36bit 湯けむりの中で


 古匠温泉には、目移りしてしまうほど多くの種類の温泉があった。


 テニスコートほどの広さがある大浴場をはじめとして、寝そべることができるジャグジー、肩の凝りをほぐす打たせ湯、身体がポカポカと温まる高濃度炭酸泉、外へ出ると自然に囲まれた野天岩露天風呂がある。


 効能も多種多様であり、女子に嬉しい美肌効果が期待できる温泉もあった。


 温度もぬるめから飛び上がるほど熱いものまでたくさん……。


 「って! 真衣ちゃん、打たせ湯で胡坐をかいて念仏を唱えない!!」

 「英美里! 高濃度炭酸泉をシャンパングラスに入れて飲もうとしない!!」


 糸と雛乃は落ち着いてお湯に浸かることさえままならなかった。


 「これじゃあ、温泉でゆっくりできないよ……」


 思わず糸が嘆く。


 「しょうがない、糸っちは先に入っちゃいな。 その間、私が二人を監視しておくから」


 「雛乃ちゃん……感謝……!!」


 糸は雛乃にお礼を言う。


 とりあえず、景色が良さそうな露天風呂に行ってみよう。


 糸はろくに温まっていない身体を震わせながら外へ出た。


 湯けむりが飄々と漂う中、糸はゆっくりとお湯に身体を沈める。


 「ふにゃぁぁぁ」


 ごくらくごくらく……。 ふえぇぇぇ。


 「糸っち、ふにゃぁ、って笑」


 「ハジメさん!! いつの間に!!」


 糸は緩みきっていた顔を急いで元に戻す。


 「ずっといたよ……。 まぁ、私はメガネを外しているから、声だけで糸っちだと判断したんだけどね」


 とりあえず、緩んだ顔を見られていないだけセーフ……。


 「あ、ハジメさん。 さっき古匠さんと話していたとき、随分慣れた様子だったんですけど、ハジメさんはここの常連なんですか?」


 「そうだよぉ。 温泉に浸かって疲れを取ることも目的だけど、実はりっちゃんに会うことも重要でね」


 古匠律さんと? 会うことが重要?


 「律さんと会うと、なにかあるんですか?」


 「いやね、人生で悩んだり迷ったりしたときに、りっちゃんに話すとなぜか解決するんだよ」


 「本当ですかぁ?」


 どうも嘘をついていそうだったため、糸は疑いの色をつけて訊いた。


 「ほんと、ほんと。 糸も相談してみるといい。 今後、自分だけではどうしようもなくなったときに。 あー熱い熱い。 もーあがろ」


 それだけ言い残すと、ハジメさんは露天風呂から上がり、そそくさと屋内へ入ってしまった。


 古匠律さん、どんな人なんだろう……。


 温泉に肩まで浸かりながら、糸はぼーっと考えてしまう。

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