在五中将記 ~新・伊勢物語~

John B. Rabitan

第1部 若 草

第1章 初 冠(ういこうぶり)

第1話

 春日野は全体が、明るい陽射しの中にあった。

「若、若。いかがされました!?」

 背後から乳兄弟めのとご真緒まおが声をかける。伸びはじめた草の間に身をかがめていた業平少年は、慌ててシーッと真緒を制した。そして再び、緊張に身を包まれる。

 業平少年には、生まれて初めて体験する衝撃が走っていた。全身が硬直する。なんという衝撃であろうか。寺という寺の鐘が、心の中で一斉に打ち鳴らされたような感覚ともいえる。

 背をかがめたまま息を押し殺して、草をかき分けつつ少年はゆっくり前進する。その若紫色の狩衣かりぎぬの袖を、真緒がつかんだ。

「なりませぬ。ここから先は左大臣家の禁域」

 真緒は紀家の傍流で、すでに元服して忠親という名を持っていたが、業平は今でも真緒と呼んでいた。その真緒が言った左大臣は藤氏の式家の緒嗣である。

 だが、禁域というならここが左大臣家の禁域であるということにとどまらず、このあたり一体がすべて藤氏の氏神うじがみの春日大社の禁園ということになる。そのような所にいる高貴な身分の二人の姫君とは……。

 業平はさらに歩を進めた。閃光を発していた姫たちは、気配に気づいたのか若菜を摘む手を止めた。業平も足を止めて息を殺す。

 すると姫君たちは二人で何かささやき合っていたが、やがて陽光に包まれた野を後にして去っていった。業平は追おうとしたが、しっかり狩衣の袖を真緒に押さえられている。

 春日山は何ごともなかったように、そんな盆地を見下ろしていた。


 夜のとばりの中で狩りの野営の焚き火に顔を照らされ、業平はため息をついた。

 ほかの従者たちは皆幕屋で眠りについており、隣には真緒がいるだけだった。

「誰なんだ、あの姫は……」

 業平は腕をまくった。そこには筋肉の盛り上がりがあった。

 業平は少年とはいっても、大人の仲間入りをしたばかりだ。十六歳で元服し、今日は元服に当たっての記念の春日野での狩りだった。

「恐らくは……」

 その先の言葉を、真緒は呑み込んだ。業平は焦れた様子で、真おににじり寄る。

「恐らくは?」

「若には手の届かぬお方かと……」

「ばかな!」

 業平は立ち上がった。

「あの姫のことを調べてくれ」

 真緒は困った顔をした。なにしろ業平は世間知らずなのだ。何といっても帝の御孫である。父は親王で、母は内親王だ。いわゆる深窓の令息として育ってきている。

 この狩りがいわば生まれて初めての単独の外出で、そこで今まで決して直接見ることはなかった貴種の姫君の素顔を彼は初めて見てしまった。

 真緒からの返事はなく、ただ困りきった様子だけが見えた。

 真緒は業平と同じ年齢ではあっても、高貴な出ではない。だから若い女の素顔など見慣れているらしく、業平のような衝撃は受けてはいないようだ。

 業平は真緒の返事がないのにじれて、またもとの位置に座った。そして目を閉じて昼間の光景をまぶたの裏に再現する。春の陽射しと輝く野、柔らかな緑の春日山――背景の舞台装置はそろっていた。

 姫君は二人いた。どうやら姉妹のようだ。妹はまだ幼く、業平の気を引いたのは姉の方だった。自分とほぼ同じ年恰好の十五、六歳の娘で、しかも貴種――業平がこれまで接したこともない人種だ。ただし、唯一の例外を除いては……。

「若。いけませんよ。北の方をもらったばかりで」

 真緒が言うのももっともだ。事実、業平は元服と同時に妻を迎えていた。唯一の例外とは、ほかならぬその妻だ。

「あいつは風みたいなものよ。物心つかぬ幼い頃から、一緒に遊んできたのだからな」

 元服と同時に娶る妻とは添伏そえぶしと言って、ほとんどは親が決めた形式上の妻である。ただし彼の場合その添伏は、幼馴染みだった。家が隣同士で、よく垣根を越えて井戸の周りで遊んだものだった。

 もちろん幼い子供のことである。異性などということは意識しておらず、何のこだわりの心もなかった。幼いながらも将来はこの人と夫婦めおとになるのかなと漠然と業平は考えていたし、相手もそう思っているようだった。

 ところがいざそれが実現しても、何か実感がなかった。一度も胸を焦がすような恋心もなく、胸のときめきも体験せずに結ばれてしまったのである。

 結ばれたといっても、三日通いの夜も妙な照れが互いにあった。乳母めのとからどうすべきか教えられてはいたが、二人の心は幼い頃に井戸の周りで遊んだ時の心そのままで、要は二人ともまだ大人になりきっていなかったのである。

 それでも業平の、少なくとも身体は十分男として目覚めていたが、完璧に長年自分の一部であったかのような新妻に男の欲望をぶつけるにはためらいがあったし、いざ教えられたようにことを起こそうとしても相手は笑いこけ、自分も照れのために笑ってしまってことにならない。

 結局、二人は幼友達のまま、手を取り合って寝ただけだった。

 その欲望が、ここで爆発した。欲望というより、これが彼の初恋かもしれない。大人になって初めて接した大人の女に、彼は胸の衝撃を覚えたのである。


 翌日も快晴だった。

 野は広い。ほんの五十年程前まで、ここが都だったのである。

 時に承和七年、この都を捨てて長岡京に遷都してから五十年以上たっているし、業平の住む今の都への平安建都からも四十数年がたった。

 だが、若い彼にとっては四十年という歳月は悠久の昔のように感じられる。

 実際、ここがかつては都だったといっても、今は見事に何もない。大路小路が縦横していたはずの都城はもとの原野に戻り、そこで今彼は狩りをしているのである。

 所々に耕地もあった。都市としてかろうじて機能しているのは、かつては都の東のはずれの外京だった東大寺の門前くらいだ。見わたせば置き去りにされた大寺の伽藍が点在し、それだけがこの地がかつて都だったことの証のようだ。

 平城へいぜい宮は完全な廃墟と化している。そしてそこは、業平は直接は知らないにせよ、彼にとっては忌まわしい廃墟であるはずだ。

 ところが今の業平にとってそのようなことも、そして目的である狩りにさえも身が入らなかった。目は春日山の山麓に釘付けだし、足も知らず知らずのうちにとそちらへと向かってしまう。あとには真緒だけが従っている。草をかき分けて進む目標は、東大寺大仏殿の大屋根だ。

「若! 若!」

 背後から真緒が何度もたしなめるが、業平は構いはしない。時刻も昨日と同じ頃である。

 果たして昨日の姫は、今日も同じ場所にいた。業平の足はすくんだ。高貴な姫の顔を、遠目とはいえこんな風に直接じかに見ることができるとは、都では考えられないことだ。禁忌を犯しているという快感に、業平の全身は震えた。

「今日こそは、声をかけるぞ」

「なりませぬ!」

 袖をつかむ真緒は半べそ状態で、その諫言は懇願にも似ていた。

「春日の大社おおやしろに仕える女でしょう。恐らくは藤氏の御息女かと。そうなれば、皇家おうけの伊勢の斎宮にも当たるようなお方ですぞ」

 その言葉は、ますます業平の胸の動悸を高くしてしまった。そうなったら禁忌中の禁忌ではないか。戦慄とともに闘志すらわく。

「若! まさか、あの姫を……」

「いや」

 そこまでは、業平は考えていない。考えるには若すぎた。とにかく今は、一途で無鉄砲なだけである。あとのことなど考える余裕などなく、情熱のままに突き進むしかない。

「歌を贈るぞ。届けてくれ」

 その道に関しては、業平は天才的といえるほどの才能を持っている。

 歌は瞬時にできていた。

 

  春日野の 若紫の すりごろも

    しのぶの乱れ 限り知られず


 狩りの出先で、紙はない。紙はまだまだ貴重品だ。そこで業平は自分の狩衣の袖をちぎって、そこに歌を書き付けた。あとはどうやって届けるかだ。当然それを依頼された真緒は、迷惑そうにしり込みをした。

「頼む!」

 業平は手を擦り合わさんばかりで、ついにそれに真緒は負けた。

 真緒が戻ってくるまで業平は草の中に座り、全身を投げ出して転がりまわりたい衝動を必死で抑えていた。胸の中に熱いかたまりが生じて、息が詰まりそうだ。居ても立ってもいられない。目を閉じても、あの笑顔が頭の中にこびりついて離れない。

 真緒が戻ってきた。

「どうだった?」

「はい、歌は侍女に渡してきました」

「侍女に? どうしてあの娘に渡さなかったんだ」

 とんでもないというしぐさを、真緒はした。

「で、返事は?」

「ございません」

 真緒の言葉は、まるで剣のように業平の心を刺した。しかし、さもありなんとも思う。所詮、世の中こんなものだ。

「ご苦労」

 と、だけ業平は、真緒に言った。真緒は静かに、首を横に振った。

「若の手の届く御方ではありません」

 それも、もっともだった。

 翌日は都に帰る日だ。業平は後ろ髪を引かれる思いだった。宿世があればと思う。都へ戻れば、妻のいる紀家の本家へ出向かねばならない。出向くといっても、家は隣である。

 業平は暗くなってから徒歩で、幼い頃よくこえた垣根を越えて、庭から隣家に入った。ますは舅の紀有常に挨拶を述べた後、妻のいる対の屋に渡った。対の屋といっても離れといったほうがふさわしい粗末なもので、「お帰りなさいませ」といって迎える侍女も、老婆が二人いるだけだった。

 ぎこちない手の妻の酌で、業平は酒を飲んだ。飲みながらもなぜか、心は春日野にあった。そんな後ろめたさを覆い隠すためか、あるいは発憤させるためか、そのあとで業平は激しく妻を抱いた。

 初めての実質的な夫婦関係だった。幼い頃からよく知っているはずの心と、全く初めて出会ったような見知らぬ体が同時に腕の中にあった。

 最初は戯れだと思って笑っていた妻も、業平が力をこめて押さえこみ、行為に入ろうとすると激しく抵抗した。それでも、業平の力にはかなわなかった。

 妻はもう照れどころではなく、恥じらいで身を硬くしていた。ほとんど強姦に近かった。

 業平も何をどうしたらいいのかはっきりとは分からなかったのだが、とにかく男としての欲望のままに突き進んだ。妻の足を開き、その根元をまさぐる。なぜここはこんなに濡れているのかと、不思議だった。業平自身、もう十分に変化している。とにかくそれをあてがった。

 そして二人は結ばれた。妻は痛がった。業平は荒い息をしながら、妻の頭の髪をほおに当て、その両肩を抱いた。

 そして、目をつぶった。今、妻の体を抱いている。すべてが自分の腕の中にある。だが目を閉じると体の感触のみがそこにあって、自由な空想の世界に入ることができる。

 今、肌が密着して自分と一体になっているのは、春日野の女なのだと空想した。抱いている体は妻であっても、業平が心の中で抱いているのは春日野の女の面影だった。体の快感の方は、とにかく夢中でよく分からなかったというのが正直なところであった。

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