第4章 花蕾の聖女

第19話 君が心を奪われている時点で大問題だ

 リトベルの歴史地区には、古くから残る年代物の建物が多い。文化価値の高い外観はそのままに、内装は住みやすく改装されている。フォルセリア神殿の管轄である神官たちの宿舎もそのひとつで、外観は貴族の屋敷とも見紛う立派な建物の内部に独立した部屋が幾つか改築されていた。


 セイルの部屋は、南側の一番端にあった。

 簡素な造りの室内には必要最低限の家具と、歴史書など難しい本を綺麗に並べた少し大きめの本棚。窓際の小瓶に飾られた黄色い花が、無機質な部屋の空気を僅かに和らげていた。


「もう会ってはくれないだろうと、覚悟はしてたんだけどね」


 ソファに深く腰掛けたセイルが、口元をほんの少しだけ緩めて諦めに似た笑みを浮かべた。

 あの夜から六日経った今日、ルシェラは宿舎にあるセイルの部屋を訪ねた。宿舎の外にはケイヴィスが、体の小さなネフィは廊下の物陰に待機している。

 セイルにその気がなかったとは言え、男の力で組み敷かれる恐怖はルシェラの中にまだ鮮明に残っている。それでも見舞いを兼ねてセイルに会いに来たのは、聖女の力を解放する術を彼なら知っているかもしれないと思ったからだ。


 あの夜、神殿は大騒ぎだった。

 異変に気付いた神官たちが別棟へ駆け付けると、損壊した部屋の真ん中で負傷したセイルを見つけた。彼の隣にいたベルトールは昏睡状態で、事件から六日が経った今でも目覚めていない。


「操られていたとは言え、酷いことをした。謝って済む話じゃないけど、まずは謝らせてくれないか」


 向かい合って座るルシェラを一瞥し、深く頭を下げる。結んでいない金髪がさらりと肩から滑り落ち、セイルの顔を完全に覆い隠した。


「本当にごめん。君を守るつもりが、逆に傷付けてしまった」

「あれはセイルが悪いんじゃないもの。大丈夫。……体は? 動いて平気なの?」

「治癒に長けた神官たちがいるからね。大事には至らなかった」


 腹部をさすりながら、セイルが自嘲気味に微笑んだ。

 ベッドから起き上がることは出来ても、歩く度に痛みが肋骨に響くのだろう。背もたれに体を預けるだけでも、セイルの眉間に皺が寄る。

 ソファに座るセイルに手を貸そうとしてやんわりと断られたことを思い出し、ルシェラの胸にも僅かな切なさが込み上げた。


「あんなことの後だ。ここに来るのも随分躊躇ったと思う」


 かなりの間を開けてから発せられた声は、部屋の空気よりも重苦しく床に滞る。窓の外は明るい日差しが降り注いでいると言うのに、この部屋だけが曇天に覆われているようだった。


「そんな思いをしてまで君が知りたいのは、あの悪魔のこと? それとも――君自身のことなのかな」

「セイルは……どこまで知ってるの?」


 ルシェラの言葉に、セイルが一瞬だけ瞠目する。そして微かな嘲笑を含んだ溜息を零すと、切なげに細めた瞳でルシェラを見つめ返した。


「君がそれを言うの?」

「え……?」

「その言葉を、そのままルシェラに返すよ。君はいつから悪魔と通じていたの? 自分が聖女だと気付いたのはいつ?」

「それは……」

「どうして僕に相談してくれなかったんだ」


 非難の色を滲ませた声音に怒気はない。ただ弱々しく後悔の念を纏って、二人の間に響くことなく落ちていく。

 暫くの間、押し殺した呼吸の音だけが沈黙した部屋の空気を微弱に揺らしていた。


「――ごめん。君が悪いんじゃない。気付けなかった僕の責任だ」


 吐き出す息と共にぽつりと呟いて、セイルがソファの上で身を正した。青い瞳が強い決意を宿してルシェラを鋭く射抜いた。


「君が聖女だと自覚したのなら、僕は今から大事なことを伝えなければいけない」


 真剣なセイルの表情が、少しだけ怖い。真っ直ぐに向けられる視線は逸らされることなく、ルシェラの心臓にまでその細く鋭い棘を刺す。

 一度だけ瞳を瞼で隠したセイルが、深く息を吸い込んだ。意を決して再び開いた青い瞳に、もう迷いの影はどこにもなかった。


「ルシェラ。君は聖女フォルセリアの生まれ変わりだ。そしてその魂は神々によって、贖罪の転生を繰り返している」

「……贖、罪?」

「そう。フォルセリアは罪を犯した。戦いの最中さなか、敵である悪魔の指揮官のひとりと通じてしまった」


 どくんと、ルシェラの心臓が早鐘を打つ。脈打つ鼓動に合わせて脳裏に浮かぶ、青い泉の夢。揺れる波紋に映る金髪のフォルセリアと――。


「指揮官の名前はレヴィリウス。漆黒の大鎌を振るい、数多もの命を屠った月葬の死神だ」


 ――愛しいフォルセリア。


 耳のすぐそばで、吐息すら感じられる声がする。記憶の果てからよみがえる声に甘く囁かれ、艶めく快感の名残に肌がぞくりと粟立った。


「そして……君は、出会ってしまった」


 後悔の強く滲んだセイルの声が、頭に響くレヴィリウスの声を上書きする。ときめきから切なさへ。睦言から悔恨へ、黒く深く。


「よりにもよって、あのレヴィリウスとの邂逅だなんて……笑えない」

「ちょっと待って、セイル。レヴィンはシャドウに襲われた私を助けてくれたの。私がシャドウに襲われない限りダークベルからは出て来られないし、人に悪影響を及ぼすようなこともしてないわ。そんなに悪い人じゃ……」

「君が心を奪われている時点で大問題だ!」


 滅多なことでは大声を出さないセイルに声を荒げられ、はっと息を呑んだルシェラが身を竦ませた。

 一度堰を切った感情は、押し寄せる濁流のように止まることを知らない。怯えたルシェラの顔を瞳に映しながら、セイルはもう溢れ出す思いをこれ以上押し留めることは出来なかった。


「君の魂は純潔でなければならない。もう二度と悪魔に……レヴィリウスに穢されてはいけないんだ。――何のための転生だ! 贖罪が終わり、君の魂はやっと天へ迎えられるというのに……まさか最後の最後で出会うなんて」

「セイ……ル? 何を言ってるの? さっきも言ってた贖罪の転生って、一体……」

「言葉通りだよ。フォルセリアの生まれ変わりである君の魂は、罰として百回の輪廻を繰り返している。フォルセリアは二十二歳の時に罪を犯した。だから魂はその先の人生を進むことはない」


 一度言葉を切って、セイルが唇を噛み締める。戸惑いに揺れた瞳を隠すように、長い睫毛がエメラルドグリーンに僅かな影を落とした。


「悪魔に心を許したフォルセリアの魂は、二十三歳を迎える前に必ずシャドウによって命を落とす。レヴィリウスと同じ闇の眷属によって死を迎えることで、自身の罪を贖うようにと……ね」


 そして――と言葉を続けるセイルが、僅かに視線をルシェラから逸らす。痛みを堪え顔を歪めたセイルを見つめながら、ルシェラはそれが肋骨の痛みからくるものではないことを悟ってしまった。


 ルシェラは今、二十二歳だ。


「そしてルシェラ……君の魂は百回目の転生だ。君が最期まで穢されずにいれば罪は許され、その魂はやっと神々の元へ戻ることが出来る」


 頭の中がいっぱいで、理解が追いつかない。

 聖女の力を解放する術を求めて来たと言うのに、答えを得られないばかりか、予想だにしない展開に頭も心も混乱する。

 聞きたいことが山ほどあった。けれど喉が詰まって声が出ない。必死に声を絞り出そうとすると、おかしいくらいに震えた嗚咽が零れ、弾みで視界が少しだけ歪んだ。


「……ど……して」


 膝の上、握りしめた拳でスカートが皺になっている。


「セイルは……いつから、私が聖女の生まれ変わりだって知ってたの?」


 恐る恐る見つめれば、今にも泣きそうな顔のセイルと目が合った。


「どうしてセイルは……そんなことまで、知ってるの?」


 聖女フォルセリアの生まれ変わりだと。

 レヴィリウスと恋に落ち、その魂は神々から罰を受けているのだと。

 百の転生。

 贖罪の輪廻。

 ルシェラの魂はフォルセリアの魂で。

 二十三歳を待たずに死ぬのだと、なぜセイルが知り得るのか。


「物心ついた頃から、漠然とルシェラを守らなければと思っていた。何から守るのか、はっきりと道が示されたのは十五の時。僕が神官見習いになった年だ。君の魂を悪魔に穢されぬよう、二十二歳まで守り抜けとの啓示を受けた」


 意味もなく、ルシェラの背筋がひやりとした。


「僕は神の啓示を受け、君の魂を天へと導く役目を担った案内人だよ」

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