ご挨拶と宣戦布告/真奈

 ある日の夕方、事前にメールで告知していた時間ピッタリに、宅配用のドローンが大きな荷物を運んできた。

 マンションの最上階にある自宅の窓を開けて、ベランダに向かう。

 今でこそ、ドローンで空から荷物が届くという光景は当たり前だけど、私が生まれる前はSFのような絵空事と捉えていた時期があったらしい。

 まぁ、飛行中に荷物の落下やドローンそのものが墜落するというリスクを考えたら無理もないかもしれないけど、今ではAIの進化によってその問題も解消された。

 ドローンに搭載されたカメラのレンズが私の顔を捉える。

 住民登録を利用した顔認証と、瞳の虹彩認証で本人であるとAIが認識すると、

『オ届ケ先ノ海堂真奈サマ本人ト確認シマシタ。オ預カリシタ荷物ヲぱーじシマス』

 抱えていた荷物をベランダの地面にそっと置き、荷物を固定していたアームを折り畳んで本体の中に収納した。

『荷物ヲオ届ケシマシタ。マタノゴ利用ヲオ待チシテオリマス』

 そう言って飛び去って行くドローンに、

「ご苦労様ー」と手を振って労いの言葉を送った。

「さて」

 荷物の送り主を確認する。

 箱の表面に貼られていた伝票には、見覚えのある懐かしい筆跡と名前があった。



「あ、もしもしお母さん? いま荷物届いたよー、ありがとー」

 久しぶりに、実家の母に電話を掛ける。

 ちなみに今私が使っているのは、鋼和市が試験的に開発したPID――パーソナル・インフォメーション・デバイスという読んで字の如く個人用携帯情報端末だ。これ一つで電話やメールなどの相互通信をはじめ、生活の大半が賄えるという便利なアイテムである。住民票も兼ねているため、この端末は鋼和市民しか持っていない。実験都市らしく市民全員がテスターとか、随分とスケールが大きい話である。

「でも流石に、中身が箱一杯のジャガイモだけってのはどうなの?」

『若いんだから、それくらい食べられるでしょ?』

 電話の向こう側で母がそう言った。

「若さで済ませられる量じゃないでしょ」

 どうせなら、他の野菜も送ってほしかった。もしくはお米とか、地酒とか。

『同僚の人達にでも、お裾分けしたら良いんじゃない?』

「まぁ、それが妥当よね」

『人見知りなアンタでも、それで会話の切り口になるわね』

「いつの話をしてるのよ……」

 昔の話を持ち出すのは勘弁してほしい。

『それはそうと、ジャガイモ一択なのは理由があって』

「どんな?」

『蒸して塩振るだけなら、アンタでも出来るでしょ?』

「私を何だと思ってるの、母親マム

『料理を料理と呼ぶには無理がある前衛芸術を作っちゃうメシマズ女よ、我が娘マイドウタ

「その娘に対して辛辣すぎない?」

 ジャガイモ一杯の箱を見ながら、彼ならどんな料理を作るかなーとか、ぼんやり考える。

「ていうか、手間暇と難易度で言ったら、お米の方が楽なんだけど」

 米を研いで、炊飯器に水と一緒に入れて炊飯ボタンを押すだけだ。

『…………』

「いや、『その手があったか』と言わんばかりの顔して黙るの、やめて」

『よく解ったわね。顔は見えないのに』

「冗談で言っただけよ。とりあえず、ジャガイモの処理は後で考えておくわ」

『メシマズ女が何を一丁前に』

「いちいちヒドイわねっ」

 ちょっとは気にしているんだから、メシマズメシマズとそう何度も連呼しないでほしい。

『まったく。一体誰に似て、そんな要らない錬金術を覚えたんだか……』

「私が錬金術師だったら、ウチの家系はみんな錬金術師よ」

 もしそうなら、新技術や新発明のオンパレードでウハウハなエブリデイね。

『ウチは代々医者の家系よ。お父さんは外科医、私は看護師、アンタのおじいちゃんは泌尿器科』

「おじいちゃんが泌尿器科とか、初めて知ったんだけど」

『本人も若い頃に頻尿で悩んでいた時期があってね』

 別に知りたくなかった、そんなこと。

『自分と同じ悩みを抱える人を助けたくて、その道を目指したのよ』

 ……何故だろう。良い話っぽく言ってるんだけど、頻尿のせいで全然感動できない。ごめん、おじいちゃん。

『でも錬金術一族か、夢のある話ね。もしそうなら、新技術や新発明のオンパレードでウハウハな毎日で遊んで暮らせるわ』

 やっぱり、貴女は私の母親だよ。

『料理は錬金術だけど、アンタが機械義肢専門医とはね。昔からロボットもののアニメ観たりとか、プラモデルとか作ってたから、順当かしら』

「趣味が高じて天職に行き着いたから、仕事も楽しいよ」

『それは良かった。昔から「ガ〇ダムを乗り回すのが夢」とか語ってた男の子みたいな娘だったから、母さんちょっと心配してたけど、上手くやっているようで何よりだわ』

「ああ、うん。まぁね」

 ちらりと、部屋の片隅を見る。

 そこには買って手付かずのままとなっているプラモデルの箱が、山のように積まれてあった。

『高校受験の時、最先端のサイボーグ技術が学べるからって、アンタが鋼和市に一人暮らしすると言い出した時は驚いたわね』

「お父さんが猛反対したよね、年頃の娘が一人暮らしするのは危険だって言って。最終的に認めてくれたけど」

『たった一人でも生きていけるよう、お父さんはアンタに武器を与え、技術を教え、知恵を授けた』

 武器は護身用のスタンガンと催涙スプレー。

 技術は簡単な護身術。

 知恵は都市部でのサバイバル知識。

「今更だけど、かなり偏ってない?」

 それ以前に方向性を間違えていないか、父よ。

『役には立ったでしょう?』

「それは、まぁ……」

『でもお父さんが護身スキルばかり熱く教えるものだから、肝心の家事スキルがからっきし。そのせいで、今じゃアンタは【メシマズの錬金術師】に……この私の眼をもってしても読めなかった……』

 なんて不名誉な二つ名だ、カッコ悪い。

「結構順当な気もしますけど」

『で、アンタ彼氏できた?』

「話が飛びすぎッ!」

 本当に唐突である。

「どういう切り返しなの!? 会話下手くそか!」

『錬金術の流れで彼氏を作れたかと』

「作れるかッ。なんつー話の繋げ方ッ」

『家族の会話に丁寧な誘導など不要!』

「くっそ、解ってしまう自分が少し悔しい」

『長年の付き合いで察する会話、良いよね……』

「あんまり良くない」

『私の誕生日には、ひ孫の顔を拝ませてもらいたい』

「物理的に無理なこと言わないで。とりあえず、そういうのは追々ね」

『先延ばしにするとガチで行き遅れるから、二十代で決めなさいよ。アンタ、もう二六でしょ? すでにアラサーの沼に片足突っ込んでいるの、自覚しなさい』

 鬼か、この母……!

『それで気になる人とかいないの? 理系の職場だから男の人は多いんでしょ?』

「まぁ、特には。優しく言い寄ってくる人は、大体が下心ありきだからちょっと……」

『変なことされてないでしょうね?』

 母の声が警戒したものになる。

「うん、お父さんの教えが役に立ったよ」

 そう、と母は安心し、

『でも、家事が出来なくて不摂生なアンタに言い寄ってくるなんて、物好きな男もいたものね』

 本当に娘に対して容赦ないな、この母!

『私の予想では、インスタントとジャンクフード漬けで生活習慣病予備軍になっている体型なのに……』

「ちゃんとご飯は食べてるし、太ってまーせーんーッ! 元気な証拠に、後で自撮り画像送ってやるからなコンチクショウッ!」

 スタイルが良いことを解らせるために、渾身の水着写真を送ってやらぁッ!

『まったく、口の悪い子に育って……』

「誰のせいだ誰のッ」

『でも本当にご飯はちゃんと食べてるの? 栄養偏っていたりしない?』

「大丈夫ですー、その辺はちゃんと考えて作って貰ってますから」

『…………作って、?』

「…………あ」

 しまった、孔明の罠か!?

『ねぇ……誰に? 誰にご飯を作って貰ってるの……?』

「……友達の子よ。たまにご飯をごちそうして貰ってる」

『友達の「子」ってことは、アンタと同い年か年下ね』

 鋭い。私もよく「勘が良い」と周りから言われるけど、これは母親譲りであると改めて実感する。

『その友達は男? それとも男性?』

 二択にすらなってない。

『女友達なら近況も含めて私に教える筈だから、ズバリ男よね?』

「う……」

 根拠のある理由と共にハッタリを仕掛けてくる。

 というより、もはや確信してカマ掛けてきてる!

「はい、そうです……男の人です」

 観念して白状する。やはり母親だ、下手な誤魔化しは通じない。

『やはりかっ! どんな人どんな人っ?』

「普段からテンション高めなのに、また一段と激しくなって……」

 いつも無駄に明るい、元気な母親だ。

『実はアンタと話す時は、相当無理してテンション上げてる』

「嘘でしょ!?」

『娘の前では気丈に振る舞う私の仮面生活……もうゴールしても良いよね?』

「テンション低いお母さんなんて想像できない」

『ダウナーなわたしゃ~そりゃあヤッベーぞぉ。花壇の水やりでアリの巣見つけた時には、ノアの大洪水を再現してる』

 アリンコ相手に「ふはははー、沈めぇ、溺れろぉ、虫ケラどもー」と悦に浸る母の姿を想像する。

「小学生か」

『で、今度の土曜にお父さんとそっち行くから』

「だから話が飛びすぎッ!」

 本当にもう、さっきから……!

「ナンデ!? どうしてそうなるの!?」

『久しぶりに愛する娘の顔を見に行こうかと前々から考えていてね。というか最近、お父さんがアンタに会えなくて寂しいあまり、色々禁断症状が出ててやばい』

「禁断症状!?」

 私は煙草かアルコール的な何かか?

『そういうわけで、そっちにお父さんと遊びに行くから。彼氏、紹介してね』

「彼氏じゃないっての」

『未来の旦那様によろしく伝えておいてね』

「だから話が飛びすぎィッ!」



 私の名前は海堂真奈。

 科学技術を十年先取りした世界最先端な実験都市、鋼和市に住む機械義肢専門の医者(二六歳・独身)である。



 ***


 鋼和市北区の一角にある『クロガネ探偵事務所』にて。

「――で、俺がそちらの親御さんと会う流れになってしまったと?」

 五歳年下の友人であり、度々お世話になっている探偵の黒沢鉄哉が、呆れた様子で言った。

「ちょっと何言ってるか解らない」

 経緯を説明し、両親の訪問に付き合ってくれないかと相談を持ち掛けたら、コレである。無理もない、かくいう私も突然の急展開に付いていけてないのだから。

「何というか、本当にもうゴメンナサイ……」

「随分とアグレッシブなお母様ですね」

 彼の助手であるガイノイド(女性型アンドロイド)、安藤美優も呆れていた。

 アグレッシブというか、結構無理してテンション上げてたみたいよ。

「今度の土曜……ていうか、明日か。随分と急だな」

 鉄哉がカレンダーを見やる。

「うん、先月に今月のシフト教えてたから、私が休みの日に合わせていたんだと思う」

 それならそうと、もうちょっと早く言ってほしかった、母よ……。

「前々から予定は組んでいたんですね。どうするんですか、クロガネさん? こちらの都合は完全に無視されてましたが、その日の午後は空いてますし、真奈さんのご両親の手前、断るのも悪いかと」

 スケジュールを確認した美優ちゃんが鉄哉に訊ねる。

「仕方ない。海堂には日頃から世話になっているし、挨拶だけでもしておこう」

「ありがとう、鉄哉」

 突然の依頼を承諾してくれたことに感謝する。


 その後、鉄哉と美優ちゃんは私の家に訪れ、隅から隅まで掃除してくれた。


「毎度のことですが、年末の大掃除みたいですね」とは美優ちゃんの弁。

 ごめんなさい、散らかし魔でごめんなさい。

 料理はおろか、掃除すらロクに出来ないズボラ女でごめんなさい。



 ***


 さて。

 翌日。そしてその昼下がりに、両親が自宅のマンションにやって来た。

 二人と会うのは今年のお正月以来かな、お盆は色々忙しいというか慌ただしかったから帰省できなかったし。元気そうで良かった。

「いらっしゃーい。よく来てくれたね」

「ええ、真奈も元気そうで良かった」

 そう言って嬉しそうな笑顔を浮かべる母。

「お母さんも。お父さんも久しぶり」

「……ああ、うん」

 ややぶっきらぼうな父。平静を装っているけど、鼻の辺りがひくひくしている。

 本当は久しぶりに私と会えて嬉しい筈なのに、父親の威厳を保とうと笑うのを我慢しているらしい。かわいい人だ。

 両親が並ぶと、私はやはり二人の娘なんだなって実感する。私はどちらかと言えば母親似で、目元だけは父の面影がある。

「あら? 何か良い匂いがするわね」

「うん、いまお茶の用意をして貰っていたから」

 誰に? と両親が訊くまでもなく、エプロンを身に着けた鉄哉が玄関に現れる。

「初めまして。いつもお嬢さんにはお世話になっております、黒沢鉄哉と申します」

 穏やかな表情で丁寧に一礼する鉄哉。

 その嫌みのない第一印象に、母は「まぁ」と顔を明るくし、父は気難しい顔で彼を見つめていた。

「まぁまぁ、貴方が……初めまして、娘から少し話は聞いていたわ。いつもこの子がお世話になって」

「いいえ、こちらこそ。今お茶の用意が出来ますので、どうぞお上がり下さい」

 一礼してキッチンに戻る鉄哉。

 本来ならば私が言うべき台詞なんだけど、先に言われてしまった。

「素敵な人じゃない」母が私の肩をつつく。

「まぁ、うん、そうだね」

「何かすでに、出来る旦那みたいな雰囲気じゃない? 今なんか、勝手知った我が家みたいな感じだったし」

「……母さん、その辺で。私らも上がろう」

 嬉々として喋り出した母を宥め、父が先を促す。

 好意的に鉄哉を捉える母とは違い、眉間には深いシワが寄っている。

 まぁ父親としては、大事な一人娘の住む部屋に見知らぬ男が居たら当然の反応か。



 親娘三人でリビングに向かうと、

「あら? 綺麗にしているのね。貴女のことだから散らかし放題だと思っていたけど」

 部屋を見回すなり、母がそう言った。

「頑張って掃除したのよ」

「真奈が?」

「うぐ……」

 あまりに鋭い質問に、思わずたじろぐ。

「……て、定期的に、鉄哉が掃除しに来てくれてて……勿論、私だって手伝っているよ」

「アンタが手伝う側じゃダメでしょうに」

 仰る通りです。

 両親がソファーに並んで座ると、良い香りを漂わせて紅茶を運んできた。

 美優ちゃんが。

「失礼します。こちら、ダージリンです」

「あら? 貴女は?」母が小首を傾げた。

 お盆に乗った紅茶を卓上に置いてから、美優ちゃんは丁寧に一礼する。

「初めまして。黒沢の助手をしております、ガイノイドの安藤美優と申します」

「助手? ガイノイド?」

「ガイノイドは、女性型アンドロイドのこと。ロボットみたいなものよ」

 私がそう説明すると、母は心底驚いた様子でまじまじと美優ちゃんを見る。

「こんな綺麗なお嬢さんがロボット? 本当に?」

 彼女の素性を知った人間は、大抵が母と同じリアクションをする。いくらサイボーグ技術やサイバー技術が発達した鋼和市でも、ここまで精巧に造られた個体は滅多にお目にかかれない。

「……助手、とは?」

 ずっと黙っていた父が訊ねると、

「申し遅れました、私は鋼和市で私立探偵を営んでおります。あ、こちらチーズケーキです。お口に合えば……」

 鉄哉がチーズケーキを運んで来て、両親の前に置いた。

「すごーい、鉄哉くん、おしゃれ~」

 私が「鉄哉」と呼んでいるからか、さらっと彼を名前で呼ぶあたり抜け目ない母である。

「アクセントにレモン汁を加えています。お好みでこちらのブルーベリージャムをお使いください」

 瓶詰めのジャムを卓上に置く鉄哉。本当に至れり尽くせりだ。

「鉄哉は何でも作れるんだよ」

「へ~、このケーキ手作りなんだ……もしかして、ジャムも?」

「はい、自家製です」

「すごいわね! この子にも家事を教えて欲しいわ~」

「ちょっとお母さん……!」

「……恐縮です」微妙な顔で曖昧に頷く鉄哉。

 掃除はともかく、料理に関しては私に見込みがなかったらしく、匙を投げている。

「…………」

「どうぞ」

 黙り込んでいる父に、美優ちゃんがジャム瓶にティースプーンを添えて差し出した。

「クロガ……黒沢が作ったケーキもジャムも、とても美味しいですよ。甘いものが苦手でしたら、ケーキだけでもお召し上がりください。甘さ控え目です」

「……ありがとう、頂くとしよう」

 ありがとう、美優ちゃん! ナイスフォロー!

 その後、ケーキとお茶に両親は舌鼓を打ち、その美味しさに(主に母が)絶賛し、鉄哉を褒めちぎった。


 お茶のお代わりを淹れたところで、いよいよ両親が私と鉄哉の関係について切り込んできた。

 ちなみにテーブルを挟んで父の正面に鉄哉が、母の向かい側には私が並んでソファーに座っている。そして美優ちゃんは鉄哉のやや後方に控えていた。父が「座ったらどうだ?」と促すも、彼女は丁重に断っている。まるで使用人メイドのようだ。

 どうやら美優ちゃんは余計な介入をせず、今回は脇役に徹する感じらしい。その配慮はありがたいやら、少し心細く感じるやらで、私は内心複雑だった。

「二人の馴れ初めは?」と母の質問に、鉄哉が答える。

「三年ほど前、総合病院の集中治療室ICUで、出会いました」

 うん、普通ならありえない所で出会ったな、私たち。色気もムードもへったくれもねぇ。

「ICUで?」と父。

 鉄哉は左手の手袋を外す。その下に隠されていた機械仕掛けの義手が露わになり、両親は息を呑んだ。

「当時、とある仕事で左腕を肩から根こそぎ失う大怪我をしました。瀕死の状態になった私を助けてくれたのが、か……真奈さんだったんです」


 真奈さん。真奈さん。真奈さん……(エコー)


 両親の手前とはいえ、鉄哉が名字ではなく名前で私を呼んでくれたことに、例えようのない喜びを感じた。もっと名前で呼んで呼んで!

「命を救ってくれたばかりか、この義手も彼女が作ってくれた特注品でして、本当に感謝に堪えません」

 内心狂喜乱舞している私を置いて、鉄哉は話を続ける。

「なるほど……そんなことが。でも三年以上の付き合いって、どうして実家に帰って来た時に教えてくれなかったの?」

 感嘆したのも束の間、母が私にそう訊ねる。確かに盆と年末年始などで帰省しているため、鉄哉のことを話す機会はいくらでもあった。

「いや、だってほら、ね? 交際しているわけでもないし、話す程でもないかなーって」

「こんな大事なことは教えなさいっ」ぴしゃりと言い放つ母。怒られた……。

「いえ、真奈さんが私のことを話さなかったのは、私のせいなんです」

 すかさず鉄哉がフォローに入る。ありがてぇ……。

「どういうことだね?」と父。

「実は、当時の莫大な治療費を、真奈さんがほぼ全額肩代わりしてくれたんです」

 『莫大の治療費を全額肩代わり』というフレーズに、両親の表情が険しくなる。

 あれ……? ちょっとこの流れはマズくない?

「……それは、幾らほど?」

「ちょっ――」

 それ以上いけない!

 金額を訊ねてきた母に、思わず私はこの話題を変えようとする。

 だが。

「おおよそ、一億五千万円ほどです」

 他でもない鉄哉当事者が明かしよった……! 馬鹿正直にも程があるでしょう⁉︎ 真面目か⁉︎

「いち……ッ」絶句する両親。鋭い視線を私に向けてくる。

「お前、そんな大金を会って間もない男に……」

 父の目が超怖い! ここまでマジギレした父は本当に久しぶりだ。

「落ち着いてください、お父様。黒沢の話は、まだ終わっていません。まずは話を全部聴いて頂けませんか?」

 鉄哉の後ろで控えていた美優ちゃんが冷静に父を宥めると、母がそれに続く。

「……そうよ、貴方。話は全部聴いてからにしましょう」

「う、む……解った……」

 幾分落ち着いた父が何度も頷き、ソファーに座り直す。

 思わずほっとする。だがこれも一時しのぎに過ぎない。本当のこととはいえ、鉄哉は何を考えているのだろう? 下手をすれば、今の私達の関係は終わってしまうかもしれないのに。

 その本人は、美優ちゃんに「ありがとう」と一言礼を言ってから、両親に向き直った。

「順を追ってお話ししましょう。三年前、当時の私は探偵ではなく、獅子堂重工のご令嬢、獅子堂莉緒さまの護衛を務めていました」

「獅子堂重工……っ」両親は驚愕する。

 総資産が世界全体の数%にも及ぶとさえいわれている獅子堂重工は、この鋼和市の開発スポンサーとして多額の開発資金の他に優れたサイバー技術を国に提供し、今日の鋼和市発展に最も貢献している巨大企業だ。

 実質的に鋼和市の真の支配者でもあり、その令嬢――獅子堂莉緒を、かつての鉄哉は護衛していたのだ。

「当時、莉緒お嬢様は非合法組織に誘拐されました。私を含めた獅子堂のセキュリティが救出するその過程で、BOW……生物兵器の襲撃を受けたのです。その時に、私は左腕を失いました」

 鉄哉は目を伏せ、義手を力強く握りしめる。

 私との関係を嘘偽りなく、両親に打ち明けようとする鉄哉。だがそのために、思い出したくもない忌々しい記憶を振り返らなくてはならない。それはある意味、自傷行為にも等しい。

 ……私も、ただ黙ったままでは居られない。

「……そのお嬢様を救出する作戦には、実は私も参加していたの」

 私の告白に「なんだってっ」と父が目を見開き、母が口元を両手で覆う。

「大学時代に書いた、機械義肢の研究論文がたまたま莉緒お嬢様の目に留まってね。当時まだ研修医だった私は、獅子堂家専属の医療研究チームに引き抜かれたの。私が短いキャリアで医者になれたのは、実はそんな経緯があったのよ」

 嘘ではなく事実だ。幸運すぎる出世コースに乗れたお陰である。

 茶化して言うと、両親は心底呆れた目で私を見る。

「アンタが獅子堂専属って……どうして今まで黙っていたの?」

「いや、何と言うか、単純に言うの忘れてた……」

 目を泳がせて誤魔化す。単に守秘義務というか、獅子堂家には公に出来ないことが多過ぎたのだ。鉄哉が殺し屋だったり、莉緒お嬢様を誘拐した黒幕が彼女の実兄だったり……迂闊に話せるわけがない。

 これ以上追及されたらマズいと悟ったのか、再び鉄哉の方で話を進める。

「……そして私は真奈さんに命を救われた、と先程の話に繋がるわけです。治療費に関しては、実は私は家庭の……やんごとなき事情により医療保険に入っていません。危険手当込みの給料を全てつぎ込んでも、完済できなかったのです。そんな折、真奈さんが肩代わりしてくれました」

「獅子堂専属の医療チームってことで、お給料は良かったからね。それに私は機械義肢専門だったから、かなりの額の研究費用が経費として用意されていたの。獅子堂重工って、サイボーグの研究にも力を入れていたから。そのお金で、鉄哉の怪我を治療して、専用の義手を作ったわ。同僚の何人かは、新型義手の研究と開発ができた上に、鉄哉というモルモットが同時に手に入って喜んでいたわね。流石にそればかりは、同意は出来なかったけど……」

「……んん? 今、経費って……」と母。どうやら気付いたようだ。

「うん。鉄哉の治療費と義手の開発費、合わせて一億五千万円は

 つまり、義手の開発と鉄哉の治療に掛かった費用は、獅子堂が全額支払ったわけだ。

「研究費用を管理する担当者に私が打診してお金を引き出して貰ったから、私が肩代わりしたっていうのも、あながち間違いではないんだけどね」

「……紛らわしいわよ」

 母がどっと安堵の息を吐く。

「それならそうと、そう言えば良かっただろう」と父。

 うん、確かにそうだ。私もそう思う。だけどね、

「ですが、私は真奈さんに返し切れない恩があるのは事実です」

 鉄哉が律儀で、真面目すぎるんだ。

 ちなみに、他のチームメンバーは持病が悪化した莉緒お嬢様の方へ軒並み動員されてしまったため、鉄哉の治療はほぼ私一人で行った。普通ならありえないが、最先端の医療機器やAIサポートがあればこそ可能だったわけだ。さすが鋼和市。

 そして、そのまま私が鉄哉の担当医になったという流れである。

「せめて治療費分の恩返しはさせてくれないと、私の気が済みません」

「それでお互い話し合った結果、定期的に私の身の回りの世話をすることで決着したのよ。つまり、『一億五千万円分の家事代行』ってこと」

 私がそうまとめると、

「なるほど、そういうことなのね」

 母は納得してくれた。

「だがそれはそれで、腑に落ちないことがある」

 一方で、父は鋭い視線を鉄哉に向けた。


「君は、義理で娘の世話をしているだけの関係なのか?」


 それは私もずっと以前から抱いていた疑問だ。なるべく考えないようにしていたのに、まさか父の口から訊ねられるとは思わなかった。


 YESならば――ただの家事手伝いだけで、金額分に見合う仕事をしたらオサラバの関係だ。義理を果たすだけの薄くて浅い関係など、家政婦サービスみたいなものである。それはもう『友人』とも言えない。


 NOならば――義理や恩返しとはまた別に、鉄哉は私のことを一人の女性として接していることになる。父がどう思うかは知らないが、もしそうだとしたら私は嬉しい。とても嬉しい。


 ふと、美優ちゃんの方を見る。

 彼女は静かに佇んだままだが、唇を引き結び、身体の前で重ねた両手をぎゅっと強く握っている。

 ガイノイドでありながら、彼女もまた鉄哉に好意を寄せる一人の女性だ。鉄哉が出す答えに、少なからずの不安と恐怖を抱いているのだろう。

 もしも彼女自身ではなく、私を選ぶとしたら……と怯えているのかもしれない。


 ……だけど、怖いのは私も一緒だ。


 黒沢鉄哉は私を――海堂真奈をどう見ているのか。

 それが私の父親から問われ、今、答えようとしている。


 鉄哉は少しの間考え込み、やがて答えた。

「それは――」


 果たして、どっちだ……!


「――『YES』でもあり、『NO』でもあります」


 …………は?


「家事の手伝いに関しましては、真奈さんと交わした契約である以上、必ず果たすつもりでいます。同時に、真奈さんは私にとってかけがえのないです。彼女が困った時は、全力で助ける所存です」

 真面目にそう答える鉄哉。


 ……うん、改めて現状を確認すると、私達の関係ってそうだよね。

 私の世話は義理ではあるけれど、それ以上に良い友達として接してくれてるし。

 ふと、美優ちゃんを見る。ポーカーフェイスだけど、どことなくホッとしている気がする。

「鉄哉くんは良い人なのね」

「いえ、普通だと思います」

 母の称賛に、鉄哉は恐縮する。

「ほら、お父さんも」

「む……んん……」

 気難しい表情を浮かべる父を、にこにこと肘でつつく母。

 どうやら無難に事が収まりそうでほっとする。

 話に一区切りが着いたのを見計らい、鉄哉はお茶に手を伸ばす。ずっと喋っていて喉が渇いたのだろう。

「ところで、鉄哉くん」

 母はお茶を口に含んだ彼に、


「ウチの娘とは、どこまでイッたのかしら?」


 ブーーーーーーッ!


 鉄哉は思わずお茶を噴き出し、対面に座る父の顔に掛かる。

 いきなり何を言い出すんだこの母!?

「ゲホッゲホッ! も、申し訳ありませんッ!」

「い、いや、大丈夫だ」

 むせ込みながら平謝りする鉄哉に、美優ちゃんが差し出したおしぼり受け取って顔を拭く父。

 二人が落ち着くのを待ってから、

「それでどこまでイッたのかしら? 返答次第では、私はすぐにでもお赤飯を炊くわよ」

「お母さん/母さん!」

 真面目な顔で改めて訊ねる母を、色々な意味で真っ赤になった私と父が声を上げる。くっそ、ウチの母はラスボスかッ!

「口にするのが恥ずかしいのなら、ABCから一つ選んで頂戴」

 恋のABCとか、また古いなオイ。違う意味でそれも恥ずかしいだろ。

「ご期待に沿えず申し訳ありませんが、まだAにすら至っていませんね」

「鉄哉もわざわざ剛速球のストレートを打ち返すなやッ! 真面目かッ!?」

 臆面もなく、さらりと答える辺り、本当に私は友人止まりなんだなと実感する。それはそれでへこむ。

 ていうか、ABC知ってるのか。この表現が流行ったのは、一九八〇年代だよ?

「あら、そうなの? それじゃあ今後、真奈がDする展開は」

「お母さん/母さん/お母様!」

 私と父と美優ちゃんが、暴走を始めた母の発言を遮る。

 Dって確か、『妊娠』を意味する隠語だったか。美優ちゃんも検索機能で意味を知ったのか、その表情は険しい。この母は本当にもう飛ばし過ぎだろ……!

 流石に鉄哉も困った顔をして、何と答えるべきか悩んでいる様子だ。

 いや、答えなくて良いから!

「ごめんなさい、流石にこの手の話題は素面じゃ無理よね」

 母はそう言って、ごそごそと持参していた紙袋の中を漁ると、大吟醸酒の一升お土産瓶を取り出した。

「続きは晩酌の時にしましょ♪」

「……えっ、飲むの? ていうか、今日帰りは?」

 私の素朴な疑問に、

「明日は日曜なんだから、泊まっていくわよ」

 さも当たり前のように、母はそう言った。



 ***


「鉄哉くんってば、料理の手際も良いのね。どこで習ったの?」

「昔、教えてくれた人が居て……あとは、ネットや本などで独学してます」

「すごいわね~。真奈も少しは見習ってほしいわ」

「恐縮です」

 鉄哉と母のやり取りが、キッチンの方から聞こえてくる。

 成り行きで、鉄哉と美優ちゃんは夕飯まで付き合うことになってしまった。


 当初の予定では、お茶して挨拶をしたら解散の筈だったのに、

「一緒に夕飯食べていきましょっ? 明日は日曜だし、探偵のお仕事もお休みなんでしょ? ……なら良かった。それなら皆でご飯にしましょっ、あなた達とはもっとお話したいし。ね?(ずいっ) ね?(ずずいっ)」


 ……といった感じで、強引に機巧探偵ふたりを母は引き留めたのだ。

 どうやら、母は鉄哉のことをひどく気に入ったらしい。

 それこそ、とくっつけたいと言わんばかりに。

 その気遣いはありがたいのか余計なお節介なのか、正直私にも解らなくなってきた。


 ちなみに、美優ちゃんは黙々と鉄哉と母の手伝いに回っている。

 そして、【メシマズの錬金術師】ゆえにキッチンに立たせて貰えず、暇を持て余した私はというと――


 ――パチンッ!


「王手・飛車取り」

「……待った」

「待ったなし」


 リビングで父と将棋をしていた。

 ちなみに、戦績は私の全勝である。美優ちゃんには僅かに、本っっっ当に僅かに及ばないが、ゲームと名の付くものは得意中の得意なのだ。



 ***


 夕食は豪勢に鍋だった。確かに日増しに肌寒くなってきたし、家族との団欒にはまさにうってつけだ。

 ちなみに、鍋に限らずカレーやシチューなどの煮込み料理に限れば、私でも作れる……のだが、最終的に何故か混沌としたものが出来上がる。

 煮込み料理とは、大抵は混沌としているものなのだが、鉄哉曰く、私の料理はどこか「冒涜的な気配を感じる」ものらしい。失礼な。


 食事中も、母の口から放たれる質問の集中砲火に、一つ一つ律儀に鉄哉は答える。

「娘から年下だと聞いているけど、歳はいくつなの?」

「二一です」

「若いわね。それじゃあ探偵はいつから?」

「一九歳の頃に。探偵歴はまだ二年の若輩者です」

「やっぱりお仕事は、浮気調査とかが多いのかしら?」

「ええ、そうですね」

「ドラマのような、殺人事件の捜査とかは?」

「個人的な依頼が多いので、警察が絡むような仕事は滅多にありません」

 たまに知り合いの刑事から調査依頼を受ける時があるが、基本的に事件容疑者の捜索の手伝い――目撃者の捜索や聞き込みといった簡単なものらしい。市内には防犯カメラや警備用のドローンなど監視の目が多数あるため、それらの目が届かない範囲を補う形で行うことが多いのだとか。

 当然、危険のない地味な仕事である筈なのだが。

「ただ仕事中、極稀に、サイボーグ犯罪者や違法改造が施されたオートマタとばったり遭遇して戦うことがありますね。極稀にですけど」

 鉄哉に限り、命の危険に晒される事態が割とあったりする。

「あら、そうなの? そんなハリウッド映画みたいなことが本当にあるんだ?」

 母が驚くも、そこはかとなく楽しそうに見えるのは気のせいだろうか? そうであってほしい。流石に不謹慎。

「本当に極稀ですよ。命の危険に晒される頻度と過酷さで言えば、この街の警察官の方がよっぽど大変です」

 鉄哉は肩を竦める。一体どの口が言うのだろうか。

 彼がトラブルメーカーと言われる所以は、大抵は依頼人側に問題があったりする。若輩の探偵であることに目を付けて危険な調査を依頼したり、身代わりや口封じを前提に犯罪の片棒を担がせようとしたりして、最終的に返り討ちの憂き目に遭っているからだ。

 そして時には、周囲の民間人や警察官ですら危険から遠ざけようと、あえて派手に暴れることもある。

 正直、『鋼和市随一のトラブルメーカー』という不名誉な異名は、理不尽かつ誤解も良いところなのだ。ここまで身の危険を顧みず、お人好しな探偵など他に居ないだろうに。


 ……先程から私を含め、父と美優ちゃんが蚊帳の外だ。

 黙々と料理を食べて、時折鍋の具材を空になった食器に盛り付けている。

 まぁ、会話の内容はしっかり聞いているから、発言の機会を窺っているとも言えるけど。

 しかし、鍋うめぇ。お土産のお酒も美味しい。

 ちなみに、鉄哉と美優ちゃんはお茶やジュースを飲んでいる。

 美優ちゃんは外見が未成年だから仕方ないにしても、鉄哉は基本的に飲酒しない。アルコールは脳細胞を破壊するため、彼が持つ特殊能力に何らかの障害が発生する危険性が考え得るからだ。


「ところで、鉄哉くん」

 酒が程よく回ってご機嫌な母が、鉄哉に絡む。

 本当に彼のことが気に入ったらしい。アルコールを差し引いても、ここまで楽しそうな母を見るのは久しぶりな気がする。

「真奈のことは、ぶっちゃけ、どう見てるの?」

 しらたきに伸ばしていた箸を止める。隣に座る美優ちゃんも動きを止めた。

 ちらりと、鉄哉と目が合う。

「見た目からして、大変魅力的な女性かと思います」

「いやいや、そうじゃなくてね~」

 彼の口からルックスを褒めて貰ったことに一瞬舞い上がり掛けるも、酒臭い母が訂正を入れる。

「わたしゃあ言いたいのは、内面的かつ今までどんな風に娘を見ていたのかって、そういう話よ。無礼講にするから、正直に答えてちょうらい」

 母の呂律がちょっと怪しい。

 色々な意味で面倒臭くなってきたな、おい。

 その時、つんつんと美優ちゃんが私の腕をつつく。

「……止めなくて良いのですか?」

 と小声で訊ねてくる。

「クロガネさんのことですから、きっと正直に話しますよ」

「まぁ、良い機会だし、私もちょっと……かなり興味ある」

 基本的に、鉄哉は冗談を言うことはあっても嘘は言わない。

 私のことをどう思っているのか、彼の本音を聞ける滅多にない機会だ。

 少し間を置いてから、鉄哉は口を開く。


「一言で言ってしまえば……」


 さぁ、私に対する評価はいかに?


「残念美人だな、と」


 …………ゑ?


 戸惑う私をよそに、彼は本心を語り出す。


「栄養のあるまともな食事も摂れず作れず、脱いだ服やゴミはそのまま部屋中散らかし放題で、家事はおろか衣食住すべてにおいて生活力は壊滅的。

 ルックスを含めスタイルはグラビアアイドルに匹敵するため、黙っていれば魅力的な美人で通るのに、普段の生活を目の当りにしたら彼女に惹かれた男も目が覚めて遠ざかっていくことでしょう。

 それでいて自宅では下着姿でうろつくような無防備さ故に、時々心配になります」


 ……ボロクソだ。あまりにあんまりな酷評に、どんどん落ち込む私。

 いや、実際その通りだけどさぁ……。

 両親の表情も徐々に曇っていく。不愉快を抱くというよりかは、「自分たちの娘がズボラでご迷惑を掛けてごめんなさい」とでも言いたげな表情だ。

 ぽん、と励ますように私の肩に手を置く美優ちゃん。

 その気遣いがどこか鬱陶しく感じるのは、ポーカーフェイスこそ維持している彼女の全身が僅かに震えているからだろう。

 笑いたければ笑えば良いだろ、ドちくしょうがッ!

 どこか勝ち誇ったかのような感情が見え隠れするガイノイドの義眼(流石に邪推だろうか?)を、無言で睨み付けていると。


「ですが、その一方で真奈さんには何度も助けられています」


 ……え?


 続く鉄哉の言葉に、彼の方を振り向く


「自分のことはかなりいい加減なのに、私の健康状態や義手に関してはよく気に掛けてくれます。以前、職場に伺う機会がありましたが、真奈さんは老若男女を問わず、同僚や患者さんからとても慕われていました。それは仕事や自分の役目に対して、真摯かつ真剣に取り組んでいる証拠です」


 話の流れと場の雰囲気が変わるのを感じつつ、真剣な顔をした両親共々、鉄哉の話に耳を傾ける。


「助手の美優が危険に晒されてしまった際には、みっともなく取り乱した私を落ち着かせてくれたりと、彼女は他者に対して気配りと気遣いを欠かしたことがありません。医者としても人間としても、彼女はとても優しく善良な女性だと認識しています」


 それを聴いた両親は実に嬉しそうだ。かくいう私も鉄哉の好評に嬉しく感じ、照れてしまう。

「下げてから上げる……流石クロガネさん、正直に話す上で効果的な順番です。そしてそこまで真奈さんに対する好感度が高いとは……くっ」

 先程とは打って変わり、嫉妬と悔しさが滲んだ視線を私に送ってくる美優ちゃん。

 ふふん、と私は上機嫌。

「そこまで娘のことを見ていてくれて嬉しいわ」

 上機嫌な母の隣で、うんうんと無言で頷く父。

「鉄哉くん、これからも娘のことをよろしくね」

「はい、こちらこそ」

 大きく頷いた鉄哉は、空いた父のグラスにビールを注ぐ。



 その後は、彼の趣味が読書と昔の映画鑑賞だと知った父も混ざり、話が弾んだ。

 いつも以上に食卓が賑やかになり、私たちは楽しい時間を過ごした。



 ***


 夜も更け、全員で後片付けを済ませると、両親を空き部屋に案内する。

 昨日、機巧探偵の二人と一緒に綺麗にして、新たに購入した布団を二組敷いてある。今後、この部屋は客室として使うつもりだ。

「それじゃあ、二人はここを使って」

「ありがとう、流石にちょっと飲み過ぎたわ……」

 父に支えられ、真っ赤な顔をした母がそう言った。

 うん、やはり私は母親似かな。楽しいことがあると、結構な量のお酒を飲んではダウンしてしまうし。

「真奈」

「何?」

「良い人を見付けたわね。あそこまで貴女のことを見てくれる優良物件は他にないだろうから、絶対に逃がしちゃ駄目よ」

 優良物件って……まぁ、間違ってはいない。

「……うん。私も、鉄哉を誰かにあげたくない」

 母が嬉しそうに笑う。

「その意気よ。私の誕生日には、ひ孫の顔を拝ませてね」

「だーかーらー、物理的に無理なこと言わないでっての」



 リビングに戻ると、鉄哉は美優ちゃんとベランダに出ていた。外の空気でも吸っていたのだろうか。

 やがて、美優ちゃんが(何らかのセンサーで)私の存在に気付いたのだろう。

 振り向いて私の姿を視認すると、鉄哉に何かを告げて彼が掛けていた多機能眼鏡を取り外し、自身の顔に掛ける。

 そして彼を残し、一人ベランダから戻ってくる。彼女は何をしたいのだろう?

「何をしているの?」

「真奈さん」

 ガイノイドであることは別として、ちょっと表情と声が硬い気がする。

「今回は特別に、私は余計な干渉をしません」

 多機能眼鏡のブリッジを上げながら、

「クロガネさんに想いを告げるなら、今がチャンスです」

 真顔でそう告げた。

「なっ……!?」

「……と、恋敵に塩を送りながら、安藤美優はクールにこの場を去ります」

 動揺する私を置いて、彼女はスタスタとリビングから去る。

 鉄哉の眼鏡は通信機能も備えている。美優ちゃんの手に掛かれば、私と彼との会話も盗み聞き出来るというのに、まさか自らそれを封じるとは。

 ……あの余裕は何だ? まさか正妻の――

 ピタリ、と突然美優ちゃんが立ち止まって振り向き、

「これが、『正妻の余裕』ってやつです」

「それは違うからっ。わざわざ言わんでよろしいっ」

 思わず力強く否定すると、美優ちゃんは「グッドラック」とサムズアップを私に送る。そして、今度こそ立ち去った。

「まったく……」

 振り返る。

 視線の先には、鉄哉の背中。


 ……深呼吸を一つ。

 意を決し、私はベランダに向かった。



 ベランダに出ると、少し肌寒い空気とやや強い風、そして極上の夜景が私を出迎えた。

 私が住む部屋は、鋼和市中央区にある高層マンションの最上階だ。

 高所から見渡せる人工の星々は、夜空に浮かぶオリジナルに勝るとも劣らない美しい光を放っている。

「……良い眺めだな」

 不意に、隣に立つ鉄哉が私の方を見ずにそう言った。

「いつでもこの夜景を見られることを踏まえれば、この部屋の家賃も妥当に思えてくる」

「せっかくのロマンチックな雰囲気を台無しにするようなことを言うのは、流石にどうかと思う」

 両親に対してずっと真面目で通してきた反動なのか、それともこれが身内に対する素なのかは判断できないが、チャンスだと思った。彼の発言を逆手に取る。

「一緒に住めば、いつでも見られるわよ」

 普段通りに、少しだけ茶化して言うと、

「実に魅力的な提案だけど、遠慮するよ。海堂にも余計な危険が及びかねないし」

 予想通りというべきか、真面目な返事を寄越す。

 私の身を思ってくれてのことなので、嬉しいやら少しだけ残念やらで複雑だ。

「いつも思うんだけど、鉄哉ってそういうところズルイよね」

「ズルイ?」

「いや、だから……もういいや」

 真面目なのか、天然なのか。いや、真面目ゆえに天然なのか、こう何度も私のアプローチが暖簾に腕押し状態だと肩透かしを喰らう。

 なので、別方向からを攻めてみる。

 とりあえず、今回の件に関して感謝を伝えよう。

「今日はありがとう」

「今日も、だろ? 別にお礼を言われる程のことじゃない。こっちだって世話になっているから、お互い様だ」

「ふふっ、そうね。それでも、ありがとう」

「どういたしまして。こちらこそ、いつもありがとう」

「うん、どういたしまして」

 律儀で誠実。彼がかつては無慈悲な殺し屋だったなんて、今でも信じられない。

「……良い親御さんだな」

 鉄哉がそう言った。

「ありがとう。鉄哉と会えて、向こうもかなりテンションが上がったのだと思う」

「そうなんだ」

「子供は私だけで、事ある毎に気に掛けてくるし。ここまで親身になってくれる男友達なんて今まで居なかったものだから」

 母のテンションと機嫌もウナギ登り。最初はどうなるかと思ったけど、父も少しは鉄哉と打ち解けてくれて良かった。

「あんなに嬉しそうなお母さんの顔を見たのは、本当に久しぶり」

「それは良かった」

「うん、本当に感謝してる。だけどまぁ、時々鬱陶しいと思う時もあるけど」

「急に辛辣だな」

「これくらい普通よ。家族なんだから、遠慮なんてしないわ」

「そういうものか」

「そういうものよ」

 夜景を見下ろしながら、お互い黙り込む。

「…………」

「…………」

 会話が途切れて、ちょっと気まずい。

 想いを告げようにも、それが出来るムードではない。何か話さなければ。

 私は何となく、テールランプを引いて眼下を走る車を眺めながら、口を開いた。

「……少し、踏み込んだことを訊いても良いかしら?」

「俺の家族のことか?」

「……当たり。鋭いわね」

「まぁ、話の流れからして……な」

 普段から自身に関しては話してくれないため、個人的に彼の家族にも興味があった。

 少しだけだぞ、と先に断ってから、鉄哉は語り始める。

「実の親は、もう名前も顔も解らない。物心ついた時から、俺が家族と呼べる者は、色々なことを教えてくれた獅子堂家専属の各担当教官と、同僚ぐらいだ」


 今から一七年前、鋼和市が完成して数年後に起きた、とあるオートマタの暴走事件。犠牲者は推定で約三百人。『推定』なのは、今も安否が確認されていない行方不明者が数十人いるからだ。

 そして『黒沢鉄哉』と名乗っている彼も、かつてその事件に巻き込まれた被害者の一人だ。

 凄惨な出来事を目の当たりにしたショックから身を守る防衛本能ゆえか、当事者である彼は当時の記憶を失い、後遺症で自身の名前すらも失ってしまったという。

「ご両親のことは、本当に憶えていないの?」

「ああ、当時はまだ四歳くらいで……というか、本当に四歳の子供だったのかすら怪しいけどな」

「それって……」

「ああ、自分の年齢も解らなくなっていたんだよ。身に着けていた服や靴、持ち物にも名前や住所が記載されていなかったし。DNA鑑定でも、当時の犠牲者から連なる血縁者に繋がる手掛かりすらなかったから、俺に親類縁者が居るのかすら今も解らないままなんだ。両親の遺族からの捜索届もなかったしな」

 文字通り天涯孤独となってしまった彼は、獅子堂家に引き取られたその日が新たな誕生日になったという。推定年齢四歳からそのまま年を重ね、とりあえず現在は二一歳ということにしている。

「ご当主に『黒沢鉄哉』と名付けられるまでは、本当に適当な偽名を名乗っては暗殺仕事が一つ片付く度に使い捨てていたんだ。引き取られた当初は、『名無し』とか『幽霊』とか『ノーバディ』とか周りから言われてた」

「壮絶ね……」

 特に『幽霊』や『誰でもない者ノーバディ』はないだろうに。

 まさか、そう呼ばれていたからこそ、殺し屋集団の『ゼロナンバー存在しない者』になったのではなかろうな?

「そんな感じで、実の親に関しては何も憶えていないんだ。獅子堂に引き取られた後、育ての親は何人も居たけど、彼らから貰ったものは武器や殺人技術や過酷な訓練といったものばかりだな」

「……ごめん、気軽に訊いちゃいけないものだった」

 流石に自分の迂闊さを呪う。

「気にするな。それに今日はちょっと、俺も語りたい気分だ」

 驚いた。口数の少ない鉄哉がそんなことを言うなんて、意外だ。

「育ての親に一人だけ、尊敬する人が居るんだ。俺に一般常識や人並みの教育を施してくれた人でな、自慢の先生だよ」

「先生?」

「普段は大学で、今も教鞭を執っているからな」

 なんと。しかも、その先生が獅子堂の専属で鋼和市に居るのなら、私も知り合っているのかもしれない。

「俺が何とか社会人やれているのも、その人のお陰だよ」

「なるほどね~……ちなみに男? 女?」

 感心しつつ、大事なことを確認。

「えっ、男だけど?」

 よしっ、と内心拳を握る。

 いや、別に鉄哉が熟女好きなのかとか、気になって訊いたワケじゃねーし。

 いや、仮に女教師だったとして、年上の女性が好みだったら私にもワンチャンあるか?

「それじゃあ、その人が鉄哉のお父さんに当たる人なんだ」

「そうなるな。とても頼りになる、自慢の父親代わりだよ」

 鉄哉の父親代わり……少し気になる。

「興味深いね、私もお会い出来たりする?」

 何の気なしにそう言うと、

「ああ。俺も話していて久しぶりに会いたくなってきたから、一緒に来るか?」

「えっ」

「えっ」

「……いや、まさか普通にOKされるとは思わなかった」

「まぁ、会う分には問題ないだろう。

「……ゼロナンバーなんだ」

 獅子堂家を影から守る特殊部隊。

 鉄哉曰く、変人奇人達人超人魔人狂人の集まり。

 私も数人程度しか知り合っていないが、いずれも一般人の私から見たらドン引きする程に、色々な意味で濃い人達だった。

 どうしよう、一気に不安になってきた。舌の根がまだビチョビチョなのに前言撤回したくなる。

「ま、まぁ、楽しみにしてる……そういえば、さっきは美優ちゃんと何を話していたの?」

 とりあえず話題を反らす。

「さっきまで一緒にこの景色を見ようとして――」

 鉄哉が再び視線を夜景の方に向けたので安堵しようとするも。

「――とりあえず、半径十キロ圏内に狙撃手や砲撃や空爆をする不審者やドローンが存在しないか美優に調べて貰った結果、『問題なし』との報告を受けてだな」

「貴方の頭に『問題あり』よ!」

 本当にもう、この男はッ!

 無意識にムードをぶち壊されて、美優ちゃんもがっかりしてないか?

「いや、こんな高い所で迂闊に外に出る方が危ないだろ?」

 鉄哉はキョトンとしてそう説明する。

 ああ、そういえば、少し前にあった学園祭前日に大規模な戦闘をしてたんだっけ。少なからず周囲を警戒してしまうのも当然か。

「……ごめんなさい。大きな声だして……」

「いや、大丈夫だ。それでその後、『機能の一部に不具合が見られた』とか言われて、美優に眼鏡を持って行かれた。今頃、調整してくれてると思う」

「そう、なんだ……」

 実際は、私が鉄哉と二人きりで心置きなく話せるように気遣ってくれたのだ。

「へ、くちッ」

 くしゃみを一つする。流石に冷えてきたかな。

「そろそろ中に戻ろうか?」

「ん、そうね……、ッ!」

 我、天啓を得たり。

「もうちょっとだけ、ここに居ようかな」

「そうか、風邪ひくなよ」

 そう言って彼は一人、部屋に戻ろうとする。

 いやいやいや、待たれよ。

「そこは上着を貸してくれるとか、気の利いたことをしてくれないの?」

「俺が寒いだろ。それなら、海堂の上着とか毛布を持ってこようか?」

 本当に、この男は……!

「必要ないわ」

「でも寒いだろ」

「鉄哉を羽織れば大丈夫よ」

 は? と呆ける鉄哉の胸に背中を預け、彼の手を取って私のお腹に回す。

「ふふん、バックハグ。これは良いものだ」と、ご満悦な私。

 見上げると、本当に目と鼻の先に彼の顔がある。

 やっば……今更だけど、かなり近い!

 顔が火照ってくるのを自覚する一方で、鉄哉はどこか安堵した表情を見せた。

「てっきり一本背負いで、ここから投げ落とされるのかと……」

「本当に貴方はムードが解ってないわねッ! わざとかッ!?」

 流石にキレた。今なら彼をここから突き落としてしまいそうだ。

「まったく……女がここまでしているのに、鈍感すぎるのも問題でしょッ」

 そう言うと。


「……(ぎゅっ)」

「へ?」


 鉄哉が無言で私を抱きしめてきた。


「ななな……」テンパる私。

「これで良いか?」

「そ、そうそう、これで良いのよ! お陰で充分温かいわ!」

 微妙に裏返った声で応える。

 ……やばい。これやばい。

 すんごく嬉しいやら恥ずかしいやらで、全身が火照ってきた。

 いま真っ赤になったニヤケ面だろうから、彼の顔も見れない。よって、俯く。

「海堂も俺のことを男として見ていたんだな」

 どこか呆れた声が、頭上から聞こえる。

「……当たり前でしょ。何を今更……って、海堂『も』?」

 私の他にもアプローチしていた女性が……って、一人しかいないわな。

「学園祭の帰り、美優から告られた」

「へ、へぇ、そうなんだ……何て答えたの?」

「……内緒だ」

「ふーん……」

 努めて平静を装いつつ、素っ気なく返す。きっと返事は保留にしているのだろう。

 鉄哉はどこか呆れたような、困ったような溜息をついた。

「美優といい、海堂といい、男の趣味が悪過ぎる」

「あら? 貴方も良い勝負じゃない」

「どういう意味だ?」

「人の心を持つ規格外のガイノイドと、生活力が壊滅的なズボラ女を、ここまで親身になってくれる男なんて、滅多に居ないと思うわよ」

 私は彼の顔を見上げて、悪戯っぽく微笑む。

「趣味が悪いなんて、どの口が言うのかしらね」

「同類、かな?」と言ってから、鉄哉は気まずそうに視線を逸らせる。

 失言だと思ったのかもしれない。だけど、私は悪い気はしなかった。

「だからこそ、巡り会えたのかもね、私たち」

「そうかな……」

 私たちが似た者同士だと彼が考えてくれたのなら、むしろ嬉しくすらある。

「隙あり」

 軽く背伸びをして、


 ちゅっ


 未だに視線を逸らしたままの彼の頬に、自身の唇を当てた。

「っ、何を?」驚く鉄哉に、

「隙ありだけにキスをしただけよ、『好き』だけに」

 さり気なく告白も混ぜ合わせた、我ながら絶妙な言葉遊びで返した。

 きっと私の顔は真っ赤だ。冷たい夜風が心地良いと感じるくらいに。

「……美優もそうだったけど、告白やキスをする時は、お洒落な言葉遊びをするのが流行っているのか?」

「……ちょっと聞き捨てならないわね。美優ちゃんも貴方とキスしたの?」

「……ああ」と素直に白状する。

「どこに?」

「口……って、待て待て待てッ」

 今度はマウス・トゥ・マウスをしようとする私から離れようとする鉄哉の手をしっかり掴んでバックハグ状態を維持。逃がすものか……!

 対して鉄哉も思いっ切り顔を逸らして私のキスから遠ざかる。

「謎の対抗意識を持つなッ、ムードとか何とか言ってたお前はどこに行ったんだよッ」

「だって! だってぇ……!(涙目)」

「泣くことないだろッ、落ち着けッ」

 仕方なくキス(真)を中断するも、鉄哉の手は離さない。

 警戒はしているだろうが、強引に私の手を振り解かないあたりが彼らしい。

「…………」

「…………」

 再び二人して無言になる。先程とはまた違った意味で気まずい。

「ごめんなさい、取り乱したわ」

「うぃ」と頷く鉄哉。

「……その、迷惑だった?」

「海堂なら問題ない」

 暗に私が迷惑であることを肯定した上で許容する発言。

 ……不思議と、嬉しく感じる。

 あ、そうだ。

「ねぇ、迷惑ついでに一つ、頼みたいことがあるんだけど?」

「何だ?」

「これからも、名前で呼んでくれないかしら?」

 少し間を置いてから、

「……真奈さん」

 彼は私の名を呼ぶ。でもまだ固い。

「さん付けは要らない」

「一応、年上なんだから、敬称を付けるべきでは?」

 彼の顔を見上げ、「今更なにを遠慮してんのよ」と私は苦笑する。

「今までの『海堂』だって、さん付けしなかったじゃない。ていうか、私に対して敬意を払ってなかったでしょ?」

「そんなことはないんだがな……」困ったような表情を浮かべる鉄哉。

 そして表情を引き締めて、

「……真奈」

 改めて、彼は私の名前を呼ぶ。それで良し。

「うん、今後はそれでよろしく」

「了解」

 穏やかに微笑む愛しい人に、私も微笑んで見せた。




「……ところで、あとどの位このままでいれば良いんだ?」

 ふと、バックハグ状態の鉄哉がそう訊ねた。

「んー……あと五分」

「長くない?」

 彼に背中を預けながら答えると、呆れた声が返ってくる。

 あっ、そうだ。

「マウス・トゥ・マウスでキスしてくれたら離れるわよ?」

「解った、あと五分な」

 即答されて少しへこむ。

「そんなに私とキスするのが嫌なの?」

「……嫌じゃないけど、その、心の準備がな」

 困った表情でそう言う彼に、機嫌が良くなる。

「仕方ないわね」

 どうやら、鉄哉の中ではまだ『特別な女性』が定まっていないようだ。

 キス(真)では美優ちゃんに先を越されてしまったが、挽回と逆転はまだ充分に可能だ。

「それじゃあ、隙あらば特別濃厚なのお見舞いしてやるから」

「……出来れば、その時のムードも考えた上でやってくれ」

「あら? ムードが良ければ私のキス(真)を受け入れてくれるのね?」

「その上で受け入れるか避けるかは俺が判断する」

「逃げるな、受け入れよ」

「えっ、神?」


 美しい夜景が見渡せる摩天楼。

 そこで密着状態の若い男女。

 ムード満点な絶好のロケーションであるのにも拘わらず、あーだこーだと口論している私たち。

 ……何かもう色々台無しで残念だけれども、一方でどこか楽しく感じる私がいる。

 彼もまた私と同じ思いで居るのなら嬉しいし、この関係はきっとこれからも。


「覚悟なさい」


 いつか、彼が一生の伴侶を選ぶ時が必ず来る。

 私か私以外の誰かが選ばれたとしても、私たちが紡いだ縁は消えない。

 ……そうだ、それならば怖いものなんてない。

 ただ、進む。

 これは貴方の心を奪う宣戦布告だ。


「貴方にとって一番の女は私なんだって、絶対に解らせてやるんだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る