第31話 哀れな神官殿

 フォルセリア神殿の裏庭が崩壊してから、七日が経っていた。足の踏み場もないほどに荒れ果てた裏庭には未だ濃い魔力が残っており、神官たちによって聖水による闇の魔力の中和が行われていた。

 聖水に加え、神官たちの紡ぐ聖なる呪文が、裏庭に残った瘴気を浄化していく。けれども魔法の薄れた今の時代、人が紡ぐ呪文の効力はひどく弱い。荒れ果てた裏庭に澱む濃い闇の瘴気が完全に消えるまで、どれくらいの時間がかかるのかは誰にも予想できなかった。


 一般人が立ち入ることのないよう、神官たちによって薄く結界が張られた神殿の裏庭。黄昏時に沈んだ瓦礫の山の一角に、セイルはいた。ぼんやりと視線を落とした先にはぱっくりと割れた地面が、まるで境界線のように鋭い跡を残している。

 七日前、ルシェラが消えた場所だ。

 足元に走る深い亀裂はさながら二人の絆を断ち切るようで、セイルは顔を歪めたままきつく瞼閉じて頭を横に振った。それでも未だ、ルシェラの最後は脳裏にきつく焼き付いている。伸ばした手の先で笑ったルシェラの顔が、忘れられない。


 ずっと蕾だった花が、鮮やかに咲いた瞬間だった。


「……ルシェラ」


 名を呼ぶと、また切なさが胸に込み上げてくる。

 影ながら守り続けてきた蕾が、自分ではない誰かの手によって美しく花開いたことへの嫉妬。けれど自分では決して花を咲かせられないやるせなさ。

 案内人であるセイルは、ルシェラを見守る立場だ。魂が闇に染まらないように守る導き手が、ルシェラに対して私情を挟むことは許されない。神の啓示を受けたあの日に、セイルはルシェラの最期を見届けると、そう決心した。

 敬虔な信徒であるセイルが出来ることは、それ以外になかったのだ。


 風が吹いた。

 裏庭に溜まっていた瘴気が、セイルを守る結界を避けて端の方へ流れていった。けれどその先も裏庭全体に張られた結界によって遮られ、一部分にだけ瘴気が濃く溜まっていく。それが形を成していると気付いた瞬間、瘴気の吹き溜まりからバサリと黒いマントが翻った。


「君は……っ!」

「ご機嫌よう、神官殿」


 胸の前に手を置いて、銀髪の悪魔が仰々しく黙礼する。レヴィリウスの背に纏わり付いた瘴気が風に揺れ、左右に広がるその様は、まるで両翼を広げた漆黒の翼のようだ。

 ただそこにいるだけなのに、空気が重い。肺が圧迫されるような感覚にセイルが生唾を飲むと、喉はいつの間にかカラカラに干上がっていた。


「あぁ、やはりダークベルの瘴気が大量に流れ出ていますね。急を要したとは言え、この地を穢してしまったことを謝罪させて下さい」


 謝罪と口にしながら、その美しい顔に誠意のない笑みを張り付ける。それが本心ではないことは、セイルにもとっくに分かっていた。

 謝罪は口実で、レヴィリウスの真意は別にある。悪魔と神官、二人を結び付けるものはただひとつだ。


「ルシェラはどこにいる」


 圧倒的な力に押し潰されそうになりながらも、セイルは怯むことなくレヴィリウスを強く睨み付けた。


「もちろん無事ですよ」


 レヴィリウスの言う「無事」と、セイルが求める「無事」では意味が違う。それが分かっていて、目の前の悪魔は不敵に笑う。


「少々無理をさせてしまいましたからね。今はゆっくり休ませています」


 明確な言葉はなかったが、セイルはルシェラの魂が穢されてしまったことを悟った。張り詰めていた糸が切れてしまったように、セイルの体から力が抜け落ちる。


「何てことをしてくれたんだ。ルシェラが……もう二度とルシェラの魂は天へ戻れない。転生も出来ずに消滅してしまうんだぞ! お前がルシェラをっ」

「おかしなことを言う」


 声は静かに、それでいて逆らうことを許さない絶対的な威圧感をもってセイルの言葉を遮った。底冷えするような冷酷な響きに、セイルの肌がぶわりと粟立つ。


「君こそルシェラの死を望んでいたのではありませんか」

「違う! 僕はっ」

「神託? 案内人? 要はルシェラを見殺しにする役目でしょう。――笑わせるな」


 声のトーンが変わった。

 それまでの柔らかい響きは一瞬にして消え失せ、その凍り付くほどの冷たい声音に周囲の温度までもが下がる。熱のない菫色の瞳に鋭く射抜かれ、セイルの心臓が一呼吸分だけ確実に止まった。


「ルシェラはもう神々の人形ではない。聖女という枷から解き放ちます」

「そんなこと……出来るわけがないだろうっ! 君がルシェラを穢してしまった今、彼女の魂は二度と天には戻れない。最後の転生だったというのに……君がすべて台無しにしたんだっ! ルシェラの魂は……消滅を免れない」

「それはルシェラが命を落とす前提でしょう?」


 瞳の光は凍ったまま、口角を緩く上げてレヴィリウスが意味深に笑う。


「誰を前にものを言っているのですか。彼女を守るのはこの私、月葬の死神ですよ? 他の悪魔に後れを取るとでも?」


 確かにルシェラの命を奪うのは「闇の眷属」だ。いにしえに強大な力を誇った悪魔たちの中で、現在残っているのはおそらくレヴィリウスくらいだろう。その彼が守ると言うのなら、ルシェラの命は保証されたようなものだ。

 ただそれは悪魔間の話であって、そこに神々が介入しないとは言い切れない。


「私はルシェラを死なせない。ゆえに神はルシェラの魂には手が出せない。それでも直接手を下そうとするのなら、その時はどんな手を使ってでも阻止しますよ。たとえ地上を巻き込む戦争になろうとね」

「いにしえの……戦い。それほどまでに、君はルシェラを」

「何百年、何千年と待ち続けた私の思いを馬鹿にしないで頂きたい」


 完敗した。

 目の前の悪魔を許すことなど出来なかったが、セイルはもうレヴィリウスを非難する言葉をすべて失った。

 どんな敵からもルシェラを守ってみせると、迷いなく言い切ったレヴィリウス。彼にはそれに見合うだけの力がある。悪魔からも守り、また神々も手が出せないように、おそらくルシェラの時を止めて老化による死さえも振り払ったのだろう。


 セイルには出来なかったことのすべてをやってのけ、セイルが守りたかったルシェラをいとも簡単に攫っていく。

 悔しくて歯がゆくて、ただただ惨めだった。


「僕だって……本当は……っ」


 ――守りたかった。

 そう零しかけた言葉を、セイルは必死に喉の奥に押し止める。


 その言葉を、口にすることは許されない。自分で自分を戒めて、セイルは下唇を血が滲むほどにきつく噛み締めた。


「哀れな神官殿。君も愚かな信仰から解放されるべきですよ」

「愚かだと?」

「えぇ、とても。守りたいものを守れない信仰に意味がありますか?」

「……それでも、僕は……」

「神への信仰がルシェラを殺すのなら、私は君たちが穢れていると蔑む悪魔の手でルシェラを永久に守りましょう。誰も救わない神に、君は一生縋り付いていればいい」


 夕闇が濃く漂い始めた。

 レヴィリウスの纏う黒衣が闇に溶け、セイルの視界から次第にその姿を覆い隠していく。


「最後にひとつ、君に伝えることがあります」


 力なく顔を向けると、レヴィリウスの姿はもうどこにもなかった。


「メイヴェン古書店へ行きなさい。君に宛てた手紙があるはずです」



 ***



 店の前に着く頃は、辺りはすっかり闇に包まれていた。外灯に照らし出されて、看板が白く浮かび上がっている。

 店内も、二階の自室にも灯りはない。店の前に立つと、まるでセイルを待っていたかのように扉がひとりでに開いた。


 真っ暗な店内に視界が慣れるよりも先に、ぽうっと青白い光が灯った。奥にひっそりと備えられた一人掛けの小さなテーブル、その上に置かれた一枚の手紙が仄暗いランプの明かりに照らされている。震える手でそっと手紙を取ると、なぜか耳のすぐそばでルシェラの声が聞こえたような気がした。


『セイルへ。

 私のことをずっと守っていてくれて、本当にありがとう。そしてセイルの思いに応えられなくてごめんなさい。

 私はレヴィリウスと共に歩むことを選択しました。だからどうかセイルも、自分の道を自由に選択して欲しいと思うの。神託に縛られることなく、聖女に縛られることなく、セイルがやりたいことを出来る人生を歩めるように……私は遠くから祈っています。

 セイルが幼馴染みでよかった。今まで本当にありがとう。――ルシェラより』


 見覚えのある字で綴られた手紙に、ぽとりと涙がひとしずく零れ落ちる。「神託」の文字を滲ませた手紙は端からほろほろと崩れ始め、やがてその風化はセイルを残して店全体にまで及び始めた。


 言葉もなく、ただ涙を流しながら、セイルは消えていく店をただ見つめるだけしか出来なかった。

 綺麗に整頓された本棚も、二階へ続く階段も。セイルの目の前でくるくるほどけ、淡い光を纏ったまま暗い夜空へ上っていく。まるで光の漣のように、緩やかに波打ちながら消えていく。


 頬を濡らす涙が乾かないうちに、セイルは何もない空き地の真ん中に立ち尽くしていた。ぼんやりと見上げた空から視線を戻し、何も持たない両手に目を落とす。

 はらりと、零れ落ちた涙の訳も分からないまま、セイルは濡れた頬を手の甲で乱暴に拭い去る。


 なぜ泣いているのか。胸を締め付ける悲しみが何なのか、セイルにはもう分からなかった。

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