19 End of the Prologue

「それは許さないわ」


 そう否定しながら前へ踏み出そうとしたイライザを、ユウリスは視線で制した。


「イライザ、ごめん。レイン家には迷惑をかけるけど、他に方法もなければ時間の猶予すらない。キーリィは用意周到に計画を進めてきた。ここで詰めを誤るとは思えない。すぐに決めて実行に移さないと、手遅れになる」


「あんたは、もう十分にやり遂げたでしょう。独りですべてを背負い込むなんて、そんな必要はないの!」


「いまこの場で、キーリィの悪意を肩代わりできるのは俺しかいない。レイン公爵を殺し、街を恐怖に陥れた呪いの子供――これ以上に刺激的な話題が、他にある?」


 答えを待つつもりはない。最適な方法ではないと、ユウリス自身も理解している。それでもこれが、たったひとつの冴えたやり方。だから瞳は揺るぎなく、声に淀みはない。


「忌み子の災厄が、その役目を果たすときがきた。十五年間の苦労も、これで少しは報われる」


 晴れやかな表情で語り終えたユウリスに、イライザはなんとか反論の糸口を探そうとした。公爵代理の懊悩おうのうを横目に、アーデン将軍が槍の柄で土を叩く。


「だがよ、そりゃ無理がねぇか? ユウリス坊ちゃんが戦ってる姿はタラの丘、市街地、そして此処でも、みんなの目に晒されてるぜ。いまさら敵でしたなんて、信じるかね?」


「それを信じさせるのは、教会の仕事です。忌み子の凶事をずっとでっちあげてきたんだ、できないとは言わせない」


 ユウリスの強い眼差しを受けて、ミュラー司教は厳かに頷いた。この場には市長、ウィッカの盟主、領邦軍の長、そして公爵代理が首を揃えている。結託すれば、陰謀の一つや二つを実現するのは容易なはずだ。


 イライザは覚悟を決めて、大きく息を吐いた。


「ユウリス、あんたは馬鹿ね。それでも自慢の弟だわ」


「ごめん、イライザ。でも、もう家族ではいられない」


「なんとかするわよ。それより、まずノドンスに行きなさい。アナが力を使い果たしているせいで、転位の魔術でひとっ飛びとはいかないけれど」


「ヌアザに?」


 ブリギットの隣国、神聖帝国ヌアザの首都ノドンス。


 不意に行く先を告げられて、ユウリスは首をかしげた。そのかたわらで、なるほど、とウルカが腕を組む。


「保護留置か。≪ゲイザー≫として正式に登録を済ませれば、ブリギットに逮捕権はなくなる。そういうことだな?」


「ええ、邪竜の後継者ユウリス・レインは逃亡。警察は市内に潜伏していると見て、治安維持の片手間に捜査。市外は領邦軍の担当だけれど、片腕を失くしたアーデン将軍は一ヶ月間も生死の境をさまよって、うっかり指示をだし忘れる……これでいきましょう。ノドンスに着くまでの時間は、なんとしても稼ぐわ」


 さらに魔女たちを代表して、マーサが道中の支援を約束してくれた。大きな町には、必ずウィッカの拠点があるという。いつの間にか姿を消していたネイナとアーネストは、立派な装具一式に身を包んだ馬を二頭、森の奥から引いてきた。それを見て、ユウリスは言い難そうに師を振り返る。


「でも≪ゲイザー≫の身分を頼ったら、ウルカに迷惑がかかる」


「たかだか蜥蜴トカゲを一匹倒したくらいで、増長もはなはだしい。言ったはずだぞ、お前の判断と行動には私が責任を持つと。私が追われる身になったことがないと、本気で思っているのか?」


「でも……!」


「なら、そいつはどうする?」


 ウルカは返した手で人差し指を伸ばし、ユウリスの背後を示した。白い毛並みの魔獣が、悠然と佇んでいる。じっと相棒の少年を見据える無音の狩人かりうどに、相変わらず声はない。


 ただ想いはひとつだと、金色の瞳が語りかける。


 ……………………。


 ユウリスは片膝を落として、クラウの耳を撫でた。不思議と、ウルカに感じたような憂いは浮かばない。ただ自然の想いで、あるがままに心が紡ぐ。


「つらい旅になると思う。でも君と離れるなんて考えられない」


 だから、いっしょに来てくれる?


 そう問いかけようとして、ユウリスは言葉を呑み込んだ。こういう場面で、いつもクラウは不満そうに舌を伸ばす。苦楽を共にしてきた相棒が求めているのは、もっと深い関係だ。理解して、頷きかける。


「だからクラウ、いっしょに来い」


 ――――!


 声なき遠吠えが、少年の求めに応えた。


 おごそかに首肯しゅこうした白狼が、渋々ながらウルカに鼻先を向ける。促されたユウリスは再び師に向き合い、手のひらを差し出した。


「これからもウルカの教えが必要だ。俺を助けてほしい」


「最初から、そう言えばいいんだ。私の心配など百年早い」


 闇祓いの師弟していが、軽快に手を打ち鳴らす。小気味良さそうに鼻を鳴らしたウルカだが、その瞳が新たな憂いを帯びた。彼女の視線が、弟子の肩越しに一人の少女を認める。


 自然と振り向いたユウリスの前に、イライザが歩み出た。


「ユウリス、この子はどうするの?」


 姉の手に抱かれた、赤毛の少女。閉ざされた瞼は動かず、か細い呼吸を繰り返している。両手に巻かれた包帯には、寒気がするほどの血が滲んでいた。しかし灰と砂に汚れた相貌は、それでも可愛らしい。


 擦れた声で、ユウリスは愛しい彼女の名を呼んだ。


「カーミラ」


 この結末を思い描いた瞬間、誰よりも早く彼女の顔を思い浮かべた。どうずればいいか、まだ決心がつかない。そんなユウリスの髪を、背後からウルカが乱暴に撫でる。


「心に従え、ユウリス」


 師の優しさが、いまは残酷に思える。


 いっそ誰かに決めてもらえたらいい。


 ユウリスは震える指先で、カーミラの頬を撫でた。目頭が熱くなり、鼻の奥がつんと痛い。堰を切った想いが、雨のように零れた。我慢できないほどの苦しみが、胸の内を掻き乱す。けれど決めなくてはいけない。


 その答えは、震えた唇の隙間から吐息のように絞りだされた。


「……連れて、行けない」


 強く口元を引き結んでも、どこからか嗚咽おえつが漏れてしまう。少女の頬から手を離し、ユウリスは腫れた目元を拭いながら背を向けた。


 イライザが腕のなかの妹弟子と弟を交互に見つめ、懇願こんがんするように訴える。


「ユウリス、この子の願いはひとつだけよ」


「わかってる。でも、これにだけは巻き込めない。イライザ、カーミラをお願い」


 いつかの約束は果たされない。


 鉛のように重く感じるブーツを持ち上げて、ユウリスは踏みだした。彼女と二人で過ごしたかけがえのない時間が、縋るように肩や腕にまとわりつく。それでも止まれない。振り返れば、いつかきっと後悔する。


 強情に進もうとする少年の行く手を、クラウが塞いだ。

 白い毛並みが左右に振れる。


 …………。


 彼女を置いていってはいけない、そう諭すような相棒のしぐさに、ユウリスは哀しげに目を細めた。言葉はなく、そのまま用意された馬に歩み寄る。ウルカは肩を竦めて、弟子の決断を尊重した。闇祓いの師弟がくらまたがり、手綱たづなを握る。


 足を痛めて座り込んでいたキャロット市長が、疲れた目を少年の背に向けた。


「どう転んでも、ガブリフ議員の勝ちなのかもしれんな」


 咎めるようなイライザの視線に、孫を手にかけた老齢の男が泣くように笑う。


「呪詛とやらを跳ね返す代償は大きい、そうではないかい?」


「それは、そうね……私たちは偽りの英雄と引き換えに、真の勇者を失うわ」


 そしてひづめの音が二つ、音無き白狼がひとり、ゆっくりと大地を蹴りはじめた。光と闇のすべてを背負いながら、誰に讃えられることもない少年の旅立ち。


 ユウリスが囁いた離別わかれを、風がさらう。


「さようなら、ブリギット」


 木漏こもれ日よりも高い場所から、白い朝焼けがユウリスの背を照らした。しかし温かな熱を感じる時間は、すぐに終わる。荒廃した墓地を駆けて間もなく、オリバー大森林の鬱蒼うっそうとした闇に突入した。いつか徒歩で探索した深緑の世界は、あの頃ほど広大には感じない。それでも静謐せいひつの樹海を抜ける間に、頬は乾いていた。


 ウルカが不意に、手綱を緩める。


「この辺りは湿地と川が多い。馬の足を取られないように気を配れ」


 オリバー大森林の北部には霊峰ミネルヴァの威容がそびえるばかりで、人の手は行き届いていない。故に街道も整備されておらず、目の前に広がるのは緩やかに起伏した草原の景色だ。


 生い茂る緑の合間に点在する池は、どれも地下で通じている。源流となる西側の川は幅広く、水の勢いも早い。地の底から湧きあがるような急流に沿って、ユウリスは馬を走らせた。


 その名を呼ぶ声が、不意に対岸から響き渡る。


「ユウリス!」


 ユウリスはハッとして振り向いた。


 太陽の光に反射して、きらめく水飛沫。その向こう側に併走する、一頭の馬。その手綱を握るアルフレドが、濁流だくりゅうの調べを超えて声を張り上げた。


「お前、どこに行くんだ⁉ 僕に貸しをつくっておいて、返させもしない気か⁉ そんなの許さないからな! 行くなよ! 戻ってこい、ユウリス!」


 川幅は徐々に広がりはじめ、二人の距離は遠のく。


 どれだけアルフレドが喉を枯らしても、ユウリスは応えない。

 震えた呼びかけは、それでも情動のままに続く。


「お前なんか、大嫌いなんだ! 収穫祭だって、本当は僕の手柄だったんだぞ! それなのに、負けたままでいいのか⁉ もっと僕を見ろ! こっち向けよ!」


 馬は止まらない。

 やがて水の行く手が、大きく二股に分かれた。


 アルフレドは、別れの予感に唇を噛んだ。憎き好敵手はブリギットを去る。もう二度と、戻らないかもしれない。嫌だ、そう心から叫んだ。それは熱を帯びて、渇望かつぼうのように朝焼けの空へ木霊こだまする。


「ブリギットは、僕が守るから! 絶対に、もう誰にも負けたりしない! だから、帰ってこい! いつでもいいから、ちゃんと家に! 待ってるからな! 約束だぞ、ユウリス!」


 ユウリスは振り返らずに、馬の腹を蹴った。乾いたはずの頬が、痛みにも似た熱を思い出す。騎手の激しい想いを汲むように、ひづめが力強く若草を散らした。すべての音が青々とした野を抜けて、遥かな霊峰へ吸い込まれていく。


 くらを通じて突き上がる衝撃に、少年は顔を上げた。


「風が――」


 しとやかな自然の息吹が、夜色の髪を撫でる。

 澄み渡る空気に熱を奪われて、少年は渦巻く想いを地平に響かせた。


 西の果てに日差しが届き、黎明れいめいの時は終わりを迎える。


 手綱を緩めたウルカは、遥か頭上を滑る大鷲おおわしを仰いだ。その翼が北の尾根に消えるのを見届けると、彼女も遅れを取り戻すように再び馬を駆る。視界の先に捉えたユウリスとクラウのうしろ姿は、清々しくも切ない。


「白狼と少年、か」


 その呟きも、風にさらわれた。

 蒼穹そうきゅうの彼方に、旅路は続く。

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