とある酒場にて/クロガネ

 ――美優がナディアを追って真奈の部屋に訪れていた頃のこと――



 優雅の名を冠する【BAR~grace~】。

 鋼和市東区の一角に、そのバーがある。


 近代的な高層ビルが多く建ち並ぶ経済区において、静かな佇まいを感じさせるシックな店構えだ。


 店内に足を踏み入れると、控えめな音量で流れるジャズが出迎える。

 その穏やかな曲調と深みのあるブラウンカラーの木材を使用したモダンスタイルの内装がベストマッチし、安らぎある空間を演出していた。


 酒やドリンクのボトルが整然と並んだカウンターでは、背筋を伸ばした壮年のマスターがカウンターテーブルの向こう側に座る客人ふたりの対応をしている。


 一人は黒の上下に眼鏡を掛けた年若い青年。

 この街では色々な意味で有名な機巧探偵の片割れ、クロガネこと黒沢鉄哉。


 そして、もう一人は紺の背広を着込んだ中年の男性だ。

 落ち着いていて、一分の隙も無い佇まい。

 それはどこか、クロガネが纏う雰囲気と似たものを感じさせる。


 その日の夜、クロガネはゼロナンバー時代から馴染み深いバーに男を呼び出し、ナディアが家出したことについて相談していた。


「ほぅ、それでナディアくんが出て行ってしまったと?」

 バーボンを手に、男はグラスの中に浮かぶロックアイスを揺らす。

 彼の好みはバーボンであることをクロガネは知っていた。

「まぁ、そうです。居所は割れてましたし、美優を現地に向かわせました。今頃合流しているでしょう」

「というと、海堂真奈さんのご自宅か」

「……解りますか?」

「まぁ、ナディアくんが身を寄せる所は限られているし」

「ですよね」

 苦笑して同意する。

「不変は安心を呼ぶ――とりあえず、ナディアくんが戻って来たら普段通りに接してやれ。ただそれだけで、彼女は安心すると思うぞ」

「解りました。やってみます」

 男の助言を素直に受け取ったところで、マスターが作りたてのカクテルを目の前に置いた。珍しく酒を飲みたいと言ったクロガネに、男が注文したものだ。

「これは?」

「スコッチコリンズ。甘めで飲みやすく、今のお前にピッタリなカクテルだ」

 一口飲んでみる。

 スコッチウイスキーをベースに、レモンジュースとソーダで割ったものらしく、口いっぱいに甘酸っぱく、爽やかな風味が駆け抜ける。

「どうだ?」

「甘酸っぱくて、美味しいです」

 もう一口。

「いかにもラブコメ主人公みたいなお前には、ピッタリだろう?」

 むせた。

 男は楽しそうに微笑むと、バーボンを煽る。

 グラスを置いて一息つき、クロガネが落ち着くのを気長に待つ。

「ゴホッ……ラ、ラブコメって」

「美優くん、海堂さん、そしてナディアくん……美人ぞろいの三人に慕われてモテモテじゃないか。今のお前はまさにラブコメ主人公だろう」

 この幸せ者め、と男は笑う。

「……時々、これが幸せなのか解らなくなります」

 神妙な顔つきになって悩みを打ち明けるクロガネに、ほぅ? と男は耳を傾ける。

「昔は特に疑問を持たず、ただ黙々と暗殺仕事をこなせば問題なかった。それだけで仲間や貴方が褒めてくれた。それで充分だった」

 でも、と声のトーンが少しだけ暗くなるクロガネ。


 ナディアが家出する際に言い放った一言が忘れられない。


『……散々人を殺しまくっていたくせ二、いまさら善人ぶるのカ?』


 勿論、ナディアに悪気はない。自分が人殺しであったのは事実だ。

 だからこそ、考えてしまう。

「莉緒お嬢様やナディア、真奈と出会って人間らしい温かさというものを知って以来、今でもたまに考えるんです。人でなしの俺が、彼女たちや堅気かたぎの人達の輪の中に入る資格なんて、果たしてあるのかと」

「あるんだよ」

 男は即答する。

「重要なのは、お前の素性も過去も全て受け入れてくれる人が居る事実だ。お前のその悩みはちっぽけである上に、その人達の信頼に背く失礼なものだぞ」

「それでも、俺が作った因果が、巡り巡ってあいつらの身に危険が及ぶのは……その……」

「怖いか?」

 言い淀む言葉の先を男が引き継ぐと、苦々しく頷く。

「……はい、怖いです」

 男は真剣に、クロガネと向き合う。

「家族であれ恋人であれ友人であれ、大切な者が脅かされるリスクというものは、誰にだって付いて回るものだ。病気や事故、あるいは事件とかな」

「誰にでも……」

「そして誰かを何かを守りたい権利も資格も誰にだってある。お前は彼女たちを守る自信がないのかな?」

「……絶対の自信はありません。だけど」

 クロガネは強い意志をもって、男の目を射抜く。

「覚悟はあります」

 男は満足そうに頷く。まるで、その答えを予期していたかのように。

「それで良い。彼女たちも皆、ただ守られるだけのか弱い存在ではないだろう」

「……まぁ、そうですね」

 悩みが晴れたかのように、苦笑するクロガネ。

「ありがとうございます。少し、気が楽になりました」

 ゼロナンバーの先輩であり、現役の大学教授でもある彼に相談して正解だった。

「それは何より。だけどそれはそれとして、別の覚悟もしておけよ」

「別の、とは?」

 意表を突かれたクロガネは眉をひそめる。

「ギリシア神話において、三女神が『誰が最も美しいか?』と一人の男性に迫る話がある。その時の男性の選択によって、悲惨な戦争が引き起こされた」

「確かそれは、トロイア戦争でしたか?」

「そうだ、よく知ってるな。それでだ、お前も三人の女性から迫られている以上、お互いに納得できる平和的な答えが出せるようにしておくように。間違っても後ろから刺されかねないような修羅場にはなるなよ」

「……難題過ぎません?」

 三人のうち二人はかなり容赦がないタイプだった筈だ。

「うるせぇ、リア充の宿命だと思え」

「さっきまでかなり良い話だったのに、急に雑過ぎません?」

 果たして冗談なのか、本気なのか。


 それから他愛もない話をしながら酒を飲み、穏やかな時間が過ぎていく。


「そうだ。今度、真奈と会ってくれませんか?」

「それは構わないが、どうしてまた?」

「少し前に、彼女の両親と挨拶を交わした際、貴方のことを話したら興味を持ったみたいで」

「ふむ……その時は美優くんも一緒かな?」

「ええ。置いて行ったら、きっと拗ねます」

「ナディアくんも連れて来るといい。一度拗ねたら誰よりも面倒だぞ」

「そうします」

 笑い合い、二人は同時にグラスの中身を飲み干す。

「マスター、おかわり。鉄哉は?」

「ジンジャーエールをください」

 かしこまりました、と空になったそれぞれのグラスを回収するマスター。

「酒は一杯だけでおしまいか。あまり強い方じゃなかったか?」

「悪酔いすると、いざって時に動けませんから」

「常在戦場か。それなら無理に酒を勧めたのはマズかったかな?」

「貴方と飲むのなら、歓迎です」

「……そうか」

 男は嬉しそうに微笑む。

「お待たせしました」

 マスターからそれぞれの飲み物を受け取った二人は、


「「乾杯」」


 カツン、とグラスを合わせた。




「今夜はありがとうございます」

 やがてジンジャーエールを飲み干したクロガネは席を立つと、男に一礼する。

「こちらこそ楽しかったよ。また連絡してくれ」

「はい」

 懐からPIDを取り出そうとしたクロガネを、男は手で制する。

「私が出そう」

「……いつも支払わせてくれませんね。せめて俺の分だけでも」

「酒の席において、に金を出させるなどいないよ」

「そういうものでしょうか?」

「そういうものだ。いずれお前にも解る」

 男は微笑み、クロガネはやや呆れた様子でPIDをしまう。

「ありがとう、ごちそうさま」

「また一緒に飲もう」

「はい、

 クロガネは微笑んで頷くと、マスターにも「ごちそうさまでした」と礼を言って【BAR~grace~】から去っていった。





「お父さん、か……」

 残された男は上機嫌でグラスを傾ける。

「嬉しそうですね」

 マスターの言葉に「ああ」と頷く。

「鉄哉がゼロナンバーを抜けて以来だから、ざっと二年ぶりかな……私のことを父と呼んでくれたのは。血縁こそないが、自慢の息子だよ」

「黒沢さんも、貴方を自慢の父親だと思っていることでしょう」

「そうか……ありがとう」

 男は、クロガネが出て行った扉に向かってグラスを掲げた。

幸運をグッドラック」バーボンを煽る。


 ――嗚呼、本当に良い気分だ。


 ほろ酔いと控え目に流れるジャズの心地よさも手伝い、男は【BAR~grace~】にて優雅なひと時を過ごした。

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機巧探偵クロガネの事件簿3.5 ~探偵と三女神の憂鬱~ 五月雨サツキ @samidaresatsuki

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