第2章 筒井筒(つついつつ)

第1話

 ついに鴨川が氾濫した。

 いくら五月雨の季節はいえ、大雨が十日近くも降り続いたのである。氾濫は鴨川ばかりでなく洛西の桂川にも及び、京中の大路小路がそのまま川となった。洪水は鴨川のすべての仮設の橋を流し、宮中をも容赦なく襲った。貴人の邸宅の池の魚が都大路を泳いでいるといったありさまだ。

 業平の邸宅は三条東洞院を上った所、姉小路に南面している。すなわち鴨川の近くだったので、家司けいしたちも不安がっていた。

 それでもこの辺りは土地の高さが高い。これがもし低地の五条以南だったら、避難を余儀なくされたかもしれない。

 池のないはずの業平邸の庭に、勝手に泥の池、いや泥の海ができた。寝殿もひとつだけの対の屋である西ノ対も含めて、屋敷全体が本来はなかったはずの釣殿と化した。

 この洪水によって、なんと溺死者まで出たという。宮中でも大変な騒ぎのはずだから、蔵人である業平は本来なら宮中に詰めていなければならないはずだ。だが、宮中のことなど知ったことではないと、彼はずっと自邸に籠もっていた。

 雨がやんだのは、五月も下旬になってからだった。久しぶりの梅雨の中休みの五月晴れとなったが、まだ洛中の水は引かず、都がその機能を回復するにはまだ時間がかかりそうだった。

 

 晴れたら母を訪ねようと思っていた業平の計画は、当然まだ実現していない。五条以南は川どころか、海になっているという。母のいる長岡も気がかりだった。かつて平城京から今の都に遷る前、しばらくでも都だった土地が長岡だが、なにしろそのときも大洪水で造都が中断されたのだ。

 とりあえず業平は、紀有常邸を訪れた。

 ここよりはずっと北だから土地の高さも高くて大丈夫だろうとは思うが、やはり気がかりだった。

 そこには妻がいる。しかし気がかりだったのは妻ではなくその父、つまり彼の舅の有常だった。業平が心を許している数少ない存在だ。

 この辺りに来ると懐かしい。何しろ生まれ育ち、若者の頃まで住んでいたのがこの辺りなのである。

 業平はまず寝殿へ行った。ここも庭に池などなく、寝殿と業平の妻のいる西ノ対があるだけだ。西ノ対は半分が壁で仕切られ、その向こうには妻の妹がいる。もちろん業平は、その妹の顔など一度も見たことはない。

 四分の一町の敷地の北半分は、家司たちが耕作をする耕地となっている。そして、この邸宅と同じ町の西隣は今は空き家であるが、そここそが業平の生まれ育った家――彼の生母の伊都内親王の旧宅なのだ。

 こちらは二分の一町を占め、内親王邸としてのそれなりの威容はあった。しかし今は主もなく、建物も朽ち果て、庭は雑草が伸び放題で、水の濁った池とほとりの松、そして庭の片隅の古井戸が往時をしのばせるだけであった。

 舅の有常は不在だった。当たり前である。普通の男なら宮中に出仕しているはずの昼前に、業平は訪れたのだ。しかし業平は妻の所へは行かず、寝殿で待たせてもらった。

 程なく舅は戻ってきた。官職は少納言で、あけの官服のまま相好を崩して舅は業平と対座した。

 ちなみに束帯や直衣のうしなどというのはもう少し後の時代で、この頃の官人は唐風の官服であった。

 妻の父は舅といっても、年は業平より十ばかり上なだけだ。妻は業平より五歳下だから、妻は舅が元服そこそこでもうけた娘ということになる。

「いやあ、婿殿。ご無事でしたか」

 この老人は、業平を大切にしていた。気が合うのである。この日もから渡りの酒を披露してくれて、話に花が咲き、そのまま夕暮れとなった。業平はこのまま帰るのもばつが悪く、一応は妻のいる西ノ対に渡った。

「お帰りなさいませ」

 侍女たちが数人、一斉にひれ伏して迎える。業平はそのまま、妻のいる几帳の中に入った。

「ずいぶんごゆっくりのお越しですこと。日の高いうちにおいでになったご様子でしたのに」

 にこりともせず、視線をも合わせないで妻は言う。業平は、そのことを気にもとめなかった。

「茶々丸は?」

 妻はあごで裏庭の方を示した。簀子へ出てみると、息子の茶々丸は家司たちとともに敷地内の畑にいた。

「茶々丸!」

 業平が呼ぶと、茶々丸はこちらへと駆けてきた。業平も庭に下り、息子を抱き上げてほお擦りをした。

「父上、おやめください。赤ん坊ではあるまいし」

「そうか。確かに重くなったな」

 当然で、息子はすでに十歳を過ぎており、もはや幼児ではない。それでも業平は、抱き上げたままだった。

「父上。気持ち悪うございます」

 しかしいつまでも業平にとっては息子は子供なのだ。それだけにかわいくて仕方がない。

 だが、この子のために何かしたいとは、全く思わない。放っておいてもこの子は、紀家がすべての面倒を見て養育してくれる。その費用も紀家持ちだ。

 夕闇はますますその色を濃くし始めた。子の顔も見たことだしと、業平は咳払いをして自分の従者に帰る仕度を始めさせた。

 普通の夫なら今ごろの時分に通ってきて、朝に帰るものである。それなのに業平は、普通の人が来る時間に帰ろうとしている。

 それに対して妻は、何も言わなかった。この頃、妙に気位が高くなっている。その愛情のすべては、今や夫である自分よりも子供に向けられているようだ。ほんの短い間の妻との同座も、話題は茶々丸のことばかりだった。しかもその間、妻はにこりともしなかった。

 やがてその妻のもとから退出して、業平が車に乗りかけた時である。侍女の一人が追ってきて、ふみを差し出した。妻からの文だった。そこには歌が書かれていた。


  天雲あまぐもの 他所よそにも人の なり行くか 

    さすがに目には 見ゆるものから


 まだ妻には、少しでも自分を慕う気持ちがあるのだろうか……なぜなら歌の中で妻は、ほかに女がいるのではないかという。

 たまに通ってきても、世間の男のように泊まらずに夕刻には帰っていくことに、あの気位の高さから少しでも恨みを言おうとしたのか。

 いずれにせよ業平にとっては苦笑でしかなかった。

 返歌は即興でできた。

 

  天雲の 他所にのみして ることは 

    我がる山の 風はやみなり


 風が早いから山の雲を吹き払ってしまう――そのようにあなたのもとは居心地が悪いのだよと、十分に皮肉をこめてやったつもりだ。

 妻はこの歌を見て怒るだろうかと、業平は思った。実際には、妻の歌が言うようなほかに通う女など業平にはいない。妻はいまだに一人だけであるし、妻以外の女と交わったこともない。


 車に乗ってから隣家――かつての自分の家の古井戸が、宵闇の中にかすかに見えた。

 あの周りで幼かった頃、今の妻と遊んだ。あの頃の妻は自分を兄のように慕っていた。まだ乳児だった妻を、業平は戯れに抱っこしたこともある。すべてを互いに知り尽くした状態で、二人は育っていった。

 庭で粗相をして立ちすくみ、泣いていたわらわの業平の姿を、妻の幼い目は見ていた。庭の犬の糞を童女の妻がわけも分からず拾い上げ、母に激しく叱られていたのも業平は覚えている。

 互いの醜い面も互いに何もかも知り尽くしている間柄のまま、自然に幼馴染みだった童女は妻となった。

 

  筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 

    過ぎにけらしな いも見ざるまに


  較べ来し 振分け髪も 肩過ぎぬ

    君ならずして たれか上ぐべき


 互いに情緒を解する年頃になって、二人が交わした歌である。

 求婚とその承諾だ。しかし、だからといって、二人は本物の恋をしていたわけではなく、結婚というものもそもそも分かっていなかった。ただ大人のまねをしての遊びに過ぎなかったのだった。

 そんなことを業平は思い出して、思わず苦笑していた。

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