第18話 聖女かどうか、そんなに大事か?

「フォルセリア」


 呼ばれたことで、それが自分の名前だという事を認識した。

 木漏れ日に光る森の奥。少し進めば開けた場所に空の色を映した泉がある。

 泉のほとりに佇む影がひとつ。夜を纏う漆黒が柔らかな陽光に照らされる様は、何だか少しだけ場違いな気がして思わず笑みを零してしまう。


「私に会えた喜びに笑っているわけではなさそうですね」


 黒衣に身を包む男を、ルシェラはよく知っていた。

 今の彼と何も変わらない。星の輝きに似た長い銀髪も、本心を曝け出さない微笑も、とろけるように響く魅惑的な声音テノールも。菫色の瞳に宿る熱でさえ、『彼』とまったく同じ愛おしさを持ってルシェラを真っ直ぐに見つめていた。


「大方、太陽の下が似合わないとでも思ったのでしょう?」


 手首を掴んで引き寄せ、腰に手を回して抱き寄せる。たたらを踏んだ足が小石を蹴り、水音と共に泉の水面に波紋が広がった。


「君が望むなら、このまま私のもとへ連れて行ってもいいのですよ?」


 掴んでいた手を放し、代わりにルシェラの髪を一房掬い上げる。陽の光を浴びて輝くに口付けると、意味深な熱を溶かす菫色の瞳を細めて秘めやかに笑った。


「神に愛され、清き光を纏うフォルセリア。世界を慈しむその手で私たち悪魔をも魅了してしまうとは……君は罪な人だ」


 掠めるように唇を奪われ、恥じらいにルシェラの頬が朱を帯びる。

 繰り返し、唇を啄む優しいキス。木漏れ日のように穏やかな抱擁。ひとかけらの吐息にも、背中を撫でる指先にも、抑えきれない愛しさが募っていく。

 胸を満たす幸福に酔いしれながら、ほんの少しだけ瞼を開くと、揺れる水面に映るレヴィリウスの姿が見えた。


 彼が愛おしげに抱きしめる『ルシェラ』の髪は胡桃色ではなく薄い金色で、その背には二枚の白い翼が広げられていた。



 ***



 ゆっくりと目を覚ますと、視界にアイスブルーの箱が見えた。昨夜はルダの揺り籠を眺めているうちに眠っていたらしい。ルシェラの手から離れた小箱は、枕元に転がったまま透き通るブルーの光をシーツに薄く反射させていた。


 ルダの揺り籠を手に取って、ぼんやりとした夢の名残を追いかけてみる。

 木漏れ日に揺れる森。青く透き通る泉の冷たさ。吹き抜ける柔らかな風の匂いも、鮮明に脳裏に焼き付いている。

 壊れ物を扱うようにふわりと抱きしめられた腕の感触。その熱も匂いも、ルシェラの体に深く残るレヴィリウスのものと同じ力だった。……同じ愛着だった。


『フォルセリア』


 夢の中で、レヴィリウスはルシェラのことをそう呼んだ。

 聖女ではなくルシェラ自身を愛して欲しいのに、夢の中でさえレヴィリウスはルシェラを求めない。それでもなおレヴィリウスの愛を求め、自ら望んで聖女の枷に囚われた淡い夢。その歪んだ願望、愛されようとする浅ましい願いにルシェラがふっと自嘲した。


 体を起こし、深く息を吐く。ルシェラの中に居座る夢の残骸が薄れていき、霞む記憶からレヴィリウスの姿が解けて消えた。


「ルシェラ」


 朝日に照らされた窓の向こう、ピンク色の肉球がガラスを控えめに叩いていた。

 昨夜からずっとそこにいたのだろうか。ルシェラは慌ててベッドから立ち上がると、窓を開けて外にいたネフィを部屋へ招き入れた。艶やかな黒い毛並みが、少しだけ朝露に湿っている。


「ネフィ。あなた、ずっと外にいたの?」

リトベルここでお前を守るのは俺様だからな。あぁ、ちなみにケイヴィスもしっかり働いてるから安心しな」

「そういう意味じゃなくて……」


 収穫祭も終わり、季節は冬に近付いている。日中は日も差し温かいが、朝晩はかなり冷え込むようになってきた。心配してネフィを抱き上げると、案の定小さな体は思った以上にひんやりとしていた。


「ごめんなさい。寒かったでしょう?」

「たいしたことねぇよ。それよりお前……少しは落ち着いたか?」

「……そう、ね」


 ネフィを抱いたまま、ベッドに腰掛ける。ドレッサーの鏡に映る自分を見つめながら、その鏡面が繋げるダークベルを……そこにいるレヴィリウスを思って静かに目を伏せた。


「レヴィンは?」

「ダークベルへの道は閉じられたままだ。前みたいに自己嫌悪に陥ってんだろ。あんま気にするな」

「そう……」


 言葉が途切れ、静寂が満ちる室内に朝日がゆっくりと忍び込む。視界の端にきらりと光った青に目を引かれ、ルシェラがそっとルダの揺り籠を手に取った。透かしてみても、元より青く透明な箱は向かいの壁を映すだけで中身が何なのかは分からない。

 そこにあるのに触れられない。まるでルシェラとレヴィリウスの曖昧な関係のようだ。


「夢を見てたの」


 懺悔でもするかのように、ルシェラが呟いた。


「聖女じゃなく私を見て欲しいって思ってたのに、夢の中でさえ私は聖女にしがみ付いてた。……惨めだわ」


 レヴィリウスに惹かれている。さっき見た夢のように、優しい腕に抱かれたい。あの深い菫色の瞳に映るのは、とろけるような甘い声で囁かれるのは、いつだって自分ひとりだけがいい。

 聖女ではなく、フォルセリアでもなく、自身を愛して欲しいのだ。


 けれど、レヴィリウスは『悪魔』だ。

 悪魔が惹かれるのは『聖女』であって、『ルシェラ』ではない。聖女の肩書きをなくしてしまえば、レヴィリウスはきっともうルシェラに何の興味も示さないだろう。


「……なぁ、ルシェラ。聖女かどうか、そんなに大事か?」


 思ってもみない言葉にはっとして視線を落とすと、膝の上でネフィが真剣な眼差しをルシェラに向けていた。


「確かに悪魔にとって聖女の血肉は別格だ。でもアイツが……レヴィンがお前を欲するのは聖女だからじゃない。お前の魂がアイツにとって特別だからだ」

「特別?」

「そうだ。お前は、まだ何も感じないのか? まだアイツのことを思い出せないのか?」


 何を言われているのか、まったく分からない。けれどルシェラの心の奥が、ネフィの言葉に反応してざわざわと騒ぎ始める。

 一度は霧散した夢のかけらが、記憶の遠いところから『フォルセリア』とレヴィリウスの声で囁いた。


「遠い昔、お前はアイツに愛されたはずだ。レヴィンには昔からお前しかいない。お前の魂を愛し続けている。――惚れた魂が、聖女だっただけだ」


 森に囲まれた泉のほとり。揺らめくアイスブルーの水面に映るレヴィリウスと、その隣に佇む金髪の――。


『愛しいフォルセリア。君はもう私のものだ』

『すべてが終わったら、私をあなたのもとへ連れて行って』


 深い愛情に満ちた菫色の瞳が映すのは。

 独占欲を滲ませた強い腕に抱きしめられたのは。

 時に優しく、時に激しく口付けられたのは。


「ルシェラ。お前の魂は、フォルセリアの生まれ変わりだ」


 再び形を成す夢の残像が、ネフィの言葉で一気に色を取り戻す。



 無意識に絡まっていた聖女の枷に、罅が入ったような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る