃が、触手に当たる。

 弾丸の威力に触手の一部が千切れ、地面に落ちた。

「死体のあり様からして、人間の仕業じゃねぇと思っていたが、ずいぶんと化け物らしい化け物じゃねぇか」

 関口は落ちた触手を踏み、再生しないようと念入りにグリグリと踏みつけ、触手が放たれた先にある影をにらむ。

 そいつは暗くても、見えた。

 スライムとゾンビの中間体というべきのゲル状の生き物だった。ドロドロと絶えず何かの粘液を出している、緑色。だから、夜でも目立つ。

 さきほどまでは森の中に融和していたのか姿が見えなかったようだが、見つかってしまった今、再び風景に溶け込むように隠れるのは至難の業であろう。

「人間を殺したなら、人間に殺される覚悟もあると見なすぜ、化け物」

 関口はそう宣告すると、鍛え上げたその体から放つ拳と蹴りを躊躇なく化け物にたたきつける。

「……!」

 重い。

 重い一撃だった。

「夏南汰の銃撃を受けてピンピンしているところから、お前、死体じゃねぇよ、な!」

 さらに、関口は追撃と言わんばかりに化け物に組付き、関節を効果的に外そうとしだす。

「お前には聞きたいことがある。今は殺さねぇが、無力化はさせてもらうぞ」

 ダラダラと流れる粘液がスーツに付着するのだが、関口は気にする様子もなく、いかに化け物をふん縛ろうか考えていた時だった。

「……」

 緑色の化け物の胸部がパカリと開き、自身の臓器の中に隠していた女性の、加々見麻衣の頭部が突如現れる。

「!」

 歴戦の関口もさすがに驚き、硬直。

 攻撃の手が止まったその隙に、化け物は身を沈ませ、組付きから逃れ、麻衣の頭部とともに関口から距離を置く。

「くそ、返せ」

 刑事である関口は遺体とはいえ、人間を破壊することには躊躇する。

 骨をなくした肉体をエンバーミングするのは難しいことを知っているからだ。遺族のためにもできるだけ傷の少ない状態で取り戻してやりたいと思ってしまう。

 人間らしい感傷が戦いの邪魔をする。

「……」

 どういうわけか、化け物は人間の首を大事に抱え直し、返してやらないといわんばかりにギュッと胸に抱きしめる。

「なんだよ……お前、人間に、思い入れがあるのか?」

 化け物の動作に驚く、関口と夏南汰。

 心臓近くに入れていたのも、麻衣の頭部を腐敗から守っていたようにも見えなくもない。

 このままこう着状態が続くのかと思ったのだが、静寂はあっさりと破られる。

「関口刑事、夏南たん!」

 古賀瑞穂が合流してきた。

 彼女は今この場がどうなっているか知らない。それは化け物にとってチャンスだった。

「……、……」

 そして、化け物にとって幸運だったのは、近くに朽ちかけた石の灯篭があったこと。

 化け物は人間では考えられないスピードとパワーをもって、灯篭を瑞穂の声がしてきたほうへと投げた。

「古賀ぁあ!」

 死んでいる人間よりも、生きている人間。

 関口は瑞穂に危険を知らせるため、声を上げ、化け物から目をそらしてしまう。

「関口刑事……うっ!」

 それでも瑞穂に石の灯篭が襲い掛かる。

 直撃こそ避けた。だが、そもそも、化け物は瑞穂を正確に狙ったわけではないようで、彼女の足元近くに石の灯篭が投げ込まれ、粉砕。

 生粋のドジっこである瑞穂はもともとでこぼこの山道が得意ではなかった上に、さらに足場が不安定になったことで、バランスが取れず、転倒。

 運が悪いことに、茂みにつっこんでしまった。

 悲劇である。

「あ、あ……」

 夏南汰も思わず、瑞穂のほうを注視してしまった。

 誰も見ていないうちに化け物は、自身の特色を生かすために、森の奥へと逃走。

 これはもう追いつけない。

 日が完全に沈んでしまったことで懐中電灯が必須……どころか山岳用の入念な準備と装備を整えないと、人間の身体能力では、本格的な入山は無謀である。

「逃がしたか……」

 関口は悔しそうに顔をゆがめるが、この場合は仕方がないとどこかあきらめた表情を見せる。

「はい、残念ですが……」

 気絶した路敏を背負う夏南汰も、化け物についてはあきらめていた。

 逃走されるのもやむなしというか、自分たちは生き残ることを念頭に戦っていたのだ。

 化け物が想像よりも強かったら、自分たちのほうが逃走のために策を練っていたところだ。

 数と経験の差が有利に働いただけで、足手まといがいる状況で、初めて目にした化け物を倒せるなんて都合がよすぎる。

 あり得ない。

 人外と戦ってきたからこそ、油断はしない。

「まぁ、いいさ。いづれまた会うだろうし……そんなことより、路敏をゆっくり休ませてやらんとな。夏南汰、ついてこい」

「は、はい」

 目覚めたら、おそらく路敏は取り乱すだろう。

 ならば、できるだけ人が少なく、そして近い場所。

 路敏に会うために、窟拓村に出向き、村の地理を頭に叩き込んでおいた甲斐があってしまった関口は、苦々しく顔をいつものようにしかめるしかなかった。

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