第3話 私に君を守る許可を頂けませんか?
気持ちを落ち着かせようと飲んだお茶は、少し
ルシェラが今いる場所――ダークベルは、その昔悪魔を封じ込めた場所だとレヴィリウスは言った。確かに暗く不気味な雰囲気漂う街並みは、思い出しても生者の気配はどこにも感じられなかった。
生き物の気配も。そしてリトベルには溢れんばかりに咲き乱れている、花一輪さえもこのダークベルには咲いていない。
受け止めるには突飛すぎる話だが、レヴィリウスが嘘をついている様子もない。それに実際ルシェラは異形の犬に襲われているのだ。これが現実だと受け止めるだけの材料が、目の前に充分過ぎるほど並べられていた。
「だったら……今も、この街には悪魔が……?」
「いえ。ダークベルに封印された悪魔たちはもういません」
「コイツが狩り尽くしたからな」
話に割り込んできたネフィが、テーブルにひょいっと飛び乗って来た。お目当てのクッキーを一枚咥えたところでレヴィリウスに抱えられ、問答無用で彼の膝の上に拘束される。
「行儀が悪いですよ、ネフィ」
「分け前も忘れてお前があの犬っころ狩ったせいだろ。腹減ってんだよ」
「あぁ……そうでしたね。彼女に気を取られて、何の役にも立たないマスコットの存在をすっかり失念していました」
「マスコットってお前……ふがっ」
どこから出したのか、レヴィリウスが黒い小さな珠をネフィの口に無理矢理詰め込んでいる。絶えず笑みを浮かべているのが逆に怖い。
ネフィが窒息するのではと心配したルシェラだったが、数秒も経たないうちにそれは杞憂に終わった。今ではレヴィリウスの指先から黒い珠を奪い取って、両手で器用に挟んだまま美味しそうにペロペロと舐めている。小さな舌が必死に動く様子が少し可愛い。
「うまっ、うまっ! 血ぃ舐めただけでコレかよ」
「まだ目覚めてませんからね」
「マジでっ?! 覚醒してなくてコレ?! 目覚めたらどんだけ美味いんだよ!」
「言っておきますが、彼女は私のものです。勝手に手を出したらどうなるか、君なら嫌と言うほど分かっていると思いますが?」
菫色の瞳の奥に垣間見えるどす黒い闇に、ネフィが全身の毛を震わせて縮こまった。それまでの興奮が嘘のように萎み、尻尾をくたりと垂れたまま「分かってるよ」とだけ呟く。舌の動きはさっきよりも緩慢になり、少し怯えた仕草で黒い珠を舐めるネフィの姿はどことなく哀愁を帯びているようにも見えた。
「話が逸れましたが……」
少しの間を置いて、ルシェラの意識が向くのを待ってから、レヴィリウスが再び話し始める。彼の膝の上で黒い珠を舐めているネフィは、もう口を挟む気はないようだ。
「ネフィの言った通り、ここに封じられた悪魔たちは全て排除済みです。君が見た犬のような影――あれは悪魔ではなくシャドウと呼ばれるもの」
繰り返して呟けば、レヴィリウスが小さく頷いた。
「シャドウは悪魔に近く、けれど完全な悪魔ではありません。いにしえの戦いによってリトベルの土地に染みついた、悪魔の残留思念。それが人の負の感情によって実体化したものがシャドウです。普通なら実体化したシャドウは、ここに満ちる闇の引力によってダークベルへ落ちてくるのですが……今夜は運悪く君が先に見つけてしまった」
運がなかった。そう言われれば確かにそうかもしれないとルシェラは思う。
急な雷雨に家路を急ぐあまり、普段はほとんど通ることのない路地裏に足を踏み入れた。日中でさえ人影の少ない路地裏を、夕闇に染まる時間帯にどうして通ろうと思ったのか。何かに引き寄せられた気がしないでもないが、ルシェラは自分の浅はかさを悔いて俯き加減に下唇を軽く噛み締めた。
「それでも、私には幸運でしたよ」
「え?」
いつの間にかソファから腰を浮かしたレヴィリウスが、テーブルに片手をついて身を乗り出していた。開いたもう片方の手でルシェラの頬に触れ、その指先でゆるりと顔を上向かせる。
絡み合う視線はまるで太い糸に結ばれているようで、恥ずかしいのにルシェラの方からはなぜか目が逸らせない。かといってこの距離で目を瞑るのも危険な気がして、焦ったルシェラの口だけが空気を食むように震えていた。
「あっ……あのっ、私! そろそろ戻ります!」
帰り方など分からないのに、そう口をついて出る。ルシェラを映す菫色の瞳が少しだけ見開いて、そして柔らかく細められた。
「どうやって?」
「えっ! それは……えっと……」
ルシェラが落ちてきた場所は、リトベルで水溜まりに足を取られて転んだあの路地裏と同じだった。だとすればダークベルの街並みはリトベルとさほど変わらないのではないか。そう思い至って顔を上げれば、まるでルシェラの思考を読んだかのようにレヴィリウスが弧を描く唇に自身の人差し指を当てた。
「いい線ですが、五十点と言ったところでしょうか」
屈めていた上体を起こして、レヴィリウスがルシェラに手を差し出した。もう片方の手にはいつの間にか黒い帽子が握られ、それを頭に被せながら意味深に笑う。
「説明するよりその目で見た方が早いでしょう。お送りしますよ、ルシェラ。さぁ、お手をどうぞ」
目の前に差し伸べられた手はやっぱり綺麗で、レヴィリウスのしなやかな指にルシェラはまた見惚れてしまった。
***
レヴィリウスの部屋を出てから、どこをどうやって来たのかルシェラには全く分からなかった。
なぜなら扉の先は闇が広がっており、同じ目の高さには夜空にあるはずの細い三日月が浮かんでいる。はるか下にぼんやりと灯る青白い光は、ダークベルを照らす外灯なのだと理解した途端、ルシェラはレヴィリウスに横抱きにされたまま暗い夜空に飛び込んでいた。
ルシェラの細く長い絶叫が、漆黒の空に木霊する。真っ直ぐに落下して、幾つかの建物を軽やかに飛び越えた先の着地点。そこはルシェラの家――彼女が祖母から引き継いだメイヴェン古書店の目の前だった。
「なっ……なん……っ!」
あまりの衝撃に言葉も出ないルシェラを抱えたまま、レヴィリウスは優雅な足取りで古書店の扉をくぐった。ひとりでに開いた扉の先、独特の古い紙の匂いが篭もる一階の古書店を過ぎ、足は迷うことなく二階へ続く階段へと向く。
登り切った先の部屋。テーブルとソファ、奥にあるベッドやキッチンに置かれた小物の位置まで、全てが寸分違わずルシェラの部屋とまるっきり同じに配置されている。リトベルにある本当の部屋ではないと分かっていても、自室を見られた恥ずかしさがルシェラを襲った。
そんなルシェラの様子など知りもしないレヴィリウスが、ベッド脇に置かれた小さなドレッサーの前で足を止めた。横抱きの状態から解放されたものの、夜空を落ちてきた恐怖は未だ足に残っており、ふらつく体を支えきれずにルシェラはベッドの上に腰を落としてしまった。
「大丈夫ですか?」
「あんな風に急に飛ばれたら、誰だって驚くわ!」
勢い余って口調も元に戻ってしまっている。そんなルシェラの態度に気分を害することもなく、レヴィリウスは形だけの謝罪を唇に乗せて軽く肩を竦めて見せた。
「それは失礼。次からは気をつけましょう」
次もあるのかと驚くルシェラの前に、レヴィリウスが音もなく膝を付く。何事かと一瞬強張った体を引かれ、見上げる形のレヴィリウスと距離が縮まった。
「ルシェラ。私に君を守る許可を頂けませんか?」
「え? ま、守る?」
「私はここから出られない。今夜のように、君がリトベルでシャドウに襲われたとして、駆けつける術が私にはないのです。だから、君の許しが欲しい」
見上げる瞳が真摯な熱意を持ってルシェラを映している。その強い輝きを前にすると、浮かんだ幾つかの疑問はとても些末なものに思えてしまう。
気が付けば、ルシェラは無言で頷いていた。
許可を得て、レヴィリウスがホッとしたように破顔する。
それは今まで目にしたどんな笑顔より一番感情のこもった、彼の気持ちを雄弁に語る表情だった。
「ありがとう」
掴んでいた腕をぐいと引き寄せたかと思うと、何の躊躇いもなくルシェラのブラウスへと手をかけた。
驚く暇もない。抵抗する隙もない。胸の三番目のボタンまでをあっという間に外され、白い胸元がレヴィリウスの瞳の前に晒される。ひやりとした外気を感じてやっと異変に気付いたルシェラが叫ぶより先に、レヴィリウスがその白い胸元――左の膨らみに近い箇所へ唇を落とした。
「……ゃっ!」
鼻にかかった声が出てしまい、慌てて唇を噛み締める。自分の胸元へ顔を埋めるレヴィリウスの銀髪が、ひどくいやらしいもののように思えて羞恥に頬が赤く染まった。
拒絶するほど時間は長くなく、ルシェラが叫び出す前にレヴィリウスが離れて行く。じんと痺れる刺激に目を落とすと、白い肌を穢すように赤い薔薇の痣が左の胸元に浮き出ていた。
「な……何、これっ」
「君に私の印を付けさせてもらいました。これで君のそばへ行くことが出来ます」
「印って……こんな」
「おや? もっと激しいものがお好みでしたか?」
間近に煌めく菫色の瞳が、妖しい熱を孕んで揺れ動く。口角を舐める赤い舌先ですら蠱惑的だ。
少しでも気を抜けば一気に囚われてしまいそうなほど、危険と紙一重の妖艶な魅力。纏う雰囲気は紳士的で穏やかなのに、時々見え隠れする濃厚な色気はいとも簡単にルシェラを捕らえ翻弄する。
それでも必死に自分を奮い立たせて精一杯の拒絶を示すと、レヴィリウスの体は思っていたよりも簡単に離れて行った。
「ルシェラ、一つ気をつけて下さい」
それまでの誘うような雰囲気を瞬時に消して、レヴィリウスが真剣な眼差しでルシェラを見つめた。
「シャドウにとって、君の血肉は他の人間よりもはるかに別格です。芳醇な香りを放つ血の匂いを嗅げば、今度はその肉を味わいたいと執拗に追ってくる。だから――」
言葉を切って、レヴィリウスがルシェラの左頬を指先でゆっくりとなぞる。
「君は傷を負ってはいけない。その血の一滴、髪の一本さえも渡しては駄目だ」
――なぜなら、君はもう私のものなのだから。
間近に重なる菫色の瞳が、暗にそう告げたような気がした。
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