第3話 お互いの存在

「百合亜ー! 朝ごはん出来たよー。」

「はーい、今行くー。」

 百合亜の家に慌ただしくも楽しげな、いつもの朝の声が響く。

 ヒロは毎日朝食を用意する。

 2人は食卓に向かい合って座り、百合亜の出勤時間まで楽しく時間を過ごす。

「じゃあ、行って来るね。」

「行ってらっしゃい!」

 家を出る百合亜をヒロは笑顔で送り出した。


 そう、あれから1年が過ぎたのだ。

 百合亜の家にはヒロがいる。

 情緒不安定だったヒロをそのまま警察や病院に連れて行く事は出来ず、百合亜は自分の家でしばらく様子を見る事にした。

 3日もするとヒロの心は落ち着きを取り戻したが、相変わらず記憶は戻らない。

 百合亜は悩んだ。

 数日でも一緒に過ごすと情が移る。

 冷えた家の中に自分以外の人がいる事に、少なからず安心感を抱いていた。

 しかし、素性の知れない少年は今にも消えてしまいそうで、警察はもちろん友人にも相談出来ずにいた。

 ―――もう少し、もう少しだけ。せめて記憶が戻るまでは・・・。

 そうしてずるずると1年も過ぎてしまった。

 もちろん記憶は戻らない・・・。

 ヒロは身元がわかりそうな物はなにも持っていなかった。

 唯一持ち物らしい持ち物といえば、どろどろになって壊れかけた腕時計。

 時刻は汚れでほとんど見えない状態。時々ピカッと液晶が光るだけ。

 そんな使い物にならない腕時計だったが、ヒロは外そうとしなかった。

 ヒロは外に出たがらなかった。しかしとても器用だったので、家の事は全てやってくれた。

 いつしか2人は想い合うようになり、お互いをかけがえのない存在と認識していた・・・。


 家を出た百合亜は駅までのいつもの道を歩いていた。 時折、買い物メモを確認する為にスマホの画面を覗きながら。

 その時、前から走ってきた小さな子供とぶつかりそうになり、避けようとした百合亜はバランスを崩して車道に足を踏み出した。

 一歩、二歩・・・。

 突然目の前にバイクが現れた。運転手と目が合い、時がスローモーションで動く。

「百合亜!!」

 声がして、腕を掴まれて、体が歩道に投げ出された。

 百合亜と入れ替わるように車道に飛び出した少年。そして避けきれなかったバイクとぶつかる・・・!

「・・・ヒロ?」

 頭から血を流し倒れる少年、それはヒロだった。

 百合亜は這うようにヒロに近付くと、ヒロはうっすらと目を開けた。

「百合亜、無事? よかった・・・」

 ヒロは安心したように静かに微笑むと、また瞳を閉じた。

「・・・ヒロ? やだ、どうして・・・? ヒロ。ヒロ。ヒロ!」

 周りに人が集まって来た。誰かが何かを言いながら百合亜の肩に触れた。

「いやっ!!」

 百合亜は怯えた顔でその手を振り払った。

 ―――こわい、こわい、こわい!

 何が怖いのか分からなかったが、恐怖心で気が狂いそうだった。

 近くにヒロの腕時計が落ちていた。

 百合亜は慌ててそれを拾うと、その場から逃げ出した!


 ―――ヒロが! ヒロが!! そんなはずはないっ!!!


 家の近くの河原まで走って、百合亜はそこで立ち止まった。とにかく家に帰らなければと走って来たが、ここで足がすくんだ。

 ―――家に行ってどうするの? ヒロはどうなるの?

 不安で、不安で、涙がぼろぼろと落ちてゆく・・・。

 そこから一歩も動けない。

 ・・・・・・。

 どれだけの時間そこにいたのだろう? 一瞬にも永遠にも感じられる時間だった。

「百合亜?」

 ふと後ろから声を掛けられる。

 百合亜はゆっくりと振り向いた。

「・・・ヒロ?」

「家の窓から百合亜が見えたから・・・。泣いてるの? 何があったの?」

 ヒロが優しく語り掛ける。

 百合亜は目を疑った。

「・・・ヒロなの? 本物?」

「うん、僕だけど。・・・どうしたの?」

「よかった・・・!」

 百合亜はヒロに抱きついた。

 ヒロはそっと百合亜の背中を撫でる。

「どうしたの? 何があったの?」

「今ね、ヒロが私をかばってバイクにひかれたかと思ったの。」

「え? どういう事?」

「駅の近くでね、ヒロ、血だらけで倒れて、死んじゃったかと思った。でも、違ったんだね。よかった!」

 ヒロは優しく百合亜を撫でながらくすりと笑った。

「僕が? 僕はずっと家にいたよ?」

「そうだよね。私、何勘違いしたんだろう? でも怖かった。血がたくさん出て、ヒロの腕時計が・・・。」

 そこまで言って百合亜は安心しかけた顔に緊張を走らせた。

 握っていた手のひらを広げると、ヒロの時計がある。

 目の前のヒロの腕にも、時計がある。

 ―――これは、何?

 ヒロの顔が青ざめていく・・・。

「僕、行かなくちゃ・・・。」

 ヒロはそっと百合亜から手を離す。

「ごめんね、百合亜。ありがとう。君は生きてね。」

 ヒロは少し悲しそうに微笑んで、百合亜の唇にそっとキスを落とす。

「・・・大好きだよ。」

 ヒロは走り去った。

 百合亜は訳が分からず、ただ黙って立ち尽くした。

 そして、ヒロは、

 戻って来る事はなかった・・・。


 百合亜は家を出た。

 最愛の両親を亡くし、更にはヒロをも失ったその家には、いたくなかった。

 きっとその頃には、百合亜の心は少し、壊れていたのかも知れない・・・。

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