第2話 毒なんか入ってないから安心しな

 何か柔らかいものがルシェラの頬を押していた。ぐいぐいと遠慮なく押し付ける合間に、すぐ近くで誰のものかも分からない声がする。


「ホント良く寝てんな、コイツ。全然起きやしねぇの」

「シャドウに襲われた挙げ句、ここへ迷い込んだんです。人が抱え込める以上の精神的負荷がかかってもおかしくありませんからね」

「とか言って、ホントはもう印付けてたりしてな?」

「まさか。彼女の同意なしに、そんな卑劣な真似はしませんよ」


 頬を押していたそれが襟元に触れ、くすぐったさにルシェラが身じろぎした。意識がぼんやりと浮上する中、近くに聞こえている声は男のものだと判断出来た。そのうちのひとつが、やけに近い。かと思うと鎖骨に湿った何かが押し当てられ、その感触に驚いたルシェラの意識が完全に覚醒した。


「……っ!」


 ぱっと開いた目の前に、一匹の黒猫がいた。ルシェラの胸元に埋めていた顔を上げ、一瞬だけ驚いたように金色の瞳を丸くする。


「あ、起きた……って、おわぁ!」

「ネフィ。近寄りすぎです」


 黒猫が更に顔を寄せようとしたところで、別の誰かに脇を抱えられてルシェラの上から引き剥がされていく。その様子を横になったまま見上げていたルシェラの困惑をよそに、猫を抱き上げた銀髪の男が長身を少し屈めて薄く笑った。


「気分はいかがですか? 起き上がれるようなら、温かいハーブティーでもお持ちしましょう」

「ここは……それに、あなたさっきのっ!」


 次第によみがえってくる記憶に、ルシェラが慌てて起き上がると自身の左頬に手を当てた。

 頬をなぞる指先の下、痛みもなければ傷跡もない。けれど視界の隅に映る胸元が白いブラウスを真紅に汚し、あれが夢ではなかったと無言で告げていた。


 夕闇迫る路地裏で、異形の犬と鉢合わせたことも。

 襲われたルシェラを助けてくれたのが、目の前の男だということも。

 そしてその男に、首筋から頬の傷までを艶めかしく舐め上げられたことも全部現実だと理解した途端、意図せずルシェラの頬が紅潮した。その様子を目にした男が、面白そうに菫色の瞳を細めてふっとかすかに笑う。


「驚かせてしまったようですみません。シャドウ狩りの後はどうにも理性が抑えきれなくて」


 血の味を思い出すように、男が唇をぺろりと舐める。何だか見てはいけないものを見てしまったような気がして、ルシェラが慌てて視線を逸らした。


「お茶を用意しますので、少しの間ネフィをよろしくお願いします」


 顔を上げた視界が黒に染められ、柔らかな腹部がルシェラの鼻をくすぐった。おずおずと黒猫を受け取った際にかすかに触れた指先が、再びルシェラの鼓動を小さく高鳴らせてしまう。それを悟られないようにぎゅっと黒猫を抱きしめると、腕の中で「ぐぇっ」と潰れた悲鳴が聞こえた。



 ***



 テーブルに置かれたお茶は、ルシェラが好んで飲むメリダルのハーブティーだった。ルシェラの瞳と同じ薄桃色のお茶が、上品な花模様の描かれたカップの中で揺れている。

 テーブルを挟んで座る二人。ネフィと呼ばれた黒猫はルシェラの膝の上に陣取ったまま、気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。


「まずは自己紹介をしましょうか」


 メリダルのハーブティーを一口飲んで、銀髪の男が穏やかに笑う。


「私はレヴィリウス=グレイスタ。どうぞ、レヴィンと呼んで下さい」


 レヴィリウスと名乗った男が、自身の胸に手を当てて小さく首を傾げた。そのしなやかな手を見ながら美しい指だと惚けたまま、ルシェラは自分も名乗るべきかどうか束の間逡巡する。けれど……。


「ルシェラ=メイヴェン。君の名はもう伺っていますよ」


 ルシェラの名は、レヴィリウスの形の良い唇から零れ落ちてしまった。

 ぎくんと震えるルシェラをよそに、レヴィリウスはテーブルに置いていたカップを手に取って再びお茶に口を付ける。ゆっくりと時間をかけてお茶を飲むレヴィリウスを窺うように見つめながら、ルシェラはこのわけの分からない状況にただ戸惑い不安になるばかりだ。


 異形の犬を狩った時の、細く大きな黒い鎌。

 人の気配のまるでない、闇に包まれた街。

 人語を喋る黒猫と、魅入られそうなほどに美しい銀髪の男レヴィリウス。


 違う世界に迷い込んだ事実は目の前にあるのに、それを消化するだけの時間がルシェラにはまだ足りなかった。


「とりあえず、茶でも飲んだらどうだ? お前の好きなやつなんだろ」


 声の出所へ目を落とすと、膝の上でこちらを見上げる金色の瞳と目が合った。口角を上げてニヤリと笑うその顔は、もう人間そのものだ。


「お前のために、レヴィンがわざわざ用意したものだ。毒なんか入ってないから安心しな」


 自分のためにと言われれば無下に断るわけにもいかず、薄桃色のお茶を注いだカップをゆっくりと手に取った。ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りに、ルシェラの心が少しだけ解れていく。一口飲むと肩に入っていた力がふっと抜けていくのを感じ、表情までもが柔らかく緩んだ。


「……おいしい」

「それは良かった。喜んで頂けて何よりです」


 そう言ったレヴィリウスの表情がホッとしたように綻ぶのを見て、ルシェラは少しだけ照れくさい気持ちを感じながら再びカップに口を付けた。




「あの……。助けてくれて、ありがとうございます」


 お茶のおかげで随分と緊張が解れたのだろう。状況は未だよく理解できないが、自分を助けてくれたレヴィリウスに対して礼を言えるくらいには落ち着きを取り戻している。

 静かにカップを置き、丁寧に頭を下げた向こうで、レヴィリウスがかすかに笑う気配がした。


「君は……」


 一呼吸置いた間に顔を上げると、レヴィリウスの菫色の瞳が優しげに揺れていた。


「聞きたいことは山ほどあるだろうに、最初に口にするのが私への礼とはね」

「でも、本当に危ないところだったから……」

「シャドウを見たのは初めてですか?」


 あの異形の黒い犬のことをそう呼ぶのだろう。話の流れからそれを悟ったルシェラが、こくりと頷いて肯定した。


「あの犬のような影は……一体何なんですか?」

「それを語る前にまず、この街のことを話しましょうか」


 長い話になる、と言わんばかりに、レヴィリウスが背もたれに体を預けて足を組む。ルシェラも姿勢を正すと、そのかすかな動きに膝の上のネフィが驚いて床に飛び退いてしまった。


「この街の名はダークベル。決して朝の来ない、闇の街です。君の住む花の都リトベルの、影の街でもある」

「リトベルの……影?」

「そう。ルシェラ、君はリトベルの歴史についてどれ位のことを知っていますか?」


 ルシェラの住む、花の都リトベル。

 一年中色鮮やかな季節の花が咲き乱れる街は、この闇に包まれたダークベルとは正反対の生命力と光に満ち溢れた美しい場所だ。

 昔からこの街に住んでいるルシェラが知っていることと言えば、子供の頃より聞かされてきた歴史と言うよりは神話に近い話しか思い浮かばない。


 遙か昔、この地で神々と悪魔との戦いがあったこと。

 神々の使いとして力を受け継ぐ聖女が誕生し、見事悪魔の軍勢を撃退したこと。

 それ故にリトベルは聖女信仰が強く根付いており、街の北側には聖女を崇めるフォルセリア神殿がある。


「おおよそはその見解で間違いありません」


 ルシェラが知る限りの神話を、レヴィリウスが微笑を湛えたまま肯定する。


「悪魔は混沌の闇から生まれる。混沌の闇は人の憎悪や嫉妬と言った負の感情を餌に増殖する。戦いは聖女誕生によって神々の優勢でしたが、それでも全ての悪魔を排除するには至らなかった。そこで神々は悪魔を封じ込めることにしたのです」


 菫色の瞳が、妖しげに揺れた。


「――この闇の街ダークベルへ、ね」

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