第3章 すれ違う思い

第13話 本音の見えない相手なんて……好きじゃないもの

 翌日のメイヴェン古書店は、なぜかいつも以上に客が多かった。

 ルシェラがひとり接客に追われている間ネフィは店先で看板猫になり、ケイヴィスは店内窓際の椅子に腰掛けて興味もない本を広げたまま惰眠を貪っていた。

 店先の黒猫に足を止めた者が、窓際に座るケイヴィスの姿に魅了されて店内へ入ってくる。寝ているだけでも目を奪われる容姿は、きっと悪魔特有の色気が漏れ出ているのだろう。危険を孕んだ危うい魅力に捕らわれ入店する者の多くは、やはり若い女性が多かった。


 休憩を挟みつつ接客を繰り返していると、時間はあっという間に昼を過ぎてしまっていた。店が繁盛するのは助かるが、この分だとベルトールのところへ本を届けるのは閉店後の夕方過ぎになりそうだ。

 あまりに遅い訪問だと却って迷惑になるかもしれない。けれども今日届けると言う約束を違えたくなくて、ルシェラは少しだけ早めに店を閉め、頼まれていた本とセイルに借りていた本を持って急いで神殿へ向かった。



 ***



「ねぇ、本当に付いてくる気?」


 古書店を出て三回目の問いかけに、ルシェラの後ろを歩いていたケイヴィスが面倒臭そうに赤毛を掻き上げた。顔を顰め、気怠げに深く息を吐くと、咥えたままの煙草からほろりと灰が零れ落ちていく。


「しゃーねぇだろ。お前に何かあったら俺がヤベぇっつーの」

「じゃあ、あの時みたいにもう少しマシな格好してよ。それじゃあ、まるでガラの悪い不良じゃない」

「あぁ? テメェ、何様のつもりだ?」


 金色の模様が入った黒地のシャツは大きくはだけており、逞しい胸板が惜しげもなく曝されている。その胸元に揺れる、謎の生物をモチーフにしたネックレス。煙草を挟む指には大きな髑髏の指輪が今日も嵌められており、ケイヴィスが手を揺らす度に沢山の腕輪がジャラジャラと金属音を響かせる。

 どこから見ても、ただの不良だ。神殿という聖なる場所にはそぐわないし、ましてや一緒に歩くのも憚られる。と言うか、知り合いだと思われたくない。


「あぁ、そういや……お前はこっちの方が好みか」


 口角を上げてニヤリと笑った瞬間、ケイヴィスの派手な衣装が一変した。

 灰色のシャツに黒のベストと赤いネクタイ。ロングコートの裾を翻して不敵に笑うその姿に、不意打ちを食らったルシェラの胸がどくんと鳴る。

 姿も立ち振る舞いもまるで似ていないのに、着ている服が酷似していると言うだけで脳裏にレヴィリウスの姿が紛れ込む。動揺し、僅かに震えたルシェラの体を壁際に追い込むようにして、ケイヴィスがじりじりと距離を詰め始めた。

 ――とんっ……と背中が壁にぶつかると同時に、左側の壁をケイヴィスの腕で塞がれ逃げ場を失う。見上げた視界に影が落ち、ほんの一瞬恐怖に竦んだルシェラの瞳に勝ち気な笑みを崩さないケイヴィスが映った。


「お前、今アイツを想像しただろ?」

「そ、そんなこと……っ」

「何なら姿も真似してやろうか? ……つーか、お前マジでヤベぇな。近付きすぎるとこっちがヤられそうだ」


 次第に声を掠れさせ、ケイヴィスがルシェラの首筋に顔を埋めて深く息を吸い込んだ。パーティの時よりも強く濃く滲み出た「聖女」の匂いに、ケイヴィスの意識が酩酊する。


「前より匂いが濃くなってるな。お前まだ覚醒してないんだろ? やっぱりアイツとの関わりで聖女の力が目覚めはじめて……」

「そこまでだ、ケイヴィス。近寄りすぎだぞ」


 未だルシェラの首筋に顔を埋めていたケイヴィスの頭上に、ネフィが牽制の意味を込めて飛び乗った。

 小さな体の黒猫とは言え、ネフィはレヴィリウスの使い魔だ。ピンクの肉球から繰り出される一撃でさえ力を持つのか、頭に飛び乗られただけでケイヴィスはバランスを崩して顔面を壁に激突させてしまった。


「テメェ……何するっ」

「お前を助けてやったんだぞ。ルシェラをひと舐めでもしたら……お前今度こそ死ぬからな?」

「コイツが所構わずくそ甘ぇ匂い垂れ流してるからだろうが! 俺たちにとって極上の匂いに抗えるヤツなんていねぇだろ。俺を見張るより、コイツの自覚のなさをどうにかしろよ」


 打ち付けた顔面をさすりながら、ケイヴィスが頭上に乗ったままのネフィを掴もうと右手を伸ばした。その指先をするりとすり抜けて、今度はルシェラの肩に飛び乗ったネフィが、湿った鼻先を耳朶に寄せて匂いを嗅ぐ。


「ぁー……確かに濃いな。前より匂いが滲み出してる。何でだ?」


 耳の後ろ、うなじ、首筋と匂いを嗅がれ、その度に肌を掠めるネフィの髭先がくすぐったい。


「なあ、ルシェラ。ルダの揺り籠は、まだ開いてないんだろ?」

「うん。何の変わりもないわ……っちょ、ネフィ。くすぐったい!」

「聖女の力を封じた箱が開いてないなら、覚醒はまだだ。だとしたら、匂いの原因は……やっぱりレヴィンかな?」


 その瞬間、匂いが僅かに濃くなった。

 漂う匂いの波に、透けるように薄い膜がほんの一枚重なり合っただけの僅かな変化。至近距離、しかも猫の嗅覚がその変化を見逃すはずはない。

 ――もしかして、とネフィは金色の目を見開いてルシェラを見上げた。


「なぁ、ルシェラ」


 ルシェラが自分の方へ顔を傾けたのを見て、ネフィが探るように呟いた。


「お前……もしかして、レヴィンのこと好きなんじゃ」


 途端、ルシェラの顔が真っ赤に染まった。それとほぼ同時に、さっきとは比べものにならない程の濃厚な香りがネフィの鼻を刺激する。


「なっ、なな、なんっで……っ、何言って」

「動揺しすぎだろ」

「そうだぞ、ルシェラ。それに相思相愛はレヴィンも望むところだし、別に隠すことじゃないぞ」

「そんなんじゃないわ! 翻弄されて、どうしていいか分からないだけよ。本音の見えない相手なんて……好きじゃないもの」


 萎む言葉に合わせて、ルシェラから漂う匂いもやがて薄れて消えていく。しんとした石畳の上を、秋風に惑う枯葉の音が虚しい尾を引いて流れていった。


「まぁ、その……何だ、好きか嫌いかは置いといてさ。とりあえずルシェラ、お前は俺たちといる時以外はあんまりレヴィンのこと考えるなよ」


 沈みかけた場の雰囲気を強引に変えて、ネフィが少し語気を強めて忠告した。


「お前の匂い、どうやらレヴィンのことを考えた時に強くなるみたいだ。一人の時に匂いが漏れ出ると、他の悪魔やシャドウがお前に引き寄せられるぞ」

「どうして? 血を流さなければ大丈夫だったんじゃないの?」


 初めて会った時に、レヴィリウスは確かにそう言った。

 聖女の血肉は悪魔にとっては至上のご馳走。芳醇な血の香りは悪魔を引き寄せる。ゆえにルシェラは、決して傷を負ってはいけないと。


「血の匂いが一番強いだけで、本来は聖女の存在そのものが悪魔を引き寄せる。ちょっと前まではお前も目覚めてなかったし、体から発する聖女の匂いはほとんどなかったけどよ……。今はレヴィンと関わることで、お前の血に眠る記憶が少しずつ聖女を思い出してきてる」


 レヴィリウスへの感情が聖女の記憶を揺さぶり、ルシェラに眠る聖女の力を引き出そうとしている。

 感情と記憶がなぜ結びついているのか。その理由をネフィは知っていたが、今は敢えて口を噤み、目覚め始めた聖女の記憶を静かに見守ることにした。



 ***



 西の空は、既に燃えるようなオレンジ色に染まりきっていた。眩しくはないが強い夕焼けの陽に照らされて、荘厳な造りの神殿が絶妙な陰影を浮かび上がらせている。

 神聖な場所なのに、影の落ちる場所はどことなく闇に繋がっているような気がして、ルシェラの体が無意識にぞわりとした居心地の悪い戦慄を走らせた。


「今日はセイルに会えるといいけど……」


 大聖堂の奥、扉を開けて入ると正面に見えるのは、翼を広げて祈りを捧げるフォルセリアの像だ。瞼を閉じ、少し微笑んでいるようにも見える。

 礼拝や観光に来た人の他に神官の姿もちらほら見えるが、大聖堂の中にセイルはどうやらいないらしい。昨日と同じように一通り回ってみようと思ったところで、ふと何かに気付いたルシェラが足を止めた。


「そう言えば二人は神殿に入って大丈夫なの?」


 元を辿れば悪魔を封じた聖女を祀るための場所だ。そんなところに元凶である悪魔が入って無事で済むはずがない。そう思い慌てて振り返った先に、ネフィとケイヴィスの姿はなかった。


「ネフィ? ……ケイヴィス?」


 扉を開けて一度外に出てみても、さっきまで一緒にいた二人の姿はどこにも見当たらない。神殿の入り口には、西日に照らされた木の影が細く伸びているだけだ。


「……もしかして、弾かれちゃった?」


 聖域である神殿に、やっぱり悪魔は入れないのだと妙に納得する。

 護衛のために付いて来た二人だったが、神殿の中では闇の力は通用しないらしい。悪魔であるケイヴィスと、レヴィリウスの使い魔ネフィが弾かれてしまったのだから、神殿は疑いようもなく聖なる力の守護が働いていると言える。

 ここなら別に二人がいなくても平気だろう。そう確信して、ルシェラはひとり神殿の奥へと進んでいった。

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