01 伯爵家の依頼

 西の果て、リル渓谷を越えた先に水と丘の大地がある。怪物と妖精が跋扈ばっこするトゥアハ・デ・ダナーンの世界にあって、一切のけがれなき女神の秘境。海と陸を隔てる大瀑布を背負い、その白煙に包まれた砦を人々はディアン・ケヒトと呼んだ。ゲイザーと呼ばれる闇祓いの師弟していは、この聖域よりきて還るという。




「正直に申し上げますが、わたくしは呪いや怪物といったものには懐疑的な立場です」


 ロベルタ・ウィットフォード伯爵夫人はくしゃくふじんは、思慮深しりょぶかい眼差しで正面の二人を見据えた。


 紅茶の湯気が立ち昇る卓の向かいに、若い男女がいる。


 双方ともに絢爛豪華けんらんごうかな応接室には似つかわしくない、くたびれた旅装りょそうだ。しかしどちらも粗野な雰囲気はなく、高貴な空気が漂う中でも不思議と違和感はない。


「無論、すべての怪事を否定しているわけではありません。当家にもブラウニーはおりますし、幼い頃にはゴブリンにモームのふんを投げつけられもしました」


 なにを言い繕ったとしても、向かいの男女が反論してくるわけでもない。その二人は窓から差す日の光を浴びても、影を落とさない――彼らは、闇祓いの≪ゲイザー≫と呼ばれる者たちだ。


「ですが呪いや怪物は、暗鬱あんうつとした閉塞感へいそくかんの証。往々にして辺境へんきょうの産物でしょう。バレスのような大都市には、似つかわしくない現象のはずです」


 先に反応を見せたのは、黒髪の青年だった。長い睫毛の奥で、焦げ茶色の瞳が戸惑い気味に揺れている。暗い色の旅装束に包まれた肩をすくめて、彼は緩やかに頭を振った。


「言いことはわかるし、主義主張も好きにすればいい。だが俺たちは、われてここに来た。≪ウォッチャー≫からは、貴女が闇祓いを必要としていると聞かされている。それは勘違いか?」


 ≪ウォッチャー≫と聞いて、ロベルタ伯爵夫人は驚いたように目を見開いた。


 闇祓いを意図的に召喚する方法は限られており、風の妖精に便りを託すか、得体の知れない≪ウォッチャー≫なる怪物に願いをかけるか、あるいは個人的に連絡のつく伝手を頼るか、その三択しかない。


「たしかに≪ウォッチャー≫とやらを呼び出す儀式を試しましたが、手応えがあったようには感じられませんでした。庭に不審な男が立っていたことはありましたが、まさかあれが?」


「それが≪ウォッチャー≫だ。奴らはいつも不気味な姿で、どこにでもいる」


「お二人は、カルフ家の伝手でいらしてくださったものだとばかり思っていました」


「俺は≪ウォッチャー≫の頼みを聞いたが、隣の彼女――ウルカは、カルフ家の紹介だ。そうでなければ、二人の闇祓いが同時に動くような事件じゃない」


 青年の物言いは事態を軽んじているようで、ロベルタ伯爵夫人は不快そうに眉をひそめた。


 彼のかたわらでは、ウルカと呼ばれた闇祓いが不遜ふそんに足を組んでいる。うなじで結った亜麻色の髪と、頬のそばかすが特徴の凛々りりしい女性だ。外套の内側には鉄の胸当てを装備しており、紺碧の瞳は剣呑けんのんな光を帯びている。


 つまらなそうに、彼女は鼻を鳴らした。


「この余計なおしゃべりは、いつまで続くんだ?」


「余計とは心外ですね。貴方たちのような闇祓いは、その住処が世界の果てにあると伺いました。田舎者の無作法に目くじらを立てるほど、わたくしも嫌味な女ではありません。しかし都会には都会の流儀があります」


 邸宅の外に広がるのは、芸術の都バレスだ。


 豊穣国ブリギットにおける流通の要所であり、聖王国ダグザと神聖国ヌアザに繋がる旅の中継地点としても栄えている。


 昼下がりの温もりに照らされた街並みは、古き良きグレスミア朝時代の建築様式で統一されており、軒を連ねるのは塔のように伸びた三角屋根の母屋だ。耳を澄ませれば弦楽器の音色と吟遊詩人ぎんゆうしじんの歌が届き、石畳は車輪とひづめの調べを絶やさない。


「ユウリス殿とウルカ殿には、当家の客人であることをわきまえて調査に当たっていただきたいと、そう申し上げているのです」


「ならばお前も、依頼人という立場をわきまえるべきだな」


 ウルカは睨みつけるように、依頼人である伯爵夫人を見据えた。


 ぴんと背筋が伸びた妙齢の女性だ。すっきりと着こなしたチェニックにはしわの一つも見えず、ひざの上に置かれた指先にすら乱れがない。痩せこけた頬だけが、裕福な屋敷に似つかわしくない不健康な印象を与える。


「カルフ家と≪ウォッチャー≫。依頼が重複したのは、そちらの責任だ。この件には、私とユウリスが当たる。だが二人の≪ゲイザー≫を召喚した分の料金は、きっちり支払ってもらうぞ」


「二倍の報酬をご用意しましょう。ですが大口を叩く以上、仕事もきっちりとこなしていただきます。家人に危険が及ばぬよう、よくお勤めなさい」


 そこで黒髪の青年――ユウリスが「だが」と口を挟んだ。


 依頼の内容は、あらかじめ把握している。闇祓いを頼りにする依頼は、大半が怪物か妖精絡みだ。今回も例に漏れず、ウィットフォード伯爵家は妖精に悩まされている。


 その妖精の名は、バンシー。

 家に隠れ棲みながら、家人の死を泣いて知らせるという伝承の存在だ。


 ロベルタ伯爵夫人は、バンシーの嘆きに悩まされているという理由で≪ゲイザー≫を召喚した。


「バンシーが泣くのは、運命の兆候だ。死すべき者をむりやり生かすのは、≪ゲイザー≫の仕事じゃない」


 ウルカも相槌あいづちを打ち、テーブルに置かれたティーカップへ手を伸ばした。湯気が消えていることに気づいたロベルタ伯爵夫人が代わりを用意させようとするが、彼女が片手で制する。


 冷めた紅茶を飲み干して、闇祓いの女傑じょけつは目を細めた。


「バンシーは善良な家憑いえつき妖精だ。家人の死が近づいたときに泣いて報せるのは、怖がらせるためじゃない。別れの時間を与えようという、慈悲の心だ」


「承知しています。バンシーは凶事の先触れだけでなく、祝い事にも欠かせません。わたくしが息子を身篭みごもったときにも、先んじて安産を約束してくれました」


「そこまでわかっているなら、なぜ私たちを呼んだ?」


「バンシーの嘆きに、納得できない部分があるからです」


「定められた運命を覆そうとすれば、次は首なし≪デュラハン≫がやってくる。死の鎌に狙われてしまえば、どちらにせよ命はない。遺体は先祖の墓標ではなく、戦車が引き棺桶かんおけで眠ることになるぞ」


「わたくしを脅すつもりですか?」


「そうだとしても、お前たちは金で命を守れると信じているんだろうな。私たち以外の、誰が助けになれるのかは知らないが」


 伯爵夫人と闇祓い女傑が繰り広げる、不毛な応酬。


 そこでユウリスが「二人ともいいかげんにしろ」とたしなめるように口を挟んだ。二人の女性から刺すような視線を向けられても、彼は構わずに続けた。


「ロベルタ伯爵夫人 俺たちを下賎げせんの身としてさげすむのは勝手だ。だが敬意の欠片もないのなら、この仕事は受けない。ウルカも、喧嘩腰になるのはよせ。彼女は依頼人で、仕事をこなせば金を払うと言っている。俺たちにとっては、それで十分なはずだ」


 ウルカは不機嫌そうに鼻を鳴らし、顔を背けてしまった。彼女はユウリスにとって、闇祓いの師にあたる。もう十年以上の付き合いだが、たまに見せる子どもぽい仕草はいつまで経っても変わらない。


「ウルカ」


「うるさい、文句があるならお前が仕切れ」


 ロベルタ伯爵夫人は、抜け目なく二人を観察した。そして黒髪の青年のほうが話を通しやすそうだと判断したらしい。


 彼女は居住いずまいをただして話を続けた。


「お若いのに筋を通されるのね。黒髪のユウリス――貴方を目の前にして少しは身構えたものですが、それは間違いでした。けれど最初は、出迎えた家令にジュダと名乗られたそうですね?」


「普段は、そっちの偽名で通している。ウルカが余計なことを言わなければ、滅多にユウリスを名乗ることはない。いちいち詮索はしないでもらいたいな」


「そしていまも、かたくなに家名を名乗ろうとはなさらない」


「聞こえなかったのか、詮索は無用だと言った」


「邪竜事変の経緯について、ブリギット貴族連盟は教会の裁定を支持すると決めました。個人的にも、首都復興に尽力したレイン家の弁明は信じるに値すると思っています。貴方が考えるほど、それは悪名でもありませんよ。民間はともかく、高貴な者たちの間では名もなき英雄と呼ぶ者もいます」


「気遣いには感謝する。だが、もう俺とはなんの関係もない話だ。それより本題に入ろう」


「ええ、そうですね」と彼女は頷いて、ウィットフォード家に起きた奇妙な出来事について語りはじめた。


「屋敷の庭にバンシーが現れたのは、ひと月前の夜でした」


 ほつれた黒い髪と、赤く腫れた目。緑色の長衣と灰色の外套がいとうを羽織った女は、綺麗に整えたばかりの芝生に座り込み、すさまじい声で泣きわめいた。それは獰猛どうもうな犬の遠吠えであり、赤子の夜泣きであり、出産に喘ぐ女のようでもあり、一度でも耳にすれば忘れることのできなくなる不気味さを孕んでいた――と、伯爵夫人が身を震わせる。


「それからというものバンシーは毎夜、同じ庭先で泣いていました」


「バンシーが泣けば人が死ぬ。つまり家族の誰かに、命の終わりが近づいているということだ」


「もちろん存じ上げております」


 その嘆きは死を迎える本人にだけは届かず、運命に選ばれた物が命を落とす日まで止まらない。


 ロベルタ伯爵夫人は覚悟を決めていた。そうというのも、夫のデリック・フォン・ウィットフォード伯爵が長く床にせっていたからだ。当主の死期を悟って、家人は誰しも涙した。


「家人は皆、バンシーの泣く声を聞いて夫が長くないのだと思い込んでいました」


「この屋敷に血縁者は何人いる?」


「本家筋ではわたくしと夫、息子が一人。それからウィットフォード家に縁のある親族がよく泊まりに来ます」


「伯爵本人には確認しなかったのか?」


「本人に報せて怖がらせることもないと、黙っていることにしました。せめて安らかに最後を迎えられるようにと」


 しかし事態は一変する。


 十日後、女中のルッカ・マギニスが階段から転落して命を落とした。その直後からバンシーはぴたりと姿を見せなくなり、デリック伯爵は現在も闘病生活を続けているという。


「待て、それはおかしいだろう」


 ユウリスは話を遮ると、怪訝そうに眉をひそめた。


 バンシーは家人の死を予見するが、それは血縁者に限った話だ。基本的に使用人は含まれない。「それも承知しております」とロベルタ伯爵夫人は頷いた。


「わたくしも、ウィットフォード家の歴史ではじめての出来事だと聞いています。ルッカが亡くなってすぐに、彼女の夫に話を通して家系図をさかのぼりました。しかし当家との縁はなく、なぜバンシーが女中の死を嘆いたのかはいまもわかりません」


 あとになって確認したところ、デリック伯爵にもバンシーの泣く声は聞こえていたという。しかし老齢故の幻聴と思い込み、放置していたそうだ。


 ロベルタ伯爵夫人は、控えている女中に紅茶を替えるように命じた。しかし新しく湯気の立つティーカップが運ばれてきても、彼女の指が伸びる気配はない。


「ルッカは、十五から当家に勤めていた古株の女中でした。ひょっとしたらバンシーは、彼女を家人と間違えたのかもしれません。そういうこともあるのだと、わたくしは自分を納得させようとしました。実際、そこで終われば闇祓いを召喚しようとは思わなかったでしょう。しかしバンシーは、再び現れました」


 数日前、新月の夜。


 ウィットフォード家の庭に再び響いた死の予兆に、家人は漏れなく震え上がった。それから今日に至るまで毎晩、悲痛な嘆きは続いている。


「今度は、すぐに家族全員へ確認をしました。父も含めて、この屋敷に住む一族の全員がバンシーの叫び声を耳にしています。このような異常事態も、二度目となれば捨て置けません。わたくしは、当家が何者かに呪われているのではないかと考えています。もちろん恨まれる筋合いはありませんが、そこは貴族ですから綺麗事は申しません。お二人には、この禍事まがごとの元凶を断っていただきたいのです」


 ロベルタ伯爵夫人の話を聞き終えて、ユウリスは思案気に目を細めた。


 傍らのウルカは新しく運ばれてきたティーカップを口に運び、口を挟む気配もない。しかたなく、彼は思いつく限りの疑問を口にした。


「誰かに呪われているとして、その犯人に心当たりは?」


「いま申し上げたように、特別に恨まれるような覚えはありません。家は流通の権利を管理しておりますが、そこで目立った諍いがあったということもないと思います」


「屋敷で働く使用人に、バンシーの声は?」


「いいえ、誰一人として聞こえていないようです」


「バンシーの嘆きは、遠く離れた者にも届くという言い伝えがある。遠方に住む親類縁者が不幸にう可能性は?」


「まず、市内に住むわたくしの実家では誰もバンシーの声を耳にしてはいません」


「そうだろうな」


 家憑き妖精であるバンシーは、とりいた家の人間にしか運命の予兆をもたらさない。例外として、嫁いできた伴侶は家族としてみなされる場合が多いので、いつかは伯爵夫人の死を嘆く声も響くだろう。しかし、その泣き声を耳にするのはウィットフォード家の人間のみになる。生まれ育った実家に妖精の声は届かない。


 彼女も承知しているのか、相槌を打って先を続けた。


「当家の血縁者に絞れば、親戚の多くはバレスに住んでいます。彼らにもバンシーの嘆きは届いていましたが、その声を耳にしなかった者はおりません。しかしルアド・ロエサに留学している二人の甥は、どちらも叫び声を聞いていないと言っています」


「つまりバンシーの嘆きが届く範囲は、バレス市内に限定されているというわけか。だが一人は声を聞かなかった者が出るはずなのに、なぜか全員が耳にしている――なるほど、たしかに奇妙な事件だ」


 バンシーが泣けば、家族の誰かが死ぬ。


 だが嘆きを耳にした者は、命を落とす対象ではない。それが全員に聞こえているということは、死ぬのは別の何者かということになる。


 それこそルッカ・マギニスのように、使用人の可能性も捨てきれない。


「調査をお引き受けくださいますね?」


 ユウリスは首肯して、ウルカに視線を向けた。

 彼女も異論はなく、先に椅子から立ち上がる。


 そこで屋敷の外から、門のきしむ音が聞こえた。

 蹄と車輪は慌しく駆け込んでくると、次いで若い男の怒声が響き渡る。


 顔をしかめたロベルタ伯爵夫人が、重苦しい息を吐いた。


「息子が帰ってきたようです」

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