02 跡取り息子
「息子が帰ってきたようです」
伯爵夫人の
「お母様! そいつらを、いますぐに屋敷から追い出してください」
応接室の扉が乱暴に開かれ、大股で踏み込んできたのは金髪の若い男性だ。細やかな刺繍の施された白い上着を揺らしながら、肩で息をしている。よほど焦っていたのか、態度には微塵の余裕もない。
椅子から腰を上げたロベルタ伯爵夫人が、息子をぴしゃりと
「ペーター! お客人の前で、そのような態度はお止しなさい」
「なにが客人ですか! そいつらは闇祓いでしょう! 怪しげな連中を家に呼び込んで、お母様はどうかされているのです! 呪いなどあるわけがないでしょう。バンシーがなんです。誰も声が聞こえない者はいなかったのでしょう? 一族に危険が及ばないとわかったなら、それでいいではないですか。使用人が心配なら暇を出して、新しい者を雇いましょう」
母の肩に両手を置いて、ウィットフォード家の跡取り息子――ペーターは
「小金目当ての
それを聞いたウルカは、片方の眉を上げて薄く唇の端をつりあげた。仕事をせずに報酬だけ得られるのならば、こんなに楽な仕事はない。帰ろうといわんばかりの彼女を、ユウリスは視線で制した。
「ウルカ」
「依頼主の要望だ、お言葉に甘えるのも礼儀だろう?」
「ユウリス殿、ウルカ殿、どうか息子のご無礼をお許しください」
そう口にしたロベルタ伯爵夫人が不意に腕を振り上げ、ペーターの頬を勢いよく叩いた。続いて息子に向ける声には、底冷えするような怒気を
「いいかげんになさい、ペーター。お二人は、わたくしの客人です。無礼を働くなら、お前こそ屋敷から出て行きなさい」
「お母様……ぼくは、もうすぐウィットフォード家の当主になるのですよ?」
「なんという恥知らずな口を利くのです、下がりなさい!」
問答無用とばかりに、ロベルタ伯爵夫人が再び腕を振るう。二度目の乾いた音が響くと、使用人たちが目を見開いて身体を強張らせた。春の温もりも、一瞬で奪い去るような緊張が漂う。
ペーターは
「使用人たちの前で二度もぶつなど、あんまりの仕打ちです。すでにお母様は、外道の術にでも
「外道とつながりがあるのはお前でしょう。怪しげな呪い師とつるむような真似は慎みなさい」
「お母様に、なにがわかるというのです!?」
「部屋に戻って、頭を冷やしていらっしゃい」
「言われずとも!」
大きく肩を怒らせたペーターが、
「爵位の継承は、当主の死が前提のはずだ。病に侵されているとはいえ、現伯爵は未だ健在だろう。不幸中の幸いだが、バンシーの泣き声を聞いているのなら死期が近いわけでもない。だが彼は、まるですぐにでも家督を相続しようという勢いだ。なぜ、そうなる?」
「夫は床に
するとウルカが小馬鹿にしたように唇の端をつり上げ、「あんな馬鹿息子でも可愛いか」と肩をすくめる。しかしロベルタ伯爵夫人は顔色を変えることなく
「馬鹿なだけの息子なら、可愛いものでしょう。最近は妙な
「あれだけ私たちを外道呼ばわりしておきながら、自分は呪い師に入れ込んでいると?」
「不幸があれば、人は神秘に頼りたくなるものでしょう。息子の無礼は謝罪しますが、わたくしもこのような事態でなければ闇祓いという存在を認めることはありませんでした」
不幸――その意味するところは語らず、ロベルタ伯爵夫人は背を向けた。息子の詮索は不要だといわんばかりの態度に、ユウリスが顔をしかめる。
「息子のペーターを含めて、屋敷の人間は漏れなく調査する必要がある」
「用があれば家中の者にお申しつけください。すでに話は通してあります。ではディアン・ケヒトの闇祓いたち、あとのことは任せましたよ」
そう言い残して、ロベルタ伯爵夫人は立ち去った。その後ろ姿に憂いはなく、呪術や怪物を恐れる気配は
ユウリスは思案気に目を細めると、ウルカを促して屋敷の中を歩き回った。
「とりあえず、聞き込みだな」
家中の者はバンシーの声どころか姿も見ておらず、不吉な影に怯えるばかりで話しにならない。当主のデリックは想像以上に
「ウルカ、バンシーの嘆きに例外はないのか?」
「私の知る限りは、存在しない。マルガリタの講義も役に立たなかったようだな」
「いちいち他の闇祓いから学ぶことに嫌味を言わないでくれ。パーヴァルに剣を習っても同じ反応をするつもりか――いや、思い出した。ウルカ、外に出よう」
「まさかパーヴァルにも教えを乞うたのか?」
ウルカは舌打ちしながら屋敷を出た。闇祓いの
「嫌な偶然だ。俺はルッカ・マギニスという女に会ったことがある」
「死んだ使用人の名前だったな。別件の関係者か?」
「いや、ルッカはパーヴァルの愛人だ。あいつに頼まれて、俺が手紙を渡しに行った」
「ああ、魚の目玉と
「そうだ」
そう言葉では肯定しながらも、ユウリスは溜息まじりに頭を振った。既婚者のルッカと不貞を働いていたのは、よりにもよって仲間の闇祓いだ。呆れたように苦笑したウルカが、西の方角に親指を傾ける。
「いまからでもパーヴァルを呼びつけるか」
「よせよ、ルッカが死んだと知ったら悲しむ。手紙の内容は本気だった」
「読んだのか?」
「ルッカ・マギニスが破り捨てたのを、少しだけな。なかなか情熱的な詩だった」
ウルカは吹きだすが、ユウリスの表情は冴えない。彼は屋敷の角に身体を向けると、塀と建物に挟まれた影に鋭い視線を投げつけた。
「誰だ、出てこい」
「冗談だろう、なんでわかった?」
驚いた表情で姿を見せたのは、ペーターだった。次期ウィットフォード伯爵は両手を掲げて降参の意を示すが、屋敷の影から踏み出そうとはしない。彼は複雑そうな表情で、二人の闇祓いを交互に見据えた。
「お前たちに用がある。わざわざ二階の窓からシーツを垂らして抜け出してきたんだ。お母様には聞かれたくなく内容だというのは察してくれ。とにかく話しているところを誰かに見つかると面倒だ、さっさとこっちに来い」
「まるでお姫様だな」
そう軽口を叩いたウルカは、
「ぼくはウィットフォード伯爵だぞ! そんな態度をとっていいと思っているのか?」
しかしウルカに振り返る気配はない。ユウリスは苦笑して、片手を掲げた。
「彼女は誰に対してもああなんだ、いちいち気にするな。話は俺が聞くさ、次期伯爵殿」
「
「一度、オグマで髪の色を変えようとしたことがある。あのとき染料が肌に合わなかったのを、たまに悔やむよ。赤毛になっていれば、お前のような
「ぼくに嫌味を言うなよ。まあ、冗談さ。グレース宣言は、ぼくだって知っている。正直、ワクワクしたよ。民衆に石を投げられるのを承知で、すべての罪を被った少年。忌み子の真実も含めて、なかなか面白かった。だが感謝しろよ? ウィットフォード家は、お前を支持するほうに投票したんだぜ。いま追われる立場になっていないのは、ぼくの家のおかげでもあるんだ」
「無駄話をする気分じゃない。さっさと用件を言え」
「ふん、生意気な黒髪だな。次に誰が死ぬのかを教えてやろうというのさ」
ユウリスは眉をひそめると、「なんだって」と聞き返した。その反応に気を良くしたペーターが、にんまりと笑って白い歯を見せる。次代の伯爵は腕を組むと、白い手袋に包まれた人差し指を軽快に揺らした。
「お母様には決して漏らさないと誓えよ」
「内容によるな」
「
「夫人は、隠し子の存在を知らないのか?」
「当たり前だ。イエヴァの母親は、この屋敷の使用人だったんだぞ。結婚を期に辞めたが、そのときにはすでにお父様の子を身ごもっていたらしい。なにも知らない新郎は、自分の娘じゃないとは知らずに過ごしていたんだろうな。哀れなもんだ」
「闇祓いは、人の悪意を祓いもする。だが、お前のような奴に破邪の作法は必要ない。子供に、なんの罪がある。真実を知らなかった父親が、そんなに
血液を巡る酸素が失われると共に、景色と音が霞む。無我夢中で頷いたペーターは、解放されると同時に
「イエヴァの両親は?」
「ごほ、ごほ、正気か、お前!? ぼくは伯爵だぞ! こんな暴力を振るってただで済むと――」
「夫人には、ひとまず隠し子の存在を黙っておいてやる。それでも文句があるのなら好きにしろ。バンシーの嘆きがひとつ増えることになる」
「伯爵を脅かすつもりか?」
「次期伯爵だろう。だがどちらでも関係ない。イエヴァの話を聞くために、必要ならなんでもするさ」
「ああ、くそ、わかったよ。イエヴァの両親は事故で他界している」
「まさか母親はルッカ・マギニスか?」
「いや、ぜんぜん関係ない別人だ。結婚を期に辞めたと言っただろう」
「イエヴァは、いま誰と住んでいる?」
「祖父と二人暮らしのはずだ」
「わかった。場所は東地区の色塗り横丁だったな。また話を聞きに来る。次は手をかけさせるなよ」
ユウリスは外套を翻し、ペーターに背を向けた。屋敷の外に出る前に、フードで顔を覆い隠す。ブリギット領において、黒髪は不吉の象徴だ。余計な関心は引きたくない。
「ウルカは……?」
門から少し離れた場所に、目当ての人物はいた。屋台で購入したらしい羊肉の串焼きを二本、両手に握って満足そうに鼻歌を
「遅かったな、ユウリス。脅しでもかけられたか――いや、顔色が悪いぞ?」
「慣れない脅しをしかけたのは、相手じゃなく俺のほうだからな。そういうわけで、せっかく用意してくれた串焼きも食べられそうにない。ああ、断わる前から食べられていたようだから、ちょうどよかったな」
「可愛げのない弟子だ。なにがあった?」
「たいしたことじゃないが、手がかりを得た。まずは東地区に向かおう」
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