第2話

 天安二年――あれから十八年たっている。三十四歳の業平は簀子すのこ勾欄こうらんにもたれて座り、雨の中の自邸の庭を見ていた。

 この年は明けてから、ずっと天候不順であった。夏になっても雨が続き、そのまま五月雨の季節になってしまった。更衣ころもがえも過ぎたというのに、寒さを覚える日すらある。

 業平はふと、ため息をついた。目の前では幾筋もの銀色の糸が後から後から庭をうがち、もともと池などという気の利いたものはない庭のあちこちに小さな泥水の池を作っている。

 どうしてあんな昔のことを、ふと思い出してしまったのか――雨のせいだと、彼は思った。かれこれ十八年も前の春日野の風景が、もはや若いとはいえない彼の頭によみがえったのは、雨のせいかもしれない。何の脈絡もない頭の中の自問自答の言い訳に、思わず業平は苦笑した。

 それにしても、なぜあの頃はあんなにも一途になれたのかと思う。もう、あの頃のようにはなれない。まだ老人になったわけではなく、男盛りではある。しかし、もう若者ではないという現実も彼の上にのしかかる。

 春日野の女とは、結局あれから何の進展もなかった。すぐに彼は右近将監の官職を得たが、しばらくはあの女が気になって仕事も手につかなかったものだ。そして遠い昔に忘れ去っていたはずのあの面影を、今日前ぶれもなく突然彼は思い出したのだ。

 最近は妻の元へほとんど通っていない。今は子もある身だが、子は妻とともに紀家にいるので、自分が父親であるという実感は彼にはほとんどなかった。

 そして幼馴染みであった妻も、今ではどうしようもなく中年女だ。まだ男としての欲望は残っていても、中年の妻には食指が動かない。だから退屈しのぎに、こうして一人で雨の庭を眺めて時を過ごしている。

 そしてまたひとつため息。

 いくらため息をついても、若者だった年月は戻らない。家司けいしや女房などでも十代の若者を見ると、羨望感がわいて仕様がない。彼らの世界に入り込みたいと思う。しかし、心は別としても、肉体的年齢がそれを阻む。それが羨望となるのだ。

左馬頭さまのかみ殿、渡らせ給う!」

 今では家司けいしとなっているかつての真緒――忠親が、大声で歌い上げる。

「兄上が来る?……」

 業平はふと顔を曇らせた。苦手な相手だ。それでも仕方なく、立ち上がって南面の方へと出ざるを得なかった。雨でも日没を示すがごとく、空は暗さを増す頃であった。


 兄の左馬頭行平は七歳年長で、昨年四十の大台に乗った。母は違うが、ともに在原の姓を賜った兄弟として、同母兄弟のように行き来している。

「どうした、業平。評判が悪いぞ」

 入ってくるや、開口一番こうだ。だから苦手なのである。

「近衛府にも、蔵人としても宮中には顔を出していないそうじゃないか。しかも、理由は触穢、物忌ものいみの繰り返しだそうな。そうそう触穢があるものか」

 ゆっくりと兄は、業平の前に座った。小言はまだ続く。

「しかもこの頃は、届けもない無断での欠勤も重なっているというではないか。俺の立場も考えてくれ。今日も枇杷殿の蔵人に意見されたぞ」

「枇杷の蔵人? あの若僧が……」

 床板を見ながらつぶやくように言い捨てると、業平はため息とともに黙した。そしてまた、雨の滴る庭先へと目を移した。

「業平。聞いておるのか? なぜ毎日引きこもっておる」

「雨ですからね」

「そのようなこと、理由になるかっ!」

 ついに行平は、語気を荒くした。

「そんなことで、枇杷殿に言い訳できると思っているのか」

兄者あにじゃ

 ついに業平は開き直って、兄の方を向いて座り直した。

「兄者は、あんな若僧が恐いのですか」

「そのようなことを言っているのではない。自分の将来のことを考えろと言っているんだ。枇杷殿のご機嫌を損ねたらどうなるか。いいか、枇杷殿は今や太政だいじょう大臣殿の御養子だぞ」

 業平の同僚である枇杷殿の蔵人基経は、一昨年にその父長良ながらを亡くしていた。その時長良は五十二歳、結局は権中納言で終わった。

 そしてその兄、すなわち基経にとって伯父に当たるのが、今の太政大臣良房だ。良房には男児がなく、基経とその兄の国経を今ではともに養子として迎えていた。

 だから行平は、わずか二十三歳の蔵人の顔色をうかがっているのだ。

「かの一族には、できるだけ取り入っておくことだ」

「ばかばかしい」

 業平は鼻で笑った。

「ばかばかしいとは何だっ!」

「兄者は、そんなに出世がしたいのですか」

「この身の出世ばかり考えているわけではない。いずれ在原一族の栄える日のことを……」

「ふん」

 もう一度業平は鼻を鳴らした。片や二十三歳で蔵人、その父は人臣としては最高位の太政大臣、それに引き替え兄は四十を過ぎたのにいまだに左馬頭である。

 そのことを言おうとしたが、やめた。できれば早くこの兄という口やかましい嵐には退散してほしかった。

「私にはそんな野望はありませんからね」

 そういう業平の目は、再び庭先を見ていた。部屋の中ももうすっかり暗くなり始めている。

「出世なんてばかばかしい。おおやけのために身を粉にして働くなんて、そんな自分というものを持たない生活は、犬や猫と変わらないじゃないですか。仕事に命をかけるやつなんて馬鹿だ。朝服? 笏? 見ただけで虫唾が走りますよ。そんなものに縛られて一生を終えるなんて、たとえ大臣になったとてくだらない人生ですね。ああ、くだらない、くだらない!」

「おまえは、若い頃からそうだったが、ちっとも変わってないな。いいかげんに歳を考えろ、年を! もう三十五だろう」

「まだ、四ですよ」

「どっちにしろ、いいかげんまじめに人生を考えろと言っているんだ。もっと生活を、ちゃんとしたらどうなんだ」

「私はいつだってまじめですよ。歳、歳って言いますけどね。好きで、なりたくてこの歳になったわけじゃないんだ。年齢なんてただの数字でしょ。私はまだ自分が十七歳だと思っていますよ。永遠に十七歳です」

「いくら気持ちがそうでも、肉体的にはそうはいかんだろう。それでは世間で通用しない」

「ふん、世間なんかくそ食らえ」

 そして兄から目を外し、相変わらず空から垂れ下がっている銀の糸の一本一本を業平は見ていた。しかしそれは、夕闇に包まれてはっきりとは見えなくなっていた。

 兄はまだ何かをごたごたと言っている。だがもう、業平の耳には入っていなかった。業平はつぶやいた。

「おみなえし……おみなえし……、ながめ暮らして……」

「聞いているのかっ!」

 我に返ると、兄は顔を赤くしていた。業平は、顔を曇らせた。

「聞いてません! ああ、せっかく歌が浮かんでいたのに」

「歌だとォ!?」

「私はね、歌を詠むために生まれてきたんですよ。くだらない宮仕えなんて、ごめんなんです」

「歌だったら俺だって詠む。でも、仕事をきちんとした上での話だ。亡くなった父上に、これでは申し訳が立たないではないか!」

 兄は無視して業平は懐紙を取り出し、心に浮かんだ歌を書き付けていた。

「話にならん」

 ついに行平は立ち上がった。やっと嵐が去っていってくれるようだ。行平の見送りに、家司が何人か立っていった。業平はそのままで、薄暗くなりつつある雨の庭を、また簀子まで出て座り見つめていた。

 兄の口からは、父の名が出た。父に申し訳ないと兄は言った。だがそれは、かえって行平の思惑とは逆の結果となった。

「父か……」

 父が死んでから、もう十五年近くたつ。今ではもう死んだ人だからと昔ほどの憎悪は感じていないが、業平が若かった頃、すなわち父の在世中には業平は父を軽蔑していた。

 父は親王であった。その父は、業平たちを王で終わらせずに手腕次第でいくらでも出世できる臣下に降すため上表してくれた。だがその父自身は、自らの出世のために道をはずした。

 今の帝の立太子のいきさつの陰には、どす黒い陰謀と策略があった。

 その当時御在位中だった先帝の仁明帝はすでに恒貞親王を皇太子に立てておられたが、嵯峨院が崩御されるや否や恒貞親王の懇意の伴健岑とものこわみね橘逸勢たちばなのはやなりらが流され、恒貞親王も廃太子となった。そして今の帝が立坊されたのである。

 そしてその事件の黒幕――すなわち伴健岑と橘逸勢に叛意ありと密告したのが、ほかならぬ行平と業平の父、阿保あぼ親王だったのだ。

 世にいう「承和じょうわの変」である。

 父が死んだのは、その同じ年だった。

 業平の父はそんな人だった。出世のためなら何でもする。しかし、出世の前に父は死んだ。

 くだらない人生を送ったものだと、業平は父のことをそう思った。

父は阿保親王というよりアホ親王だ……さすがに口にこそ出して言わないけれど、業平は内心そう思っていた。

 そして今、兄は父の歩んだ道と同じ道を歩もうとしている。くだらなさでへどが出そうだ。

 そして、業平の祖父が祖父である。

 祖父は帝であった。

 業平はいわば皇孫で、本来ならもとより臣下である太政大臣家よりも血筋の点では上である。だが、その祖父の帝がまずい。

 業平の祖父帝は弟の嵯峨院に譲位したあと、奈良旧都で朝廷に反旗を翻そうとした。自らの復位と平安京を廃して奈良還都を狙ったのである。俗に「薬子くすこの乱」と呼ばれるこの事件は、実質上は業平の祖父である「平城へいぜい上皇の乱」なのだ。

 反乱軍が坂上田邑麻呂によって鎮圧され、自害した藤原薬子が首謀者ということになって乱は終息し、業平の祖父の帝は出家入道して隠遁した。そして業平の生まれる前の年に崩御している。

 業平とその兄弟たちはそんな祖父帝の皇孫だから、在原一族にとってはかえってそれが劣等感になっている。

 そのせいか、兄も四十を過ぎてまだ左馬頭どまりだ。

 しかし、業平にはそれが愉快であった。この時もそれを思い出し、薄ら笑いさえ浮かべていた。

 庭はもうすっかり暗くなっている。明日この雨がやんだら、長岡の里を訪ねてみようかとも業平は思った。そこには実の母がいる。

 母は実は父の叔母で、つまり平城上皇の年の離れた妹なのである。父は自分より年下の叔母を妻にしたのであった。

 母は大好きだ。業平に兄弟は五人いても、母にとっては業平は一人息子だ。

 大好きな母だが、業平が少しでも父や祖父の悪口を言おうものなら、目くじらを立てて叱りとばされる。そんなときだけ業平は母に、道理に縛られた分からず屋の女を感じたりもする。でも大好きなのだ。

 とにかく雨がやんだら、久々に母の顔が見たいともう一度業平が思った時、家司がやってきて格子を下ろすという。

 そこで仕方なく、業平は中へ入った。

 雨は一向にやみそうもなかった。

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