第30話 あなたに、愛されたいわ

 どこから話せばいいのだろう。

 どこまで話せばいいのだろう。


 レヴィリウスが深淵アビスへ堕ちた後、神々によって罰を下されたフォルセリアの最期を。

 セイルから聞いた、ルシェラの人生の意味を。

 すべて話してしまっていいものかどうかルシェラは迷う。知って欲しいと思う反面、教えたことでレヴィリウスが辛い思いをするのも嫌だった。


 あの瓦礫の中、セイルではなくレヴィリウスの手を取った事で、ルシェラの人生は決まったようなものだ。


 ――自分は死ぬのだ。


 それが逃げられない運命ならば、残された時間のすべてをレヴィリウスに愛して欲しいと願った。

 けれど実際に思いを通わせ、触れ合い、レヴィリウスの深く強い愛情を知ってしまうと、今度はそれを手放したくないと思ってしまう。浅ましくも、もっと……もっと欲しいと求めてしまうのだ。


 レヴィリウスに愛されたい。彼を愛したい。限られた時間だけでなく、その先もずっと、ずっと一緒にいたいのだと……もう認めるしかなかった。


「本当は、すぐに深淵アビスへの道を探すつもりだったの」


 随分と長い沈黙の後、声を震わせてルシェラはそう話し始めた。

 ぽつりぽつりと、紡ぐ言葉はひどくゆっくりで。それでもレヴィリウスは話の腰を折ることなく最後までルシェラの話に耳を傾けていた。


 レヴィリウスが深淵アビスへ堕ちてから、三人の神が降りてきたこと。

 その神々によって、罰を受けたこと。

 いつか再び出会うことを信じて、愛し愛された記憶を自身で封じたこと。

 シャドウによって二十三歳を迎える前に死ぬ人生を運命づけられ、その罪が償われた時に聖女の力は戻るのだとそう告げれば、レヴィリウスの形のよい眉が僅かに顰められた。


「君があの夜ここへ迷い込まなければ……」

「多分、命を落としていたと思うわ。今になって思えば、ダークベルに迷い込んだことは本当に幸運だったのね。その後も契約のおかげで、ずっとレヴィンが守ってくれてた。ありがとう」


 そう感謝を込めて微笑むと、レヴィリウスはなぜか深い溜息をついて自身の目元を手で覆った。長い足を組み、そこに右肘を立てて、思案するように顎を乗せる。菫色の瞳は、テーブルに置かれたハーブティーのカップをただ映しているだけだ。


「レヴィン?」

「気まぐれに力を与え、意に沿わなければ断罪する。自分勝手で傲慢なところは、我々よりもはるかに悪魔らしいじゃありませんか」

「でも……私はやっぱり罪を犯したわ。あの砦で、守ってくれていた騎士や天使たちを……結果的に殺してしまった」

「手にかけたのは私ですよ」


 きっぱりと言い切られても、その状況を作り出してしまったのは二人の恋が原因だ。素直に頷けず口を開くと、「ルシェラ」と少し低めの声で言葉を遮られる。


「君はあの時代、あの戦いを神々の優勢へと導いた。選択の余地すらない力を生まれる前から与えられ、小さな肩に人間の運命を背負わされ、押し潰されそうになっても自分の役目を全うしたではありませんか」


 声音は変わらず柔らかいのに、隣に座るルシェラの肌が僅かに粟立つ。真綿に包まれた棘のように、レヴィリウスの言葉は隠しきれない毒を滲ませていた。


「悪魔と聖女の恋は、確かに歓迎されるものではないでしょう。けれどその恋がなければ、私は戦いをやめなかった。戦いは更に長引き、いずれは聖女の力も弱まり疲弊する」


 ピキッと響く音に目を向ければ、テーブルに置かれたカップに深い罅が入っていた。レヴィリウスの静かな怒気に当てられたのか、罅割れた隙間から薄桃色の液体が滲み出している。


「私との恋が罪だというのなら、その罪によって勝利を得た神々に、君を裁く権利はない」

「レヴィン……」

「君はもう解放されるべきだ」


 そっとルシェラの体を抱き寄せて、背中に回した手でシーツの上から翼の傷を撫で下ろす。


「君が望むなら、神々との絆を私が断ち切ってあげましょう」

「そんなこと……出来るの?」


 期待と疑惑の混ざった眼差しを向ければ、銀髪の悪魔はひどく蠱惑的な笑みを浮かべてルシェラを見下ろしていた。重なる視線に、ルシェラの胸が音を立てる。


「私の花嫁として、その身を闇に堕とすことが出来るのなら」

「……っ」

「神々が重要視する君の魂の神性は、悪魔と交わることで穢され消滅するでしょう。そうなれば、もう神々が君の魂に執着する必要はない。神々は手を引き、私は君を手に入れる。どうです? 魅力的な提案だと思いませんか?」


 軽く首を傾げてルシェラの意見を聞くふりをしながら、レヴィリウスの指はシーツの隙間に滑り込んで柔な肌をゆるゆると弄ぶ。収まっていた熱が、再び肌を染めていくのが分かった。


「ま、待って……レヴィン! 私まだっ……大事なこと……」


 肩を甘くみ、首筋を上に滑るレヴィリウスの唇を手のひらで押し止める。抗えそうもない熱に溺れる前に、ルシェラは言わなくてはならないことがあった。

 まだ伝えられていない、一番大事な事実がある。


「この期に及んで、まだ私に我慢を強いるとはひどい人だ」

「そうじゃなくて! ……一番大事なことを、伝えなくちゃいけないのよ」


 恥じらいではなく真摯に告げると、レヴィリウスの体が少しだけ離れた。至近距離で痛いくらいに注がれる視線を感じながら、ルシェラは気持ちを落ち着けるために深く息を吸い込んだ。


「贖罪の転生を繰り返してるって、言ったでしょ。私はいま二十二歳で、きっともうすぐ死ぬ運命にある」


 今度はすぐさま口を挟もうとしたレヴィリウスを、ルシェラは彼の唇に指を当てることで静かに制した。

 奮い立たせた気持ちが萎む前に、レヴィリウスにはすべてを話してしまいたい。


「レヴィンが守ってくれてたから、生きてるだけなの。そしてね……いま私が死んだら、もう二度と生まれ変わることはないわ。私の魂は贖罪を終えて、聖女として天に迎え入れられる。――私のいまの人生が、最後の贖罪なの」


 一気に言葉を吐いてレヴィリウスを見ると、案の定眉間に深い皺が刻まれていた。


「私はレヴィンを選んだ。レヴィンに……愛されたいと願った。でも……その思いは結局私たちを永遠に引き離してしまう」

「……どういうことですか?」

「レヴィンを選べば私の魂は穢れ、贖罪も許されず……消滅するってセイルに言われたの」

「あの神官が、なぜ?」

「セイルは……案内人だったの。神の啓示を受けていたんだって、言ってたわ。そんなこと、わたし全然気付かなかった」


 そう自嘲気味に笑みを零すと、レヴィリウスの眉間の皺が更に深くなる。笑っていない菫色の瞳が濃く揺らめき、その奥に静かに灯る怒りの熱がルシェラにも手に取るように分かった。


「でもね……たとえ短い時間でも、私はレヴィンに愛されたいと願ったの。記憶が戻ったのに、あなたを知らないまま死ぬのはおかしいでしょう? だって約束したじゃない。純潔を守るのは戦いが終わるまでだって」


 レヴィリウスを選んでも選ばなくても、結果的に二人は共に歩くことを許されない。ならば気持ちを抑えず、思うように生きたいと願うのは当たり前のことだ。

 ルシェラはレヴィリウスを選んだ。どうせ死ぬなら、最期くらい愛した人に愛されたい。


「だから、私は魂が消滅しても……あなたに、愛されたいわ」


 レヴィリウスの唇に当てた指先はとうに離れ、かすかに震えていた。ぬくもりを求めるように今度は頬に伸ばした指先が、レヴィリウスの左手に手首ごと強く掴まれる。


「やはり君は闇に堕ちるべきだ」


 重なる菫色の瞳には、怒りと悲しみ、愛しさや焦りなどと言ったあらゆる感情がせめぎ合い、レヴィリウスの心情を図るには難しい。言葉の真意を汲み取ることもできず、ただ困惑するルシェラの肩にそっと置かれたレヴィリウスの手が、彼女の体を隠すシーツを剥ぎ取った。

 あらわになる白い肌。辛うじてシーツを引き止めたルシェラの左胸に、赤い薔薇の痣が顔を覗かせる。恥じらい頬を染めたかのような色に染まる薔薇の痣に、そっとレヴィリウスの細い指先が触れた。


「再契約を望んでいましたね」


 低く響く声音に艶が増した。


「ルシェラ。私の花嫁になる気はありますか?」

「えっ……それは、でも」

「共に同じ時を歩むと、そういう意味ですよ。――君を私と同じ眷属に迎え入れたい。君が望めば、それは契約として体に、魂に刻まれる」


 驚きと戸惑いに薄桃色の瞳が大きく見開かれた。

 レヴィリウスと同じ眷属、即ち悪魔に身を堕とす。考えたこともなかった大胆な発想に、ルシェラの思考が一瞬だけ停滞する。


「君が二十二歳で死ぬと言うのなら、その時間を止めてしまえばいい。襲い来るシャドウに問題はありません。この私が、君を守るのですから。闇に堕ちた魂など、神々にとっては必要ないでしょう。それでも君を取り戻そうとするのなら、その時はいにしえの戦いが再来するだけですよ」


 いつの間にか普段の笑みが戻っている。余裕に満ちた表情で困惑するルシェラを愛おしげに見つめ、レヴィリウスが再度同じ質問を繰り返した。


「ルシェラ。――私と共に、生きる選択はありますか?」


 まるで拒絶されることがないと分かっているように、美しく魅惑的に笑う。掴まれた手の甲に触れるだけの口付けを落とされれば、甘く心地良い痺れが指先にじんわりと響いていった。


「……私……レヴィンと、……ずっと一緒に、いたい」


 そう呟けば、菫色の瞳が満足げに細められる。

 掴まれたままの手を引かれ、腰に添えられた手がルシェラの体を僅かに持ち上げた。上体が少しだけ弓なりに反り、胸元の赤い薔薇の痣がレヴィリウスの眼前に曝される。


「仰せのままに。私の聖女」


 熱い吐息が肌を掠めた瞬間、ルシェラの左胸――その赤い薔薇の痣に、再びレヴィリウスの唇が優しく宛がわれた。

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